■鉄路の下、労働者の犠牲を思う

 「有名な心霊スポット」

 インターネットで「常紋(じょうもん)トンネル」と検索すると、こんな文言がぞろぞろと出てくる。2月の早朝、JR札幌駅から特急オホーツクに乗り、北見市留辺蘂(るべしべ)町に向かった。

 列車は函館線を北上し、旭川から東に折れ石北線に入ると北見方面へ。生田原(いくたはら)駅(遠軽町)を通過し10分弱、れんが壁のトンネルが現れた。35秒で抜けると、お地蔵が車窓から見えた。1959年に建てられたこの「歓和地蔵尊」が、心霊スポットと呼ばれる由来と関係している。

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 網走と湧別を結ぶ湧別線(当時)で最大の難工事とされたのが、常紋峠にトンネルを掘る工事だった。12(大正元)年に始まり、本州から連れてこられた労働者たちが土木作業に従事した。劣悪な環境の「飯場」に収容され、そまつな食事で酷使された。けがや病気で動けなくなったら、その場に埋められた。犠牲者は百数十人にものぼる。

 「火の玉が目撃された」「『飯(まま)くんろ』という人の声が聞こえた」。トンネルは3年後に開通したが、様々な幽霊話が広がった。郷土史家の故・小池喜孝(きこう)氏は幽霊話をきっかけに、史料を集め、当時を知る人々を訪ね歩いた。著書「常紋トンネル」によると、70年には地震で崩れたトンネル壁の裏で、後頭部に大きな傷痕のある頭蓋(ずがい)骨が見つかった。「人柱」にされた労働者とみられている。

 この後、小池氏は全国からの支援者たちと、トンネル周辺の山林にある窪(くぼ)地の調査を始めた。この「民衆史掘りおこし運動」は80年まで続き、10体の遺骨が見つかった。旧留辺蘂町の元収入役、中川功さん(75)も参加した1人。茶褐色に変わり果てた頭骨に「無名の労働者の怒りや無念が迫ってきて、目を背けることができなかった」という。

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 80年春、中川さんらは遺骨を納める墓と慰霊碑を建てるため、寄付を募り始めた。その過程で「怠け者のなれの果てを何で追悼するのか」「ごみのような人間の墓を作るより、戦没者の碑を作れ」などの言葉を浴びせられた。

 小池氏は、道内全域の鉄道敷設などの土木工事を調べた。労働者の多くは貧しい農民や寄る辺なき者、強制的に連れてこられた中国人や朝鮮人だったという。

 重労働を強いられた労働者は「タコ」と呼ばれた。「タコという呼称には、労働者への差別感がにじみ出ている。いくらでも替えがきく『消耗品』としか見ていなかった」。中川さんは、こう話す。派遣労働者しかり、外国人労働者しかり。政府の労働者に対する蔑視は今も変わっていない、とも言い添えた。

 北海道の鉄路には、文字通り労働者の血肉が埋まっている――。中川さんは現在も、常紋トンネル建設で倒れた労働者の歴史を、市民講座や地元の高校で語っている。

 石北線は、JR北海道が「単独では維持困難」とする13線区のうちの一つ。今後の行方は定かではないが、残すにしろ無くすにしろ、鉄路の下の歴史から、目をそらしてはならないと思う。

 (斎藤徹)

スーツ鉄道チャンネル日本一長い切符の旅《タコ部屋労働について》再うp" を YouTube で見る https://youtu.be/leYAdKzf6SY

開通後、トンネル内でしばしば急停車事故が起こったりもしたため、慰霊目的として、日本国有鉄道(国鉄)中湧別保線区は、当時の町長の協力を得て、1959年(昭和34年)に常紋トンネルから留辺蘂町側へ約1キロメートル進んだところに歓和地蔵尊(かんわじぞうそん)をつくった。その地蔵尊の裏側にある空き地からは、これまでおよそ50体の遺骨が国鉄職員の家族らによって発掘されており、毎年6月に供養祭を行っている。

監督の指示に従わなかったために、スコップなどで撲殺されたタコ労働者が、見せしめのためにトンネル内に人柱として立てられたという話が言い伝えられていた[1]が、1968年(昭和43年)の十勝沖地震での壁面損傷に伴う改修工事を行ったところ、1970年(昭和45年)9月、常紋駅口から3つ目の待避所の拡張工事中に、レンガ壁から60センチメートルほど奥の玉砂利の中から、頭蓋骨に損傷のある人骨が発見され、人柱の伝説は事実であったことが明らかとなった[1]。ある保線区員は「みんなが『人柱』だといってました」「ほかにも埋まってる可能性があると思います」と語っている[3]。

その後の発掘調査で、さらに10体の遺体が発見収容され、留辺蘂町共同墓地内の「常紋トンネル殉職者之墓」に納骨された[1]。また1980年(昭和55年)11月、当時の留辺蘂町[注釈 1]と追悼碑建立期成会によって、金華信号場西方の高台(金華小学校跡地)に石北本線を見下ろす形で「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。Wikipedia