【要旨】
● 中国が、日本産海産物全面禁輸を正当化しようとするなら、恐らくは「一般的例外」か「予防原則」のどちらかだろう。どちらもそれ程筋がいいとは思わない。

● ただ、中国の法戦能力は結構高い。軽い気持ちでWTOに提訴すると勝てない可能性がある。

【本文】
 福島第一原子力発電所の処理水放出に対する中国の海産物全面禁輸については、科学的に見ればその主張が合理的なものでない事は明らかです。そして、彼らも本心ではそれは分かっていると思います。しかし、それでもあれだけの反応をするという事は、「ああいう反応をしないと、現政権が中国国内の政局で厳しい立場に置かれる。」という事でしょう。

 

 つまり、対中包囲網的な動きが進む中、日本に何かのネタで一発ガツンとやるべきという強い勢力がおり、その主張に応えておかないと、国内で「何やってんだ」とばかりに後ろから矢が飛んで来るという事なのだろうと思います。要するに、あの過剰反応は「国内向け」でしょう。なので、これは厄介です。理屈は無いけど、内政上言わざるを得ないというのが最もやりにくいです。論理的な説得が落し所にならないからです。2020年くらいから豪州と中国の関係が悪化し、中国は例えば豪州炭を禁輸しましたが、その解除の議論については2年半くらい掛かっています。日本についても、ここまで(理屈無く)振り上げた拳を降ろすには、それなりの時間が掛かるとみておくのがいいでしょう。

 

 さて、その上でこの全面禁輸については、普通に見れば通商法の基礎であるWTO協定に違反する所が数多くあります。なので、何らかの形で中国はこの措置を正当化しようとするでしょう。その際、どのような理屈があり得るだろうかと思考を巡らせてみました(なお、中国を庇う意図はなく、相手の戦略分析の類です。)。

 私が見る限り、2つの可能性があります。「(GATTにおける)一般的例外」か「予防原則」のどちらかでしょう。なお、この2つは法理論上は同根です。

 まず、GATTという国際条約には、一般的例外として「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」ならば自由で公正な貿易に反する措置を取ってもいいですよ、という規定があります。


《GATT第二十条(一般的例外)》
この協定の規定は、締約国が次のいずれかの措置を採用すること又は実施することを妨げるものと解してはならない。ただし、それらの措置を、同様の条件の下にある諸国の間において任意の若しくは正当と認められない差別待遇の手段となるような方法で、又は国際貿易の偽装された制限となるような方法で、適用しないことを条件とする。
(略)
(b) 人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置
(略)

 ただ、この「必要」を措置を講ずる国が勝手に判断していいわけではありません。客観的に判断されるべきものです。過去、それなりにこの規定を使った例外を主張した国はありましたが、WTOの紛争解決手続きではほぼ認められていません。私の記憶が正しければ、ECがアスベスト関連で制限措置を取った時くらいかなと思います。

 では、もう一つの可能性ですが、これはいわゆる「予防原則」と呼ばれるものです。「証拠ははっきりとしないんだけど、危険な可能性があるから衛生検疫措置として予防的に貿易を制限します。」というものです。根拠とされるのは以下の協定です。

《衛生植物検疫措置の適用に関する協定第五条(危険性の評価及び衛生植物検疫上の適切な保護の水準の決定)》
(略)
7. 加盟国は、関連する科学的証拠が不十分な場合には、関連国際機関から得られる情報及び他の加盟国が適用している衛生植物検疫措置から得られる情報を含む入手可能な適切な情報に基づき、暫定的に衛生植物検疫措置を採用することができる。そのような状況において、加盟国は、一層客観的な危険性の評価のために必要な追加の情報を得るよう努めるものとし、また、適当な期間内に当該衛生植物検疫措置を再検討する。
(略)

 予防原則というと分かりにくいですが、例として「害虫も食わないような遺伝子組み換え作物は危ないかもしれないから禁輸する。」、「筋肉ムキムキのホルモン牛は将来健康被害になるかもしれないから禁輸する。」というイメージです。なお、遺伝子組み換えも、ホルモン牛も具体的に何かがヤバいと証明された事はありません。ただ、日本でも世論調査を取ると、かなりの方が懸念を有している事が分かります。

 

 これをよく使うのはEUです。EUとアメリカとの間には長らく、「危ないかもしれないから制限する」と「危ないと証明されない限り制限するな」の理念の違いがあります。そして、この予防原則による貿易制限措置について、これまでWTOに提訴された事はありますが、大体玉虫色的に解決が図られ、WTOが確定的な判決を出した事は無かったのではないかと思います(違っていたらすいません)。つまり、予防原則を持ち出して取ってきた措置が、本質的にOKなのか、ダメなのかの確定的な判断はなされていないという事です。

 

 そして、今回、中国はこの予防原則を持ち出して、「日本の海産物は危ないかもしれないから、予防原則を適用して禁輸した。」と言って来るかもしれないな、と思っております。ただ、科学的証拠が不十分という根拠は出せないでしょう。EU vs. アメリカでもいつもそうだったのですが、「安全でないという証拠を出せ」という日本に対して、中国は「安全だという証拠を出せ」という悪魔の証明を求めて議論が膠着する構図です。ただ、それでも中国の主張には無理があるので、私は日本がWTOに提訴すれば勝てると思います。

 

 しかし、法戦における中国の能力を侮ってはいけません。中国の通商関係者は、相当にレベルの高い議論を展開する能力があります。そして、福島原子力発電所関連で韓国が取っていた禁輸措置について、2019年、日本は韓国に敗訴した事を忘れてはなりません。ただですね、今のWTOの紛争解決手続きは、最終審となる上級委員会において、アメリカ(トランプ政権)が委員の選任をブロックしてきたため、欠員による機能不全です。仮に日本が第一審(パネル)で勝ったとしても、中国が上訴してしまえば、上訴審の可能性が閉ざされているため塩漬けになる可能性大です。

 

 最後にちょっと毛色の違う通商ネタを一つ。今回、中国の前捌き係として、香港が日本の水産物を禁輸しています。中国の意向を受けての事だというのは明らかです。通商法上、香港(やマカオ、台湾)は中国とは別扱いでした。WTOにおいては、国だけでなく、「独立の関税地域」というカテゴリーで加入する事が出来ます。中国とは異なる通商政策を有していると見做されているから、そのような扱いがなされています。しかし、今回の経緯を見ていると、とてもそうは思えません。であれば、現在の香港の「独立の関税地域」としてのステータスを維持する必要があるのかも問われるべきです。


 かつて、中国が事実上香港を制圧した際、当時のトランプ政権は香港製品に「中国製」と明記するよう要求する措置を取りました。この措置について、WTOの紛争処理の場でアメリカは負けています。そういう経緯はあるので、簡単な事ではありませんが、日本として香港の「独立の関税地域としてのステータス見直し」の議論を再提起するくらいの気持ちは持ってもいいのかな、と思いましたね。