勝海舟はこの幕末という時代で一番の開明的克つ、現実的な思想の持ち主であったかもしれない。

島津斉彬の「日本膨張論」は書生論であったのに対して、この東アジア三国同盟は大いに実現しうるものであった。

現に明治維新に成功した日本は同様に解禁策を取っていた朝鮮に対して国交を結ぶ使節を派遣している。(これは3度送って3度とも散々に侮辱されて追い返された。)

この東アジア三国同盟と言う構想の根幹にあるものはただ一つで、

清、朝鮮、日本が連合して洋夷に対抗するというものである。

洋夷とはここでは具体的にはロシアのことを指す。

ロシアはこの当時不凍港を保持していなかった。そのためロシアの南下政策はほとんど本能的なものであった。

たとえば「(日露の)両人雑居」と規定したはずの樺太などでは、アイヌ人の帰化政策が行われており、同時に北海道北部ではロシア船が上陸し測量などを行っており、また両人雑居の地区では両者の諍いが絶えなかった。

他に具体例を挙げると、時代を多少遡ることになるが、1808年に、ロシア船が対馬を占領するという事件が起きた。



実際に神戸海軍伝習所の設立は中国、朝鮮、日本の3国を防衛するための海軍設立の魁である、と本人は述べていたという。

つまりロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らしていたのだ。

1875年の江華島事件や日清戦争に終始批判的であったのは、この東アジア三国同盟の構想によるものだったと言える。

日清戦争のころには李鴻章という人物が中国の覇権を握っていた。

確か司隷校尉という官職だった気がするが、これは鎌倉時代でいう執権のようなもので、清朝末期にはこのような皇統の形骸化が起こっていた。

李鴻章は太平天国の乱の鎮圧に活躍し、そのために集めた淮軍という地方の義勇軍がのちに私兵となり、軍閥化して権力をもった。

李鴻章もこの遠大な三国同盟というものを理解していた。

もしも、この「東アジア三国同盟」が成立していたら、その後のアジアはどうなっていたであろうか。

その後の日清戦争はなく、日露戦争の様相は大きく変わっていたであろう。


ロシアは対馬を以てして日本海の玄関口を守る港と為したかったのだ。