やはり『シンクロニシティ』は「白い羊」なのか?! | 超絶メタアナリシス

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☆☆☆ 都心(台東区)在住です ☆☆☆

昨日の欅坂46の3rdアニバーサリーライブ初日の内容ですが、ネットで流れてきた情報を見ると、最後、アンコールで乃木坂46の『シンクロニシティ』をカヴァーしたようです。

 

見た側としては、感動した、とまどい、驚き、何が狙いかわからず困惑、などなど、感想はさまざまでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、私がこの情報に接してやっぱりピンと来たのが、過去にこのブログで書いたように、”やはり、『シンクロニシティ』は「白い羊」たちを表現しているのだろうか?”、ということです(→参考:2月7日記事および1月26日記事)。

 

1stシングル『サイレントマジョリティー』から始まって8thシングル『黒い羊』に至るなかで描かれている欅坂46の世界観の主人公である「僕」は、自分を守り、失わないようにという想いが強すぎ、世の中や周りの人たちに流されまいとして、孤独に我が道を行かんとしてきました。

 

突っ張りながら生き、孤独にさまよっていました...

 

そのあてどもなくさまよう「僕」の最終到達地点が、『シンクロニシティ』の「僕」である可能性を私は1月26日の記事および2月7日の記事で指摘しました。

 

自分を失わずキープしつつも、周りの人たちをも意識できる心の余裕ができ、世界中の人たちへの”愛”を感じつつ生きている「僕」...

 

『シンクロニシティ』の「僕」も孤独で無口なんだけど、その気持ちは、共にこの世に生きる周りの人たちへの配慮と共感を持てて生きている...

 

自分のことばかり考えているわけじゃない...

 

それが、『シンクロニシティ』の「僕」...

 

つまり、進化することができた「僕」...

 

ひょっとしたら、LINEで秋元康氏とつながっている平手友梨奈は、このことを秋元氏から聞いて、欅の「僕」が最終的に到達する姿が『シンクロニシティ』の中の「僕」であることを認識して、それをセトリに反映するよう申し出て、認められたのかもしれません...

 

あるいは、欅坂の楽曲をパフォーマンスすることでときに心を病んできた過去をふまえ、運営or秋元康氏が配慮して、”愛”ある楽曲である『シンクロニシティ』を持ってくることで、心を病まないようにさせたのかもしれません...

 

とりあえず、私の見立てはやっぱり間違ってなかったのだろうな、と思いました...

 

要するに、乃木坂46の『シンクロニシティ』は、漢字欅の系列の曲群に属するものであるということですね。

 

 

 

なお、『シンクロニシティ』が欅坂46の世界観に連なる楽曲である可能性については、私だけではなく、乃木坂46の桜井キャプテンも気づいていて、雑誌『BUBKA』4月号のキャプテン対談の中で指摘していました。

 

「シンクロニシティって歌詞が欅っぽい。系統が似ている」(桜井玲香)...

 

 

 

 

以前、どこかの雑誌で、エースの平手ちゃん(もしくは別の誰か)が、欅坂46の「僕」が最終的にどこに向かうのか、どういう大人になっていくのかわからなくて不安になる、という記事を読んだことがあります。

 

確かに、人間誰だって、欅坂46の主人公の「僕」のような楽曲群を突きつけられて、そのパフォーマンスを覚えさせられ、そしてステージ上で魂を込めてやらされると、不安になるだろうと思います。

 

そんななか、秋元康氏は、彼女らの不安な想いに答えるべく、最終的な答えの1つとして『シンクロニシティ』の歌詞を示した可能性がやはりあるのかもしれないとあらためて思いました。

 

それにしても、振り付けは本家(=乃木坂)のとは違っていたとのこと。

 

これはぜひとも見たかったなぁ...

 

キャパを少なくしてセトリをレアーなものにしたのは、ひょっとしたら、円盤化して(DVD化して)、それをたくさん売ろうという戦略なんだろうか???

 

そうなったら、やっぱり買っちゃいそうです(笑)...

 

 

 

 

 

 

P.S.

私の昨晩のツイートも、結構、リツイートやいいね!、いただきました。