西暦592年12月のある日。日本の歴史で唯一、天皇が暗殺される事件が起こりました...

当時、豪族として権力を握っていた蘇我馬子は、なんと当時の天皇だった崇峻天皇を暗殺したのです。

   

この事件により、皇統の存続が脅かされる事態に陥ってしまいましたが、逆にこの事件によって、現代まで皇統が続くことになったとも言えるのです。

それはどういうことか? その鍵を握るのは、聖徳太子です。

実は、聖徳太子は、皇族の血を引いており、聡明かつ人望があったため、崇峻天皇の次の天皇になると、誰もが思っていました。

しかし、聖徳太子は天皇になりませんでした。

つまり、聖徳太子は天皇になることを望まれていたにもかかわらず、あえて天皇にならなかったのです。

では、なぜ天皇にならなかったのか?

それは、天皇としての力を、あえて弱めるためでした。

それは一体どういうことなのか?

それは、政治的な権力を持っている聖徳太子が、仮に、天皇になってしまうと、天皇という権威と、政治的なトップという権力を持つ、絶対的な皇帝になってしまいます。

もしそうなると、その絶対的地位を巡って血みどろの争いが行われる可能性があります。

実際、中国やヨーロッパでは、王(皇帝)が権威も権力も持っているため、その地位をめぐって幾度となく争いが起きています。

このようなことを防ぐため、聖徳太子は、あえて自分は天皇の座を捨て、政治のトップとして権力を握ることにしました。

つまり、現代の日本のように、政治的なトップと権威としてのトップを分けたのです。

このことによって、仮に政治の実権を握っている聖徳太子が殺されたとしても、天皇は無事であり、皇室は続いていく。このように考えたのです。

こうすることで、政治の表舞台に立たない天皇は権力闘争に巻き込まれることは無くなったのです。

日本の歴史を振り返ると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者は次々と変わって来ましたが、政治の表舞台に立たない天皇は打倒されること無く、現代までずっと血筋を繋げて来ています。

 

まさに、この聖徳太子のアイデアによって、皇室は存続することができたのですが、

聖徳太子の死後、とんでもない事件が起きてしまいます。

それは、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおおじ)を殺害したのです。

 

このことで、聖徳太子一族は、滅亡することとなってしまうのです。

政治的な権力を天皇家から切り離すという聖徳太子のアイデアは素晴らしく、皇室を存続させることに大いに貢献しましたが、蘇我氏は、権力だけでなく、皇族という権威までも奪おうと画策していたのです。

蘇我入鹿は、山背大兄皇子を殺したことで、絶対的な権力を得ることができ、その絶対的な力は、天皇を凌ぐほどに増大していたのです。‥聖徳太子の死も蘇我氏による暗殺だという説もあります。

そのため、蘇我入鹿に逆らいうる者は、もはや誰も残っていないという危機的な状況に陥っていたのです。

 

ですが、この蘇我入鹿の暴走を止めるために、立ち上がった人物がいました。

その人物は、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)。

中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと共に蘇我入鹿暗殺計画を打ち立て、西暦645年、日本史上初のクーデターを起こしたのです。

その暗殺計画とはどういうものなのか?

中大兄皇子、中臣鎌足の「蘇我入鹿暗殺計画」は、仲間の裏切りで失敗するかに思われましたが、宮中にて中大兄皇子(後に天智天皇)自らがが抜刀し蘇我入鹿暗に切りかかりました。何とか蘇我入鹿の首を討ち取ることに成功したのです。

今から約1400年前の飛鳥時代...皇極天皇4年6月12(西暦645年7月10日)に起こった

「乙巳(いっし)の変」です。

画像をよくご覧下さい。蘇我入鹿(そがいるか)の首が何処にあるか分かりますか?

その後、中大兄皇子は天皇陛下を中心とした国家づくりのために「大化の改新」と呼ばれる改革を行いました。天皇陛下を中心とした国家が誕生したのです。

 

 

教科書では語られない...海外から見た聖徳太子の評価

 「聖徳太子の時代から平安まで日本は中国に使いを派遣し、先進文化を持ち帰らせた。」‥私たちが習った教科書では、このように古代日本が積極的に遣隋使(けんずいし)・遣唐使(けんとうし)と呼ばれる留学生を派遣し、中国の進んだ文化を学んだことばかり強調されますが、実は、中国から日本へ派遣された「遣日使(けんにちし)」の方がはるかに多かったのです。

日本が一度に中国へ派遣する人数が200〜500人対し、日本書紀によると、中国側は

一度に2000人規模の人員が船団で日本へ何度も派遣されてきたことがわかっています。

中国の方が圧倒的に日本へ遣日使を送っていたのです。

その一人として有名なのが、当時中国の高僧だった「鑑真」です。(出典:wikipedia)

鑑真は、その伝記を記した「唐大和上東夷伝」で、「中国には、かつて偉大な僧・慧思(えし)禅師がいたが、聖徳太子はその生まれ変わりである。」

「聖徳太子は日本で仏教を盛んにし、人々を導いたのだ」と述べており、いかに聖徳太子の名前が知られその功績が中国で評価されていたのかがわかります。

東北大学名誉教授である田中氏は、「聖徳太子が作りあげた日本の文化力が、国際的に知られ、遣日使はそれを学びに来ている」「古代日本は決して、文明・文化的にも中国に劣っていなかったことがわかる」と仰っています。‥東北大学名誉教授 田中英道氏 著引用

 

 

 

大東亜戦争(太平洋戦争)後、GHQ(米軍)によって、歴史教育者を追放して、代わりに共産主義者を入れ、歴史書をことごとく書き換え、ニセの歴史をでっち上げたのです。もちろん、「古事記」や「日本書紀」の日本のルーツが書かれた貴重な歴史書を封印してしました。日本人のルーツを全否定させ、偽物で学童を洗脳したのです。

アメリカが「二度と強い日本を見たくない」そのために、合衆国に牙をむかないようにするため、洗脳教育を行ったと言われています。

   

また、米軍が日本国民に対して行った「ジェノサイド」の数々

民間人の頭上に原子爆弾を落としました。歴史上、未だかつて、このような野蛮な行為を行った国家はアメリカ以外にありません。

民間人の住む東京などを空襲で焼け野原にし多くの女性や子供を虐殺しました。

沖縄では、陥落後に大勢の島民を虐殺しました。日本占領後には日本人の婦女を見るや強姦しまくった(そのため大勢の自殺者がでました)‥など数えきれないジェノサイドに、日本人がいつか米国に復讐するのではないかという恐怖を覚えたからです。

また、終戦間際のヤルタ会談では‥ルーズベルト大統領とチャーチル首相がソ連のスターリンを唆して、あえて終戦後に日ソ不可侵条約を破らせて、満州・樺太・千島列島を攻め取らせて、日本人の恨みをソ連に向けさせたのです。

さらに、北方4島・竹島・尖閣諸島で領土争いが起きるように仕組んで、米国への恨みが、他の隣国に向けられるように仕組んだのも米国GHQだったのです。

 

そのGHQとは、現在のDS‥アメリカ・ディープステート(アシュケナージ系ユダヤ人など)だったのです。日本人が同盟国ナチスに逆らってまで多くのユダヤ人の命を救ったのは何だったのでしょう?