いろいろと有り過ぎたハワイから帰ると自動車電話も出来上がっており、早速、土産を持って飯田時雄氏を大国町の会社に訪ねた。

当時の不良やヤクザはこぞって芸能人と兄弟分の契りを交わしたがり、又、芸能人の面倒をみるのが或る種のステータスであり飯田氏も例に洩れず「仁義なき戦い」で名を売った菅原文太氏と兄弟分で細川たかしや売り出しの歌手や俳優の面倒をみていた。

菅原文太氏はすでに名を馳せており揺るぎない地位を映画界で築いていたがあまり知られていないが売れる前の下積みが長く松竹で一緒に居た親父安藤が東映に呼んで名プロデューサー俊藤浩滋さんが売り出したのである。
売れるまでの菅原文太氏は安藤の付き人のようなことをしていたらしい。

それだけ恩義のある安藤に対して菅原氏は売れて後、恩義を忘れたかのように挨拶もなく顔さえ出さぬようになっていたのに私は憤慨し大阪新歌舞伎座に公演に来ていた氏に若いのを楽屋に陣中見舞いの名のもと、厭味を言いにやらせた事もあったが…

この数年前に突然、安藤を訪ね旧交を温め、その後も菅原氏が自分で作ったという野菜などを送ってくれてると聞き安藤を慕う私は内心は有難く感謝している。
飯田時雄は加茂田軍団と呼ばれた組織のナンバーツーとしてヤクザ、不良としてだけでなく男として頭の回転、決断力、他、さすがと思わせる人物で高鷲学園など恵まれぬ弱者の支援を陰ながらしていた。
人間的にも魅力ある男で違う形や出会う順序が違えば飯田時雄を男にと思ったかも知れない。

私とは特に服装や持ち物の趣味が似ておりお互いに知らぬ間にジリーの同じコートを買っていたりした事もあった。

ミナミの洋品店ダンで店長や飯田氏と話していると後に元の若い衆に事務所で射殺された堺の、い連合松井さんも良く一緒になり話したものだった。

早くに家を出て辛酸を舐めつくした私はバブルの到来と同時に金儲けに狂奔した。

株式投機は勿論、M住宅の店長クラスが出入りし不動産の売買にも精を出した。

地上げも依頼された物件は大阪だけでなく東京、名古屋と何処でもこなして世間で一般に言う成金にいつしかなっていった。

それまでの生活が貧し過ぎた反動からか目的を達成するための手段に使うはずの金をいつしか目的にしていた私は数年後、その返礼をキッチリ受けるのだが当時は右肩上がりの経済が下るなどと想像だにしなかった。

使っても使っても増えていく金を私は湯水のように使った。
時間に余裕があると近場の有馬温泉、有馬グランドに家族を呼び御所の坊でゆっくりしながら他の証券会社やM住宅の各支店長が少なくない金を持って毎晩のように誰かが訪れた。

昼間は神戸の街に出て神戸そごうなどで買い物をし無駄を繰返した。

新開地のふぐ屋、現直し、北野のお可川…
あちこちに行き本当に贅の限りを尽くした。

同時期、東京滞在の折の常宿はオータニからオークラ、帝国へと変わり毎夜のように銀座のクラブを梯子し六本木へと流れついた。

たまに飯倉のキャンティなどへも行ってみたが、どうも私のような成金には合わぬ店で私には馴染めなかった。

かの松任谷由実や加賀まり子を生み出し加藤和彦さんの愛した安井かすみさんが通った店である。

私には東京という無機質な街はビジネスには合っていても生活する街とは思えなかった。

若い連中とともに芸能人を連れ歩いても心の空洞は埋まることなく、いつも虚無感に苛まされた。

今は大物芸能人となったダウンタウンの浜田氏も当時は東京進出、間もなく六本木の吉野家に牛丼を買いに来る程度ではあった。
ちょうど店の前を私達が通り過ぎる時に連れていた浜田氏と旧知のNが私に浜ちゃんを紹介した。

もっとも大阪でも何処に劇場があったのか未だに知らぬままだが心斎橋商店街の道頓堀川を渡ってすぐの付近、当時のホリデーイン南海裏の喫茶店で吉本の人間は誰彼と紹介されたがまったく興味のない私には誰が誰だったかさえ記憶に残っていない。
だだ紹介され挨拶にくる芸人の伝票はそれが食事処であれ飲み屋であれ必ず支払ったのだが…

知らず知らずの間に社会は夢から醒めようとし真坂(まさか)という坂がすぐ其処に忍び寄っていた。

いつものように上京し親父宅に顔を出し夜の街を虚しく遊んで帰る折、少し前に購入していた絵画があまり気に入らず返品か交換かを私は普通に交渉し安心して帰阪したのだが、その三ヶ月後、私の大阪のマンションのチャイムが早朝からけたたましく鳴った。

寝呆けながらインターホンを受けると警視庁の刑事達だった。

私はこの朝、身に覚えのない恐喝罪という、おぞましい罪名で警視庁に逮捕された。

まるで私がヤクザのごとくに…