國體ワンワールド史観での様々な解説については、以下のYouTubeチャンネルで行っています。

 

 

より詳しく國體ワンワールド史観について知りたい、この史観で真の歴史を知るにはどうしたらいいか知りたいと思ったら、覗いてみてください。

志賀島の金印の真相。

 

「月刊 日本」2005年1月号 掲載。

落合先生の寄稿の一部。

 

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この当時、まだわが金印の真相を知らなかった私は、ある人物に教えを乞うた。すでに故人となったこの人物(S)は龍谷大学出身で、某短期大学の教員をしており、「ほんまの仕事は宗教関係の、まあ一種の公安ですわ」と語ったが、彼の極めて深遠な知識と、しばしば呉れる驚嘆すべき情報で、私は京都の宗教中枢の奥深さを覚らされた。毎日のように電話でやりとりし、近来の出来事の裏面を語り合っていたが、高芙蓉の印譜疑惑を話したところ、「ちょっと大学の図書館で調べてきますわ」と。言って電話を切ったが、二日もせずに回答が来た。

「あの金印はもともと黒田藩が天明のころ作ったもんですわ。あの時分はちょうど考古学ブームで、あちこちでこんな真似をしたんでしょう。目的は、将来、黒田の殿さんが征夷大将軍になる時に備えたもんやそうです。博多から昔の日本国王の印が出たのは、黒田の殿さんが将軍になるべき因縁が顕れたもんや、と主張したいからですや。そやけど一個やおまへんぜ。四つくらい作ったらしいわ」

Sが大学図書館で見た資料によると、わが金印の作者は高芙蓉で、印章学では当時の最高権威であったから、黒田藩は大枚を払って制作を頼んだ。あるいは藤貞幹にも関わって貰ったのかも知れぬ。だとすると四月二日模刻の件が無理なく説明できる。ともあれ、高芙蓉は全知識を駆使し、印文はじめ材質・形状・デザイン・寸法などを定めたが、当時のこととて、引証すべき実物や資料が今日よりも遥かに少なかった。尤も、その分だけ事がバレずに済むわけであるから安心して、大胆に偽造を実行した。漢印に例を見なかった薬研彫りにしたのは、芙蓉の知識の限界が露呈したものだろう。印文も、「漢倭奴王印」とすべきものを「漢委奴国王」としたため、考えられないほどの無駄な考証を後世の学者に課したが、却ってその分だけ金印サークルの仕事を増やし、利益をもたらしたことになる。出来上がった四個(?)の金印を黒田藩に納めた高芙蓉に、水戸藩から声がかかった。

「噂を聞いて、こりゃ怪しいと思うたんですや。水戸は歴史研究の中心で、歴史は自分とこの最大の使命やから、怪しいから調べよう、と決めたんですな。そこで高芙蓉を儒者として雇うと、ゆっくり泥を吐かそうとしたそうですわ。まさか本藩の藩儒とはでけんから、支藩の宍戸一万石に命じて雇わせたらしいんや。江戸詰めですわ。芙蓉は喜んで江戸に向かいますわ。これを察知した黒田藩から追手が掛かり、黒田の忍者に江戸でやられたんですわ。口止めですや」

芙蓉の死因は、『大日本人名辞書』によると傷寒とある。傷寒は、広義には急性症状一般を謂い、狭義には重症の感冒で、緊急凝結による切迫症状のことである。要するに、病名は分らぬが症状は明白で、傷寒としたのは、今日死因として多用する心不全のごとき用法で、毒殺と見てよい。

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落合先生が、雑誌「月刊 日本」に寄稿していた時の一節です。

「月刊 日本」で、三ヶ月連続で金印について書かれていますが、それを読むと、金印が偽物というのがより理解できますし、日本の史学界がお粗末で、学究より生活優先になっていることも見えてきます。

 

この時点で、先生はS氏と伏字にされていますが、その後彼の事は数回著書で実名でも出てきます。

 

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説明動画も制作してみました。

こちらもよかったら観てみてください。

音が出ますので、ご注意を。

 

 

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「甚兵衛ネットワーク」について。


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佐藤義清(のりきよ)こと西行が全国に作ったネットワークで、皇室の山林管理を行う。

現在も日本全国に60ほどあるらしい。


西行の子孫が主らしく、「佐藤甚兵衛」を名乗るところもあるが、中には佐藤ではない甚兵衛も存在する。


安倍晋三の母方の佐藤氏も佐藤甚兵衛家で、この佐藤家は佐藤甚兵衛の宗家を主張。

また、この周防の佐藤甚兵衛家は、護良親王の息子で周防に極秘で入った興良親王とその子孫を守護していた家でもある。

なお、京都皇統、堀川殿とし京都堀川御所に移られた睦仁親王に代わって明治天皇となられた大室寅助は、この興良親王の後裔。


佐藤甚兵衛家は、歴史の表舞台に出ることもあり、佐藤栄作の佐藤甚兵衛の他、松尾芭蕉が世話になる須賀川の甚兵衛、順天堂の佐藤泰然の佐倉の佐藤、幕末期明治期に名前が出る土倉家などが該当する。


松尾芭蕉は、俳諧の旅に出たとされるが、実際は伏見殿の直臣である藤堂家の司令を受け、甚兵衛を主体とする堂島の米会所の設立のために甚兵衛たちに接触しつつ、酒田本間家の設立を図った。

酒田本間家の活動開始時期と、松尾芭蕉の東北巡行の時期は重なる。


佐藤甚兵衛ネットワークは、土御門天皇のファンドを基に構築されたとのことで、西行と土御門天皇の生きた時代は微妙に異なるが、この時間差がウバイドのファンド運用方法を理解するヒントになるかもしれない。


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「欧州王家となった南朝皇統」より。

 

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P6

 

拙著「南北朝こそ日本の機密」で、南北両統の強制統合と大塔宮の西大寺入り後の事績を、当時知れ得た限りの「大塔政略」の概容について具体的に展開したところ京都皇統代から過分の賞詞を戴きましたが、その後になって覚ったのは、「大塔政略」には私が考えも及ばなかった壮大な世界戦略があったことです。つまり、右に加え、④大塔宮王子と南朝勢の海外進出、があったのです。

建武二(一三三五)年に西大寺入りした大塔宮の王子を擁した南朝勢が熊野水軍の運用する巨船に搭乗し、武装商船隊を組織して海外に進出していたのです。この海外南朝勢は、東南アジアはもとより、欧州大陸に深く入ってケルト人に混じり、さらにはコロンブスに先駆けて新大陸のドミニカ諸島にまで到達していたのです。

 

P31

 

この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、十四世紀中ごろから形成されたアユタヤ(タイ)の日本人街には十五、六世紀には一千人を超す日本人が住み、他にもプノンペン(カンボジア)、マニラ(フィリピン)など各地に日本人町には貿易商以外にも傭兵がいました。

海外南朝勢の足跡は、今も東南アジア南島部に微かに残り、台湾、マレーシア、タイ、ベトナム、インドネシアなど現地民の胸底に深く潜んで、先次大戦で帝国陸軍の戦火に曝された後にも、親日感情の根底を形成しているのです。

 

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このページの間には、読んでいながらも恥ずかしながら忘却していた重要な事柄がいくつも書かれてあり、再読の重要性を痛感した次第です。

 

上記の引用でも、ドミニカ諸島のことも失念していました。

 

「満鮮経略」に続いて「南島経略」が明らかになっている現在、上記の話はより重要性が高い話と認識できると思います。

また、現在落合先生の研究も進まれていて、次巻で東南アジア各地にいた日本人の「傭兵」の素性も明かされるかもしれません。

 

ところで、ドミニカ諸島はおそらく西インド諸島のことを指されていると思われますが、この諸島の中にはキューバが含まれます。

最新刊で周恩来のことが明らかにされていますが、國體勢が降り立った場所になぜ社会主義国キューバが存在するのか。

この辺りに秘密がありそうですね。

 

また、1つ想到したことがあります。

コロンブス以前に國體勢が新大陸に渡っていたのであれば、なぜ1492にコロンブスに新大陸発見の栄誉を与えたのか。

この後様々な人々が新大陸に渡来することは容易に想像できるはずで、その嚆矢を放ったということは、すでに新大陸に様々な人々が渡来しても問題ない程度に、國體ワンワールド勢が新大陸での地歩を固めていた、ということの証左になるのでは、と思いました。

これが正しいかはわかりませんが。

 

 

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「国際裏天皇と数理系シャーマン」より。

 

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P88

下記は、平成十六(二〇〇四)年に栗原氏が作った資料によるものです。

 

孝明即位と同時に京都建春門の向い側、「堂上稽古所」と呼ぶ学習院が誕生、その施設は百五十坪ほど、公武合体の場に相応しい武家の連中が堂上公家との交流が進んでいました。

吉田松陰 高杉晋作 佐久間象山 毛利敬親 桂小五郎 久坂玄瑞 平野國臣 宮部鼎蔵 赤禰武人 甘粕継成 有馬新七 吉村寅太郎 池内蔵太 梅田雲浜 江藤新平 河田佐久馬 周布政之助 武市半平太 田中光顕 田中新兵衛 中岡慎太郎 由利公正 横井小楠 元田永孚 鍋島直正 有栖川熾仁 姉小路公知 岩倉具視 澤宣嘉 三条実美 三条西季知 朝彦親王 中御門経之 錦小路頼徳 東久世通禧 (順序は原文のまま)

 

正に後年の大物がズラリで、これではもはや授業や講読を必要としなかったのです。講師がひたすら楠公精神を鼓吹すると、慷慨した志士たちは悲歌を以てこれに応ずる様子が髣髴されますが、福羽美静と真木和泉守の名がない処からすると、右のリストは学習院出仕の全員をカバーしたものではないようです。

土方楠左衛門すなわち後年の宮内大臣土方久元の名も抜けています。中山忠能と正親町三条実愛が見当たらないのは、学校側ということでしょうか。

武士では毛利敬親・鍋島直正の外様大名の名がみえますが、親藩越前藩からも三岡八郎(由利公正)が主君春嶽に代わって参加しています。大名から下級藩士まで上下が一堂に会しており、本来お目見えも許されぬ下士が大名と同席しただけでも、当時としては一大奇観です。

公家は朝彦と熾仁親王から平堂上までいますが、およそ朝廷の慣習で平堂上とよばれる下級公家は「門流」と称して上級公家に隷従を強制され、婚姻養子も束縛されて、直接には会話さえ許されない有様でした。ところが、学習院ではそんなことに捉われず、上下の公家も大名も下級武士も、膝を交えて議論していたのです。

 

ーーーー

建春門外に造営された学習院は名目上で、真の学習院は粟田口青蓮院内に極秘造営されていたそうです。

 

上記の人物を見ると、周布政之助や中岡慎太郎の他、禁門の変で散った久坂玄瑞、池田屋事件で死んだ宮部鼎蔵、寺田屋騒動で死んだ有馬新七、土佐勤王党を率いて切腹させられた武市半平太など、明治維新を迎える前に命を落とした人士もいます。

 

尊攘運動の炎上と鎮火、雄藩や諸藩が次世代を担う意識高揚の促進など、様々な課題解決を求められることは学習院内でも話として出ていたと思いますので、命を落としたとされる人々は新時代の礎となるべく犠牲となったのか、それとも犠牲になったということにされているのか。

龍馬が暗殺される近江屋事件で共に襲われた中岡慎太郎と、事件発生後すぐに土佐藩邸から近江屋にやってきたとされる田中光顕の両名がいるのも気になるところです。

寺田屋騒動では、尊攘派にいて藩に投降した中には、西郷従道など維新政府で重きをなす人物もいます。

 

また、田中新兵衛は、岡田以蔵などと四大人斬りと呼ばれますが、暗殺したとされる中には同じ名前がある姉小路公知もいて、この暗殺の怪しさを示しています。

 

戊辰戦争までの各藩ごとでのおおまかな動きの策定もしていたのでは、と考えたくなりますし、何人かは裏に回るような役割分担もなされたのではないでしょうか。

「堀川政略」の工程において、亡くなった上記の人々は偽装死だったのではと思います。

一部は欧州に行き、一部はフィラデルフィア辺りに向かったのではないでしょうか。

 

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「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」より。

 

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P27

もう一つは、平成二十八年八月八日の当今陛下のお言葉です。当今陛下の生前譲位に関する思いが、八月八日の午後三時に「お言葉」として国民に伝えられることになりました。その朝の六時過ぎに京都皇統舎人から電話があり、「今日のお言葉には落合の著作に対する陛下の思いが籠められている」ということで、驚いて聞き返そうとしましたが、すぐに電話が切れ、その後に届いたメールに「自分は今から貝になる」とありました。

午後三時を待って静かにお言葉を拝聴したところ、十一分の間に七度も「務め」と言われ、また一言だけ、「家族が」と言われました。これをわたしは次のように拝察します。

 

天皇には、政体憲法が定める「国事」の他に國體上の「務め」があり、これを実行しているのが「家族」であることを、言外にお示しになった。

 

P28

それから一週間経った本日(十五日)の朝、くだんの舎人より電話があり、「先日のお言葉の意味はかくのごときものである」との解説を頂きました。

 

象徴天皇は、「オホヤケの代」の完成を意味する。「オホヤケの代」の実現に向けて明治維新を断行し大正・昭和を経ながら努力を重ねてきたが平成に至りようやく完成した。「オホヤケの代」にふさわしい天皇が象徴天皇である。

天皇の崩御は世界的に重大な変動をもたらす。明治天皇の諒闇(注:崩御にあたり喪に服する期間)に連なって第一次大戦が発生し、大正天皇諒闇に生じた不況から満洲事変が生じた。昭和天皇の諒闇が過ぎると平成大不況が始まったが、今やその後始末が終わり、五転目の大勢が始まるのである。

大正天皇の崩御に際しては皇太子裕仁親王が喪儀に関する行事を行い、昭和天皇の崩御に際しては自分が喪儀を行った。その負担はたいへんなものである。

 

これを伺ったわたしは、このお言葉を下記のように拝察しました。

 

皇太子が天皇葬儀の行事を行うときに、家族(すなわち妃殿下)は今まで以上に國體上の「務め」を担わねばならぬが、何としてもこれを避けねばならぬ。

 

聞くところでは、今回のご発言は拙著に触れられた、ということです。

紀州勘定奉行伊達宗広が著した『大勢三転考』は、日本の大勢が太古の「カバネの代」から古代の「ツカサの代」に転じ、さらに中世の「名の代」と変転してきたと述べています。

これを、伊達宗広による「大勢が今や四転せんとする暗示」と見て、宗広が指し示す四転目の大勢は「オホヤケの代」すなわち「公儀政体」であると洞察したのが「落合秘史シリーズ」の第四巻『京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』です。そしてシリーズ第六巻の『日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義』では一皇万民の「オホヤケの代」を「天皇制真正社会主義」と定義して、その構造を「和傘」に譬えて私見を述べました。

「オホヤケの代」とは、実はわたしの造語ですが、今回の陛下のご発言はそれを踏まえられてのことと伺い感激に耐えません。

 

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落合シリーズを大して読んでいない人は、落合莞爾氏の述べる「京都皇統とは誰だ」、「落合の妄言だ」など、様々な無知蒙昧な事を言っているようですが、上記を読んでも同じことが言えるのでしょうか。

老人の作り話と一笑に付されるのでしょうか。

 

今上陛下から間接的にでもお言葉が伝わってくるのが落合莞爾氏です。

 

仏教の修行もされて得度もされていますし、なかなか名乗ることができない格の高い号も許されていらっしゃいます。

 

という話はさておき。

わたし個人の意見で恐縮ですが、國體ワンワールドの世界に対する大義の前に日本の「オホヤケの代」は、明治の当初に期されたものとは違う姿になってしまったと思います。

國體に近しい方々は、社会の中で表で見せているのは別の役割を果たされ「天皇(制)社会主義」の役割を担われている方もいるのかもしれませんが、それは一握りの方々でしょう。

 

落合氏はすでに別の著書で五転目として「ウカラヤカラの代」と述べられています。

個人主義のもと、都市化や核家族化で希薄になった家族や血族との結びつきが見直されるということです。

 

しかし、現在の政体が変わらないままで、それがどこまで実現されるのでしょう。

欧米や日本の他、各地が民主主義を唱え始めた近代以降、世界はどうなったでしょうか。

立憲君主制も名ばかりに、誰が責任をとるのか明確でもない中で民主主義のもとに人口は増え続け、資源を食い散らかし、不換紙幣を各国が刷り続けてマネーは膨張して現在に至っています。

民主主義は最大限「船頭が多い」状態です。

 

さてこれから日本や世界はどうなっていくのでしょう。

自分なりに日本や世界のありたき姿を考えるのも、落合シリーズを読み進めていく醍醐味と思います。

 

 

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タカスとは、エジプトにおいて神官団を形成していた人々。
また、タカスの下に様々な国の雑民が集まり、タカス族を形成していた。

エジプトでは終末再生思想に基づきミイラ作りが行われていたが、宗教行為であるため神官団とは不可分であった。
そのため、タカス族がミイラ作りを生業にし、ミイラ作りの過程を通して人間の肉体構造に精通していた。
精通していた故に外科手術も行い、外科手術の一つに整形もあった。
整形技術は、エジプトファラオの頭型変形の他、特に騎馬民族に歓迎されて影武者作りがなされた。
顔面整形の場合は痛みを伴う手術となるため、痛み止めにアヘンが使用された。

なお、エジプト王国の國體はこのタカス神官団であり、ファラオは飾り物であった。
エジプト王国を後にしたタカス族は、外科手術を得意とする集団や傭兵を生業にする集団に分かれた。
その一派は陸路をとって広がり騎馬民族として広がり、スキタイやトゥルクなど騎馬民族として名を残す民族には、タカス傭兵団も混じっているらしい。
このタカス騎馬隊が極東アジアにたどり着き、羅津の國體黄金や八幡殿の守護を担っていた。
女真族も該当する。
この陸のタカスが崇神の頃に日本にも入ってき始める。

また、この陸のタカスとは別に海から日本に到達したタカスがいた。
彼らが到達したのが薩摩である。
幕末頃でも薩摩の下士の一部に長身が多かったが、これはタカスに由来する。
新政府で名を成す薩摩下士の多くがタカスであったそうであるが、西郷隆盛、西郷従道、大山巌はタカスではなかった。
西郷氏は、真方衆と呼ばれる「欠史八代」の後裔であり、真方衆の棟梁であった。
真方衆と菊池氏は同族であるとのこと。

 

「サンカ」と呼称された人々は箕作りなど倭人系統とされるが、本来の呼称はこのタカス族に対してであった。

政体を担って歴史の表舞台にいたが、この「サンカ」の呼称を倭人系統になすりつけた。

なお、明治期に「新平民」の呼称がなされたが、これは被差別部落の人々に対しての呼称ではなく、タカス族のうち武士になりきれなかった足軽身分の人々が明治になった際に付与された呼称であった。

人体に通じたタカスは、人体生薬の薬理にも精通しており、特に胆嚢の効能が抜群である。
薩摩藩では、若年の度胸試しとして「ひえもんとり」があり、罪人の死罪が執行されると、彼らはその死体に群がり刃物を使わず歯を使って、誰が先に胆嚢を取り出すかを競っていた。
取り出したものには、その胆嚢が与えられ、自身が人体生薬として使う、もしくは、売っていたとのこと。
二位の者には、アキレス腱の脂肪部分が与えられたそうである。

タカスは日本史上政体を担って大いに活躍している。
詳細は今後の「落合・吉薗秘史シリーズ」で語られると思われるので、それはまで詳説を避ける。

日本には、ウバイド医学とタカス医学の二大潮流があり、教科書で語られない日本の歴史を作ってきた。
これについてもいずれ詳細が明かにされる日が来ると思われる。

タカスはおそらくこれからの日本史のみならず世界史のキーワードになる。
ウバイド人と共に。

 

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タカスについて動画も制作してみました。

こちらもどうぞ。

 

<タカスとは>

 

 

<日本のタカス>

 

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ウバイド人とは、紀元前5500年頃メソポタミアに登場した旧人類とされる人々で、「ウバイド文化」を担った人々。
 

学術的に「ウバイド文化」は存在するが、当時生きていた人々に対しての呼称がないため、落合莞爾氏が著作の中で便宜的に「ウバイド人」と使用。
ウバイド人は、ビュルム氷期を寒冷地適応することなく高山地帯で過ごし、ビュルム氷期が終わった紀元前8000年頃から、しばらく時を経てメソポタミアに登場。
ウバイド人のような旧人類は、その他にもビュルム氷期中でも比較的温暖であった太平洋沿岸の地域にも存在し、縄文文化を担った人々(縄文人)もその一つとされる。

ウバイド人はメソポタミアに登場した際から、農耕、漁労、牧畜の三つに社会的分業を行っており、各生業で生ずる余剰生産物交換における媒介として「黄金」が機能することを予め知っており、円滑な社会的分業から文明度を高める術を持っていた。
また、黄金の利用価値を理解していたため、ウバイド人たちは世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図った。
収集の方法は、ウバイド人が各地に移住し、高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に密かに収集していた。
灌漑によって飛躍的に食料生産規模を高めたエリアは文明が発達していった。
メソポタミアには紀元前5500年から3800年頃まで存在し、以降はシュメール人にメソポタミアエリアの文明を引き継ぎ、東西への移住を推進した。
東に向かった人々がインダス川やウラル海に注ぎ込む内陸のアムダリア川に到達した。
インダス川からガンジス川に内陸で移った後かその前か、一団が船団で東南アジアから日本に到達した。
この海から渡ってきた一団の中に、日本皇統となったウバイド人たちもおり、海から日本に到達した人々を、落合莞爾氏は「タチバナ」と呼称している。
到達した先は和歌山県の熊野エリアで、さらにここから一部が博多(那の津)に展開した。
なお、海人ウバイドのタチバナは、その後の姓では、和田(楠木)、橘、津田、井口、菊地(土編)、橋本、井上などを名乗っているが、さらに様々な名字が派生しているようであるが、井口や井上同様に灌漑技術に優れていたので「井」が入ることも多いらしい。
また、ウバイド人同士の時は、自分たちのことを「イシヤ」と呼ぶようで、現在でもウバイド人の密度が濃い和歌山や大阪南部では「イシヤ」を使う人々が存在。

ところで、ウバイド人ではあるものの「タチバナ」とは別で呼称されるのが「サエキ」。
佐伯と紛らわしいので「サエキ」と表記されるが、高山地帯で生きて来たからか修験のようでもあるので、「修験サエキ」とも呼称される。
サエキは主に大陸で活動した人々を指すことが多いようで、アムダリア川やシナの黄河や長江を灌漑していた人々は「サエキ」と呼ばれる。
シナの伝説的な王と言われる「尭」、「舜」、「禹」もウバイド人で、特に「禹」が高い灌漑能力を発揮した。
大陸で活動する中で、黄金を管理や移動を担う氏族はシナでは「呂」氏となり、黄金を使って王を生み出すことからキングメーカーとなり、歴史上では太公望呂姜、呂不韋、呂公などとして現れる。
また日本ではこの「呂」氏は「秦」氏と名乗っている。
秦氏は呂氏系秦氏の他にも、彼らが率いて来たその他の民族が秦人と呼ばれるので、必ずしも秦人=呂氏ではない。
なお、サエキは、日本ではさらに呂氏以外も存在し、大伴氏、佐伯氏、阿刀氏、緒方(初期)氏などである。

ウバイド人は、世界に拡散する中で、スキタイ人の上層部として入っていたり、ケルト人やフェニキア人と呼称されたりしている。
世界史上謎の民族とされている人々がウバイド人でなるのかもしれない。

 

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ウバイド人に関する動画を制作しています。

こちらもよかったらどうぞ。

 

<ウバイド人とは>

 

 

<ウバイド人の拡散>

 

 

<日本のウバイド>

 

 

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「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族」より。

 

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P116

驚くべきは縄文医学に寄生虫を用いた免疫系医学があることです。修験サエキたちは、今でも過剰栄養を調整するのに回虫を用い、体内で殖えた回虫をサナダムシに食わせ、そのサナダムシをマクリという海藻(海人草)で駆除する習慣があるそうですが、近代西洋医学の考え及ばない寄生虫療法を、海外ではダイエットに利用しています。

サナダムシは読んで字のごとく「真田虫」で、このことが意味するのは次の二点です。

 

①真田氏の祖先の海野氏が縄文海人から出たこと。

②真田薬学は修験サエキと同系であること。

 

P119

真田氏の源流海野氏を、わたしはこれまで安曇海人と考えていました。応神初年(西暦二七〇年ころ)に全国海人の宰になった安曇連の配下に豊後アマベ氏が組み入れられ、その豊後アマベ氏に修験サエキが潜入していたなら、それもあり得ます。

信州真田家の家祖海野幸隆が信濃国小県郡上田荘真田に入るまでの経緯は未詳ですが、紀州九度山は後述するように、古代から佐伯氏=阿刀氏の所領ですから、ここを本拠とした信州真田氏の本性は、修験サエキが潜入した豊後アマベ氏と推定されます。

九度山郷の奥にある伊都郡上天野村丹生都比売神社の水銀は、修験サエキにより医薬用として販売され、空海の立てた國體密教の莫大な財源となります。修験サエキの一派が伊都郡三谷村の丹生酒殿神社で作った蒸留酒は、中世で製薬用・消毒用の貴重な医薬とされ、今日、清酒の醸造に携わる杜氏を束ねる丹生衆もこの一派とみられます。

 

★応神初年はおそらく270年ころではなく、390年ころと思われます。

 倭の五王が400年代ということを考慮しても。

 

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ユダヤの話に紛れて上記のような話も混じってくるのが、落合シリーズの魅力です。

 

九度山には女人高野と呼ばれる慈尊院があり、高野山石道の入り口です。

高野山を本拠にする真言宗が水銀を財源とした、ということは奈良時代~江戸時代までの日本史の流れを俯瞰するキーポイントになると思われます。

 

南朝拠点吉野から九度山までは吉野川・紀の川で繋がっています。

また、廃藩置県がなされた後、堺県というのが生まれましたが、大和国と和泉国が合わさった県でした。

この2つがくっついたのは、歴史的に関係が深いため、ということです。

これらに紀伊と河内とが南朝の中心地です。

日本史のダイナミズムの源です。

落合史観での日本史考察には不可欠な要素が盛りだくさんとなっています。

 

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※ 現在の真田氏の素性についての説は、「欠史八代」に遡るようです。

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【 落合史観で見る歴史事績 】

蘇我氏

 

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落合シリーズで、蘇我氏は羅津との連絡役と記されています。

 

羅津の八幡殿は、第八代天皇孝元天皇の息子ヒコフトオシ(彦太忍信命)が羅津に入って八幡殿となり、彼の孫武内宿禰の後裔が蘇我氏です。

 

蘇我氏が歴史に登場してくる際、祖先の名前が蘇我韓子、蘇我高麗など朝鮮をイメージさせる名前が付けられています。

(蘇我「馬」子と蘇我入「鹿」で馬鹿となりますが、蝦夷含めてこれら歴代蘇我氏の名前が本当かも疑わしいと思います)

 

欽明朝に入り、国際化が推進されます。

その際、マニ教が入った大乗仏教が招来され、聖徳太子と蘇我氏を中心に仏教の振興が図られます。

 

聖徳太子は、さらにはマニ教(マニ思想)に基づく四箇院(敬田院、悲田院、施薬院、療病院)建設の推進も図ります。

それが体現された一つが四天王寺です。

 

応神天皇以来富国強兵が進められてきましたが、欽明朝に入り国際化の推進段階に入ると、中央集権制が必要になります。

それが端的に表れているのが「冠位十二階」や「十七条の憲法」です。

 

シナや大陸騎馬勢力に対し、ウバイドヤマトの存在を隠すためには日本が(便宜的に)豪族割拠の状態が都合がよかったと思われますが、フェーズが変わり中央集権段階に移ったとみなすことができると思われます。

 

地方豪族などとしてウバイドヤマトから独立した勢力のように振舞っているウバイド関係者は中央集権の意思で通じ合っていても、下級官吏や民衆はそのようなことはわかりませんし、豪族支配下にいるので、いきなり中央集権と言われても困惑します。

 

そこで、半ば強引な中央集権の「かぶり役」を担ったのが蘇我氏です。

落合シリーズで、聖徳太子は実際は竹田皇子と秘事が明かされていますが、用明天皇の皇子厩戸皇子として外戚を蘇我氏に偽装したのは、蘇我馬子(と蝦夷、入鹿)に権力を集中させて「かぶり役」をしてもらう意味もあったようです。

 

「大兄」は國體黄金管理役を示すということで、聖徳太子の息子山背大兄皇子を蘇我氏が討つのも当然八百長で、山背大兄皇子は偽装死してある場所に移っています。

 

自らが天皇になろうとしたというような汚名も被った蘇我氏は、乙巳の変(大化の改新)で偽装殺害されます。

 

蘇我氏はこれで力を失ったことになった中で、壬申の乱での蘇我赤兄は大友皇子側に就いて姿を消しますが、実際は大友皇子と共に欧州に消えました。

蘇我氏は、國體側としての役割を粛々とこなしています。

 

中臣氏の戸籍に入り込む形で藤原氏になる中臣鎌足が現れ、藤原不比等が登場します。

藤原不比等は、田辺史の家で育てられた里帰りの人物で、中臣鎌足とは親子関係ではないようです。

 

國體側の蘇我氏は、天智天皇に娘が入っていますし、また藤原四兄弟の上三人の母は蘇我娼子です。

そして、最後は蘇我氏は石川氏と改姓して、やがて政権から姿を消していきます。

これらの婚姻は國體ファンドも関係していると思われます。

 

「欠史八代」を祖にする蘇我氏は、多氏、小野氏、春日氏、和爾氏、阿倍氏などと同様になりますが、「欠史八代」はウバイド海人王朝で族種南朝勢力を率いる人々です。

 

族種北朝が政体を担い、族種南朝が國體を担ったようなので、他の「欠史八代」氏族が目立たなくなり日本各地に散っているのを理解すると、中央から消えていった蘇我氏・石川氏も同様であったと思われます。

 

後代堺衆になり橘系楠木氏の血が入る酢屋一族の祖先は蘇我氏とのことですが、酢屋一族は海運、商業、薬種業を担います。

 

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落合史観で蘇我氏を見れば、教科書が説く極悪氏族のイメージは吹き飛びます。

 

 

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