前回の続きになります。

 

 

なぜ西国の兵士を防人に採用することができなかったのか

 

 

ということでした。

 

 

このことを考えるにあたり、まず防人は「いつ設置されたのか」を考えます。

 

 

 

教科書には、次のように記述されています。

 

 

664年に、対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑紫(つくし)に防人が設置された。

 

 

なぜ防人が設置されたのが、664年なのでしょうか❓

 

 

 

664年…ここでピンとこなければなりません❢❢❢

 

 

つまり

 

 

白村江(はくそんこう)の戦い663年)を思い出さなければならない、

 

ということです😊

 

 

白村江とは朝鮮半島西部にあった河川の名称です。

 

 

660年新羅(しらぎ)の連合軍が百済(くだら)を滅亡させます。

 

倭(日本)軍は、百済復興を支援するために、新羅(しらぎ)の連合軍と白村江で戦います。

 

これが、白村江の戦いです。

 

この結果、倭(日本)軍は敗れ、百済は完全に滅亡することになってしまいました。

 

 

この白村江の戦いの敗戦を受けて防衛政策が進められ、この一環として設置されたのが東国の兵士を主体とした防人でした。

 

 

 

では、なぜ西国の兵士ではなかったのか…❓

 

 

 

それは…

 

 

 

西国の兵士を動員して白村江の戦いが行われたからに他なりませんでした。

 

 

 

中大兄皇子(なかのおおえのみこ:のちの天智天皇)や大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)を生んだ斉明(さいめい)天皇は、百済救援の軍勢を率いて畿内から筑紫(つくし:北九州)へ向かいます。

 

 

吉田孝 『飛鳥・奈良時代』 岩波ジュニア新書 1999年」には、次のような記述があります。

 

 

この時代には女帝(斉明天皇)みずからが、吉備(きび:現在の岡山県)に立ち寄って中国地方の豪族に、伊予(いよ:現在の愛媛県)に立ち寄って四国地方の豪族に呼びかけ、兵士を動員しなければならなかった。』と。

 

 

そして、集められた西国の兵士達は、博多から朝鮮半島に船で渡り、白村江で激戦を繰り広げたのです。

 

 

この戦いで大敗した倭(日本)軍の中で逃げ延びた者は、朝鮮半島南部に集まり、倭(日本)国への亡命を望む百済の兵とともに帰国します⛵

 

 

 

この事実からわかる通り、西国は白村江の戦いで著しく疲弊(ひへい)してしまいました。

 

 

防人は、百済に味方した倭(日本)軍を追って、新羅の連合軍が倭(日本)に攻め込んで来た時の防衛として、北九州に設置された軍隊です。

 

 

当然、東国の兵士を北九州に派遣するより、西国の兵士を派遣した方が地理的にも近く、効率的だったと考えられます。

 

 

 

しかし

 

 

 

白村江の戦いで疲弊した西国の兵士を防人として北九州に派遣することは「不可能な状態」にありました😲

 

 

 

このように考えてくると、「防人」という歴史的存在をかなり深くまで掘り下げることが可能となるのではないでしょうか

 

 

 

東国から徴発された防人は、多くの歌を残しています。

 

 

万葉集』巻14・20に集中して収録されています。

 

 

家族と2度と会えないかも知れない旅になることへの悲しみや、辛さを主題としたものが多く、「旅」というものは現代の感覚とは異なり、死と隣り合わせであったことを、今を生きる私たちに感じさせます。

 

 

 

歴史を通して、今を考えさせたい、と私は心から思っています。