ご無沙汰しております、ロマンの森です。
実は、私、ひどく体調を崩してしまいました。
かなり大きな病気なので、支えてくれる
家族ともども、東洋医学も含めた傾向と
対策をあれこれ検討中です。

そのため、当分の間、ブログはお休み
致します。少し落ち着きましたら
また再開したいと思いますのでよろしく
御願い致します。
「藤原純友」も、半分ほど下書きが
出来てい増すので、何とか、病気への
対策を見つけて、落ち着いて、書き物に
せいを出したいと考えています。

どうぞよろしく御願い致します。

第103回  崇徳院 (その7)

真夏とは いえ肌寒い山の中を、崇徳院は、
汗を流しながら歩き続けた。だがその汗は
すぐ冷えて着衣は冷たく濡れ、 崇徳院
は身震いした。

外出には乗り物を使い、自分の足で長い
時間歩いたことなどない崇徳院だ。歩き に
くい山道を長時間歩くなど思ったこと もな
かった。我慢に我慢、苦痛に苦痛を重ね
ながら 引きずられるようにして歩いてい
たが、遂にしゃがみこみそのまま、気を
失ってしまった。足はむくんで、血豆 も
あちこちに出来ていた。

皆が、守るように周りを取り囲んでいる
 うちに、崇徳院はようやく気がついた。

「水がほしい、水はないか。」

崇徳院の声に、誰もが我先に
と水を求 めて飛び出して行く。

あたりにはわずか な流れさえなく、
皆が探しあぐねていると、水を入れた
竹筒を持って、南の方へ歩 いて行く
僧がいた。家弘が目ざとくこれを見
つけて譲り受け、崇徳院のところへ
持って来た。崇徳院は、その水をごく
ごくと美味そうに飲んだ。
ようやく人心地がついたようだ。

それを見て、全員が崇徳院をせきたてた。

「お急ぎ下さい、陛下、何時、追っ手が来る
か わかりません、さあ、早く参りましょう。」

だが崇徳院は立ちあがろうとしなかった。

「お前達は早く逃げなさい。逃げる気持
ち はあっても、私の足はどうにもこうに
も進ま ない。追っ手が来たら、手を
合せて命乞いをするよ。そうすれば、
 命だけは取られないだろう。だから
私のことは 気にかけずに、早く逃げな
さい。」

そう言って、逆に早く逃げろとせきたてる
のだった。その言葉を聞いて、為義を初め、
皆が口々 に言う。

「私達は、陛下に命を捧げております。
どうか、逃げおおせることをお考え下さい。
東国まで行けば、 助けてくれる者 もおり
ましょう。心を寄せる者もいるでしょう。
ですから陛下、ともかく東国ま で、
何としてでも参りましょう。いや、 東国と
いわず、どこどこまでも お供いたします。
全員が身命を 捧げて、お守りする覚悟
でおります。」

崇徳院の顔に悲しく、寂しい微笑が
浮かんだ。

「私もどれほどそうしたいだろう。 今すぐに皆
と一緒に立って行きたい。 だが、この足は、
どうにもこうにも動いて くれないのだ。どうあ
がいても立てない のだ。悪い足だ、我が意に
そむくとはな。 だから、さあ、皆、一刻も早く
逃げるが いい。ぐずぐずして、命を無駄
にし てはならない。」

どう言ってみても崇徳院は頑として 譲ら
なかった。これ以上強いて勧めるのも
畏れ多い、一同はそう思い、崇徳院に
別れを告げた。

「では。」 「それでは。」短い言葉を残し、
重い足を引きずるようにしながら皆、 山道を
上って行く。振り向きさえしない。 昨夜から
一睡もせず、空腹を抱えての 山越え だった。

どんなに困難な状況にあっても、 守るべき
主がいれば、武士達は、 一丸となって力を
尽くすことが出来た だろう。だが、主の拒絶
にあった今、 皆の心からは、大きな張りが
失われ ていった。

崇徳院は、山道に目をやった。
 まだ皆、一緒に歩いている。それも やがて
ばらばらになって、あちこちへ 散らばって
行くのだろう。 為義や忠政は、三井寺の
方へ行くと言っていたな、どちらにしろ、
皆、無事でいてくれ、命、永らえてくれ、
 祈る崇徳院だった。

まばゆく照る太陽が、木漏れ日と
なって揺れ、蝉がうるさいほど鳴いていた。  

最後に残った家弘、光弘親子が、人目を
避けるために、崇徳院を谷間へと導いた。
足のきかない崇徳院をつれて谷間へと
下りるのは、大変ではあったが、
それでも何とか下り切った。

横になっている崇徳院の上には、柴を
かけて隠しながら、二人は日没を待った。
夜になると、親子は、交代で崇徳院を
背負い、東光寺(京都市東山本町)
近くにいる長年の知り合いを訪ねた。

ここで、食べ物をもらい、輿を借りた。
崇徳院を輿に乗せると、親子が、
二人がかりでかついだ。

それから崇徳院の言うがままに、阿波局、
左京大夫、と2つの館を回ったが、門を叩い
ても、何の返事もない。争乱の京を逃れて
どこかへ行ったのだろう、館は空になって
いた。

次に少輔内侍(すけのないし)を訪ねた。
だが、何かとむずかしい世の中のせい
だろう、人はいたものの、叩けども、
叩けども門は開かなかった。

朝が来れば、追っ手に見つかるかも
知れぬという恐怖に駆られながら、
親子は、夜通し、なれぬ輿を担い
で歩いた。
そんな中にあっても、二人は、
智足院(奈良県雑司町)の下級
僧に頼んで粗末な僧坊に崇徳院
を入れてもらい、重湯を薦めた。
如意山で水を飲んで以来、何も口に
していなかったからだ。

この僧の手で、崇徳院は、出家した。
家弘もこれに続いた。

とはいえ、ここも安全な場とは言えなかった。
いつ追っ手に、見つかるかわからない。
かっては、一天万乗の君だった崇徳院が
宿る所は、この広い京の都のどこにも、
なかったのである。 (つづく)

 


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第102回  崇徳院 (その6)



使いがしょんぼりと戻って来たのを見

て、忠実が乗り物をよこしてくれるので

ないかという一行の期待は、跡形

もなく消えた。


頼長の矢傷について話すと、父、忠実

こう言ったと言う。


「一族の長として一家を束ね統括する

者が、武士の矢を受けるとは何事。

わが子といえど、これほど運のない者の

顔など見たくもない。どこでもいいから

見えないところへ行けと言え。頼長の

ことなど聞きたくもない。」


怒鳴るように言う忠実の頬を涙が

伝い、最後は、嗚咽で言葉に

ならなかったという。


これを聞いていた頼長は、父の思い

が手に取るように分かった。


頼長は今では、謀反人である。家の存続

や孫に当たる頼長の子供達の将来を考

ると、現朝廷に楯突く者を、わが子と

えども突き放さざるを得なかったの

だろう。


これ以上、周囲の煩いになってはいけ

ない、自分が一刻も早く死んで、皆が

無事に東国あたりへ逃げおおせること、

頼長の念頭には、それしかなかった。


死期を早めようと、頼長は、舌の先を

食いちぎった。顔色はますます青ざめて

いったものの、まだ死ぬことが出来ず、

千切れた舌を吐き出した。


『おれは、人に対して過酷過ぎたかも

知れぬ、いつも学識や規則を振り

かざして、それに合わせる事しか

考えていなかった。それが出来ない

者は、余計者、はみ出し者だと

思っていた。

しかし世の中というものは、人の心

というものは、学識や規則だけでは

れぬものらしい。

今、この時、足手まといとなった

おれを、皆が皆、命の危険をおか

してまで世話してくれる。おれが逆の

立場にあったら、こんな風に出来るだ

ろうか。


おれは、《優秀だけれど、融通が利かず、

人心が掌握できない困った左大臣だ》と

人から思われていて、蔭では、「悪左府」

と呼ばれていた。

おれは、憤慨したが、どうやら図星

だったようだ。』


朦朧とした頭には、今までなら思いもよら

なかったこんな考えが浮かんでいた。


目も霞み、周囲の者たちもぼんやり

としか見えない。その目で、あれは、

経憲だ、あれは、見つかる危険を

おかしながら父の所へ使いに行って

くれた俊成(としなり)だと、見当を

つけた。


やがてそれも視界から消えていった。

意識は遠のき、頼長はまた、眠った。


そんな時、玄顕得業(げんけんとくごう)

という、南都、興福寺の僧が

輿を貸してくれた。


そこで一行は、この輿に頼長を乗せて翌

日、奈良へ入った。得業の僧坊は、興福寺

の中あるので人目につくため、行く事が

出来ない。得業が、近くに目立たぬような

小家を見つけてくれたので、そこに入り

息をつめるよにして過ごした。


夏の盛りで、太陽は激しく照りつける。、

じっとしているだけでも汗がにじむ

暑さの中で、一行には着替えもなかった。


まだ殿上人でいたならば、今頃、雪国の

氷室にためていた氷を取り寄せてなめ

ていたことだろう。だが今は、氷どころか、

水汲みに出ることも出来ない。水さえ

容易に使えないのだ。それに全員が

水汲みなど一度もしたことがなかった。


昼頃、今まで身動き一つせず眠っていた

頼長が、目を開いた。


「お目覚めでございますか。」

経憲初め、皆が駆け寄る。

頼長は、何も言わなかった。

皆を見回すようなしぐさをしたが、

もう何も見えていなかった。


見えない目には、かっての激しく

燃え立つような光はなく、

落ち着いた穏やかな光があった。


頼長は、目を閉じた。

また開いた。そして再び閉じた。

それを最後に、頼長は逝った。

行年37歳。1156年、8月1日

(保元元年7月14日)のこと

だった。


死者の体を清める布や水さえも

自由にならない。

それでも、得業が都合をつけてくれ

たわずかばかりのもので、何とか

頼長の体を清めた。


得業は、頼長の頭のてっぺんの

髪を少し切って、形ばかり

出家の姿にした。


仏弟子となった頼長が一刻も早く

西方浄土に導かれるようにと

願ってのことだった。


得業は、短い経を唱えると、一目を

はばかって寺へと戻って行った。

蝉の声は、この悲しみに沈む家にも

賑やかに聞こえて来る。


一行は、夜を待って頼長を、般若野の

五三昧(東大寺北方の埋葬場)に、

葬った。読経の声もなければ、手向ける

花も香無い寂しい葬いだった。


暗闇の中で時折、蝉が鳴いた

その音に、さては追っ手かとぎょっと

する今の境遇だった。


最も、政敵に囲まれて、心のこもらぬ

弔いをされるよりは、心ある友に囲まれ

て粗末な弔いをされる方がはるかにま

しかもしれない。


「阿弥陀如来、衆生をことごとく救い給う

うという、ならば、我等、謹んで願う、

広大無辺な慈悲の心を持って、頼長を

救い給え、浄土へと導き給え、地獄の

闇に惑わすことなかれ、寄る辺ない我ら

ただ、御身に縋り御身に願う。」


一行は、我が身の不幸も忘れて、頼長の

後生安楽を願うのだった。


寂しい葬いが終わった後は、皆それぞれ、

どこへともなく去って行くのである。

身を落ちつけるところとてなく、捕まって

殺されるかも知れぬ恐怖引きずっての

逃避行だった。


そんな中にあって、経憲は、頼長の父、

忠実を訪ねた。頼長が世に在った日々

最後の様子を伝えると、僧形の

忠実は泣き崩れた。


「どんなに会いたかっただろう、どんな

家に入れて傷の手当をしてやりた

かっただろう、頼長は、さぞ酷い父だ

と思っただろう。」

そう言いながら泣いて泣いて、泣き

止まなかった。


傍にいた忠実の妻で頼長の母も

頼長の息子達も一緒に泣いた。

皆が皆、泣き崩れて涙は留まるところ

を知らなかった。


どんなに悲しくても、経憲は何時までも

ここにいられなかった。悲しみの

うちにあても無く逃げ行く先を

探してそこを去った。


それから一週間後の8月8日、

頼長の体は、検視のために墓所か

らひきずり出された。

頼長が死んで般若野に埋葬された

話は、すでに朝廷に伝わっていた

のだ。体は、短期間の間に暑さで

ば溶けかけ、顔も定かでは無かった。


検視の者たちは、頼長かどうか

確かめられないのが分かると、

埋葬もせずに、そこに放り出した

まま去って行った。


死者への蹂躙だ、人々はそう

言って眉をひそめた。検視を

指図したのは信西だった。


一方、崇徳院は、為義や家弘、光弘、

武者所季能(むしゃどころすえよし)

らに守られて如意山(京都東山

にあって、京都市左京区と滋賀県

大津市の境にある)へ来ていた。


険しい山道で馬は使えず、

崇徳院は、あえぎながら

皆について歩いた。


山歩きなどしたことのない崇徳院は

手を引かれ、腰を押されながら

必死に歩いた。ハアハアと荒い息

をし、足をがくがくさせながら、

崇徳院はおぼつかない足取りで

一歩一歩、山を登って行った。

          (つづく)


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