今日、国会にLGBT法が提出されるはずです。元々存在していた議連案と(党内議論で若干の変更を加えた)自民党・公明党案が併存する形になると思います。審議するのであれば、私が所属する内閣委員会に付託されるでしょう。先日、自民党の提案者と衆議院法制局からお話を聞きました。

 

 自民党による変更点の一つとして、「性自認」を「性同一性」という表現に変えました。普通に読むと「性自認」は主観、「性同一性」は客観の要素が強いです。ただですね、用語の定義規定に変更が無いのです。いずれであっても「自己の属する性別についての認識に関するその同一性の有無又は程度に係る意識」です。「意識」である以上、「性自認」も「性同一性」も主観であるはずです。その点を衆議院法制局に確認した所、「主観」との回答でした。

 

 そうすると、「主観である性自認あるいは性同一性『のみ』に依拠した判断は何処まで許容されるのか。」という当然の問題意識が出て来ます。出来るだけ「カミング・アウト」みたいな事をしなくても穏やかに暮らせる世の中であるべきですが、性自認のテーマについてどうしても公権力が性別を分けなくてはならない事があります。私が強く意識しているのが「刑務所」です。少し前の「The Economist」で、レイプ犯として有罪になった者が性自認として女性を主張し、女性刑務所に入ったというスコットランドの事例が取り上げられていました。私の感覚では「さすがにこれは無いだろう」と思うわけですが、スコットランドのニコラ・スタージョン首相(最近辞任)は主観を重視する方向性をずっと追求して、中央政府と争って来ました。

 

 日本のLGBT法にある通り、私もLGBTの方々に差別する事は許してはならないですし、あってはならないと思っています。他方、上記のような限界事例について、一定の区別を設ける事は避けられないと思います。私から「不当な差別はあってはならないが、合理的な区別を設けざるを得ない所はあると思う。それはこの法律によってどうなのか?」という問を提案者にしました。この辺りはまだ明確になっていない印象を受けました。

 

 私は「差別は絶対にダメ。一方、合理的な区別は何処まで許容されるのか?」という議論をすべきだと思っています。特に公権力行使に際して、どうしてもその区別を設けなくてはならない分野を見極める作業をしないと、結果として当事者の方にも、非当事者の方にも良くない結果を招くと思うのです。「そんな事をしたら、パンドラの箱を開けてしまう」、その気持ちは分かります。しかし、ここから目を背けてはならないはずです。

 

 そういう基礎的な条件を整えた上で、差別不可で理解を増進しつつ、誰もが穏やかな環境で暮らせるような世の中にしたいと思います。