占星術師が占星術大嫌いと言って何が悪い | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

 

占星術って、正解はない世界。

 

 

だから、最後はやり方は全員異なるし、解釈も

異なって来る。

 

 

同じ占星本を読み、同じ指導者に習ったから

って同じやり方とは限らないし、解釈も人それぞれ。

 

 

なぜなら、占星術は、

 

 

 

 

「占星術だけで出来上がらないから」。

 

 

 

 

だから同じ指導者から学んでも、占星術以外の

学識の高さ、占星術以外でどんな本を読んできたか、

どんな趣味を持ったか、どう生きて来たか。

 

 

 

そういうものが、その人の占星術を形作っていく

のであり、指導者から学んだそのまま、という

ことにはならない。

 

 

 

占星術だけでは満足できなくて、四柱推命とか、

宿曜とか、インド式占星学とか風水、算命、

紫微斗数、数秘術、易。。。。etc。。。。

そういうのを学びに行ってブレンドしてしまう

人もいるし、かけ合わせのオリジナル解釈法に

なっていくのだよ不思議と。。。。

 

 

 

 

つまり占星術というか、占術は、最後はみんな

オリジナリティってことになる。

 

 

 

オリジナリティでいいならなんで勉強に行く??

 

 

 

 

うーん、オリジナリティっていきなりは作れないから。

 

 

 

 

そういうことになるかな。

 

 

 

だから絶対これが正しい、正しくないとは

言えないシロモノ。ところが占い師って、

誰の読み方は間違えてるとか、そんなことは正統派

じゃないとか、すぐ術論でディスり合戦になってしまう。

 

 

 

でも、争うべきはそこなのだろうか。

 

 

 

私は、占い師が火花を散らすとしたら、

唯一、競うべきは術論の正しい、正しくない

ではなく、どこまでも「人格」「マインドのひろさ」

で競うべきだと思うのだ。

 

 

 

 

すなわち、「術論」などという、最後はオリジナリティ

でしかないもので、互いの作風でしかないもので、

あいつの言説は違うとか、おかしいとかではなく、

 

 

 

 

そんな些細なことに目くじら立てる

自分自身の器の小ささ

 

 

 

 

こそを戒めなくてはいけないのかも知れない。

 

 

 

 

そして「術論」で、どこまでもヒトに

マウントするのではなく、「人と喧嘩する

くらいなら私は占星術を捨てるよ」という、

ことじゃないだろうか。

 

 

 

 

占星術<人間

 

 

 

なのだ。占星術を通して社会と、人とぶつかったとき

 

 

 

 

「ああ、占星術なんておにくそ

どーーーでもいいんスよこんなもの」

 

 

 

って捨てられる占星術師が、真に

器の大きな占星術師なのかも知れない。

 

 

 

そして

 

 

 

 

「占星術などにあなたの価値は決められない

のだから、占星術をなじっていい。屈服する

必要も信じ込む必要もない。あなたのほうが

星より偉い」

 

 

 

と、いいきる占星術師がいて何が悪いのだ?

とも思う。

 

 

 

しかし同業者は、そんな私をまぁ、批判

するのだが。。。 占星術なんかより

人間のほうが偉い、人間は星の運行なんか

よりはるかに偉い。ホロスコープなどより

心のほうが大きいというと、なんだか

それを受け付けない感じ。

 

 

 

 

占星術なんか死ねカスぅ!!!!

っていう人が占星学を勉強しちゃいけない

法律はないし、占星術師が「占星術なんかクソ

だからやめろ」といって犯罪なわけではない。

 

 

 

そういうところが、この世界のみみっちい、

器の小さい所で大嫌い☆彡 チネばいいのに☆彡

 

 

 

おわり。