浜崎あゆみ | ともじのブログ

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ちと自分のこと書いてみた・・のその後の途中一部分。

ELTから浜崎あゆみへ

中略・・

今、思えば当然といえば当然で当時の小室さんや織田さんには毎日何人ものアーティストの卵が訪れていたのだから、持田が目に留まらなかったのもしょうがない。
僕は自分でプロデュースすることに決め、ただ一つソロでデビューさせるか五十嵐と組んでユニットとしてデビューさせるか・・そこを迷っていた。
五十嵐はどちらかというと裏方でがんばりたいと表に出ることには消極的であったが、小室さんから聞いたことの「一度でも表にたったことがあるかないかでは、退いた後にその経験が生かせる分いいよ」という言葉をもって五十嵐を説得。
五十嵐の古くからのバンド仲間である伊藤一郎を迎えて、ELTは始動することとなる。
小室さんとの経験でタイアップの取り方などはある程度心得ていたが、何せ小室さんという名前も使えず、ぽっと出の新人にタイアップを獲得するということは非常に難しかった。
どうにか電通の力を借りて量は少ないがCMタイアップを獲得。96年の夏にデビュー。
当時のことを持田に聞くと「なんか周りの大人たちの言うままにやっていた。」「大人たちの言うことに何も口をはさめなかった。」などこちらは30過ぎていたが10代のつもりで話しかけていたのが全く通じていなかったことが後でわかりがっかりした。
今でも持田とは頻繁に食事などするがこのことは今でも僕の口から出る愚痴となっている。
とにかく僕の意識はELTに集中していた。
この当時からどことなく僕の中で小室さんをどこかライバル視するような傾向が出る。
また、小室さんも僕がELTに肩を入れることをあまりよくは思っていなかったようだ。
人づての話しまので、当時の小室さんを囲う人たちの利害が交錯して本当のところの話かどうかはわからないがトラックダウンのエンジニアに使おうと思ったミキサーが小室さんの使っていたミキサーでもあり、真偽のほどはわからないが「使わないでくれ」と人づてに聞きあきらめた事もある。
まあ、小室さんは覚えていない些細なことであったと思うが僕にとってはライバル心を振るい立たせるものでもあった。

第2弾ののシングルは運よくTDKのCMに決まりヒット !

続く第3弾が勝負のシングル「DEAR MY FRIEND」だった。
大型タイアップが必要だった。僕は当時のコネクションをフルに活用してあるエステのCMのキャスティングの情報をキャッチして、その出演者の所属事務所の社長に直談判してELTの曲を使ってくれるようエステ会社とプロダクションと双方から説得。
それに成功して「DEAR MY FRIEND」はエステサロンのCMとして大々的にオンエアー。
大ヒットを記録する。
まだ、操り人形のような持田とマシーンのような五十嵐、飾りのような伊藤一郎。そんなイメージをもたれていたかもしれないが持田の天性から来る天然さと五十嵐の才能で一躍スターダムにのし上がり、続くファーストアルバム「EVERLASTING」は軽くミリオンを超え、大ヒットを記録した。
しかし、僕の頭の中では小室さんとの確執が次第に大きくなる中、自分の力だけで売りださなければならないELTの次を担うアーティストの売り出し方で頭はいっぱいだった。
すでに、ELTと平行して準備は進めていた。
そのアーティストはすでにニューヨークでボイトレやダンスレッスンの最中であった。

名前は浜崎あゆみ。

どう売り出すかはまだ僕の中でも決めていなかった。
ELTのようにユニットにするのか、それともソロで売り出すのか。
はたまた誰か他のプロデューサーに預けるのかも含め未定だった。
浜崎も持田同様、小室さんにも織田哲郎さんにも会わせたが反応はなかった。

この辺から

インサイドストーリー 浜崎あゆみ

浜崎・・ayuと始めて会ったのはヴェルファーレだった。
僕と懇意にしていたヴェルファーレの黒服がかわいい子がいるからと紹介してくれたのが最初だった。
「今何してんの」という仏頂面の僕の質問にドラマとかグラビアをやってるけど、歌手をやりたいと答えていたのをうっすらと覚えている。
その後、その黒服の子の計らいで何度か会ううちにカラオケ店にいくことになり彼女の歌を聴くこととなる。
僕は彼女が歌っているそばからキーをどんどんあげていったりして、まぁ失礼な対応だったと思うがayuはそのリクエストに答えて高い声を張り上げていた。
僕の感想は「歌は決してうまくないが、声はいい。ヴィジュアルは100点満点。売り方しただいだと思った。
ちょうどその頃ayuは以前の所属事務所をやめて、フリーの状態になっていた。

ある日、まじめな相談があるといって僕を訪ねてきた。
「歌手になりたい。」要はそういう内容の話だった。
事務所はやめていたが、ドラマやグラビアから彼女のイメージは歌手というよりはアイドル的な捉えられ方をしていたので僕は「エイベックスには入れるが1年はレッスン漬けだよ」といい彼女にレッスンの日々を送らせることにした。

一方でELTの売り出しに日々奔走していた。

ELTのブレイクに1年ちょっとを費やしその間はayuはレッスン漬け(本人曰くは結構サボっていたらしいがそれも彼女らしい)。
いよいよayuのデビューの準備に取り掛かる。

とにかく難しかった。

僕はELTのようにユニットを考えたが本人はかたくなにソロでなければいやだという。
ソロは難しい。その子自体の人気や高感度がすべてである。
ユニットであれば曲が良いとか何とか逃げようがあるがソロはその子の人気がなければどうにもならない。
しかし、頑なにソロを主張するayuの意思を尊重し、ソロで行くことに決めた。
だが、当時のayuの鼻にかかったような「ayuはぁー」という話し方は女の子たちから非難集中。華原朋美とかぶっていると大バッシングを受ける。

かなりの嫌われ具合だった。

しかし、嫌われれば嫌われるほど、好かれたときの反動は大きいはずと信じ、そのまま何も変えずにそのまんまのayuでラジオやテレビに挑んだ。
バッシングは大きかったが、ある一面で評価があった。
スポーツ紙の女子高生の今年ブレイクするアーティスト予想にayuが「詞がいい」という評価で
NO.1を獲得したのだ。
その頃からじわじわとまだ始まったばかりの頃のインターネット掲示板で擁護派と敵対派で色々と論争が始まりだした。
まだ誰が作ったのかもわからない掲示板に浜崎のファンがあふれた。

当時女子からの嫌われぶりの原因となっているたのが「浜崎あゆみは自分を作ってるのかどうなのか」というのが最大の争点であった。
僕らは普段から接しているからマスコミに出ている浜崎あゆみにうそはないと思うのだが、当時は華原朋美が「朋ちゃんはー」とやって、大ブレイクしていた時期だから浜崎はそのまねをしていると総スカンをくったのだ。
気にすることはない。もともとそうなんだからそのままいけ、嫌われるエネルギーが反対側を向くときがお前のチャンスだ。
そう言い聞かせて、どういう風に嫌われるエネルギーを反対側に向かせるのかということを真剣に考えた。


散々頭をひねった挙句に当時まだ人気のあったラジオ番組に生出演してayuのことを嫌いな一般人と対談させてしまおうという企画だった。
浜崎あゆみが18歳まで歩んできた平坦でない道とでこぼこだった自分をそのまま彼女の声でオンエアーして、かかってきた聴取者と一対一で対話すると言うものだった。
年末のオールナイト日本スペシャル「浜崎あゆみはばかじゃない」という奇襲攻撃に僕らは出た。

一発勝負の賭け。負けは許されない。

2時間一本勝負。

前述でもしたかもしれないが秋元靖さん出演で秋元さんが「浜崎あゆみさんはばかじゃないと思います」というあのCMを流した。
ラジオの放送をテレビでCMするということ事態が当時相当の話題にもなったが、僕はこの番組にかけていた。生放送中もずっと隣にいて彼女を見守っていた。

ラジオが始まる。

まずスタッフが街から拾ってきた聴取者の音声を流す。
「浜崎あゆみさんてどう思いますか?」
「えーっ。あのぶりっ子見たく作ってる子でしょろやだー」
「なんか馬鹿みたいな子でしょ。朋ちゃんの真似してる」
コメントは容赦ない。

それについて浜崎がどう答えていくのか生放送の見所だ。

ayuは「そうかぁー。そういう風に思うんだ。あたしはあたしだからこれしかないんだよね。」
そこからayuの小さい頃からの育った境遇などを包み隠さず数十分間熱弁し、番組中にかかってきた浜崎のことが嫌いだという子からの電話でも対等に話し理解を得ていく。
この時、これを境に世間に広まっていた浜崎のイメージが予想通り大嫌いから大好きに変わる
その瞬間だったと僕は思う。
興奮が収まらず涙していた。
2時間のラジオは大成功。
今まで一日に数十件であった掲示板への書き込みがその日を境に何千通となり確かな手ごたえを感じた。

そして、翌日のアルバムの店頭着日のプロモーションにつながっていく。
1月1日発売の商品は倉庫の最終出荷日である12/27近辺に店頭に並ぶ。
その日以降は正月明けまで出荷が出来ないので売り上げ枚数を読み違えると足りなくなったりあまってしまったりするので最もイニシャル(最初の出荷数)を決めるのが難しい日だ。
僕は何のためらいもなく150万枚用意しろと営業に言った。
売れれば良いが売れなかったら不良在庫の山になる。
しかし、勝負に出た。
やるべきだけの宣伝展開は端から端までして、さらに店頭にCDが並ぶ日には僕が陣頭指揮をとって渋谷の交差点ジャックを決行。

当時109の看板と交差点付近の3ビジョンすべてに浜崎のビデオを流し、僕自身も黙っていられずに友人の馬鹿でかいスピーカーの付いた車を借りポスターをはりまくり浜崎の曲を大音量で鳴らし道玄坂からセンター外の入れるところまで自分で運転した。
携帯電話で渋谷各店のレコード店の売り上げを確認しながら、もうこれ以上やりようがないところまでのプロモーションをした。

渋谷交差点には色々な街宣車が来る。
キリスト教布教の宣伝カーが来ても今日だけはビジョンの音が聞こえないと困るので他の場所でやってくれないかとお願いした。
共産党の演説が始まると同じく、共産党員に掛け合い今日だけはこここではやらないでくれと土下座まがいのことまでした。
僕らの熱気と伝わるものがあったのか両者とも渋谷交差点での演説はやめてくれた。
今思えばよくそこまでしたもんだと思う。
それが何枚の売り上げにつながったかにわからないが、とにかく思いつく限りのことはすべて行った。
この僕の店頭到着日のその執念は生半可なものではなかった。
この僕を目の前で見ていた二人はは形相を変えた当時の僕の顔を一生忘れることはないだろう。
当時博報堂だった、新崎(現在会社経営)と当時ビックショット(現在代理店クオラス)であった中根だ。
次の日からは毎日店舗から売り上げ枚数を報告してもらい、消化率を推測する。
悪い数字ではないと思っていたがやはり心配である。
正月も何もなかった。
オリコンは1月の5日くらいまではデイリーチャートもなかったので不安はそそる。
頭が痛い10日間だった。
1999年1月の初頭。
ayuは堂々のオリコンアルバム第一位。デビュー作品からミリオンセラーとなる。

to be continue・・・