土倉鉱山を巡る 産業遺産となる鉱山跡の廃墟と歴史(コンクリート遺跡)

 

かつて、滋賀県と岐阜県の境界にほど近い山岳地帯に、土倉鉱山と呼ばれる銅を主に産出する鉱山があった。

 

 

旧土倉鉱山については、謎の部分が多く、その実情について書かれている資料は非常に少ない。

そこで、昭和初期の新聞を調べていると、1件だけ土倉鉱山の記事がみつかった。

 

昭和14年の読売新聞に、「白魔」に襲われて100名が生き埋めになった事故の速報が書かれていた。広辞苑によると、「白魔(はくま)」とは、恐ろしい被害をもたらす大雪を魔物にたとえた言葉であるようだ。

当日までに激しく降った雪が雪崩となって、土倉鉱山の工夫宿舎を押し流して200名の内、約100名が行方不明になったと記されている。

事故の発生が伝えられたのは12月7日の午後であったが、雪に阻まれており、救出隊が到着するのは24時間後の8日午後と、生々しく書かれてあった。その救出隊も、新聞では「決死救出隊」と書かれている。今では想像もつかないほど道路事情が悪く、大変な場所にあったのもかもしれなない。

 

 

新聞以外には、滋賀県発表の資料にも多くは書かれていない。そこで、滋賀県立図書館で資料を探すことにした。
2回にわたる調査で、ようやく「土倉鉱山概況」(日窒鉱業株式会社編)という資料を探し出すことができた。それ以外はどうしても見つからなかったので、土倉鉱山の活動を示す、唯一無二の資料かもしれない。

その「土倉鉱山概況」から、鉱山の沿革を抜粋して、整理してみる事にする。

 

最初に、土倉鉱山のおおまかな位置を示してみる。旧北陸本線の旧中之郷駅から岐阜県境に20km程度進んだ場所にある。地名は、滋賀県長浜市木之本町金居原になるようだ。

 

 

土倉鉱山の主な産出鉱物は、銅であった。昭和33年度には、粗鋼が年産6万トンあり、そこから生産される銅は1200t程度であった。

 

 

採掘粗鋼に対する銅の生産量の割合を計算してみる。それによると、採掘した鉱石から製品の銅になるのは、わずか2%程度であることがわかった。

 

 

土倉鉱山へは何度か行っており、いつも道中の道がガタガタ道で車で行くのを躊躇していた。今回、久しぶりに訪問すると道路はきれいに舗装されており、”廃墟マニアが訪れる場所”から、”産業遺産としての観光地化”に力を入れだそうとしていることがよくわかった。看板類も整備されていた。

ただ、緑に浸食されており、路面から、その全貌を把握するのは難しい。

 

 

上空から眺めると、土倉鉱山の選鉱場の全貌がよくわかる。

 

 

文献を基に、土倉鉱山の鉱石の流れを想像してみる。

①鉱山から採掘された鉱石は、トロッコ鉄道(軌道)で運搬

②鉱石を選鉱場の上部までインクラインで持ち上げる

③選鉱場で、鉱石から銅にまで処理を行う

④一次処理された銅は、索道で旧北陸本線の木之元(中之郷)まで運搬

⑤鉄道で精錬所まで運搬

 

 

当時の選鉱場(選鉱工場)の写真が、「土倉鉱山概況」にあった。現在は、建屋の撤去はされているが、コンクリート系の基礎や壁等の構造物は、そのまま残されている。

 

 

さて、土倉鉱山選鉱場であるが、どうやって鉱石から銅を取り出すのかを、資料を基に整理してみた。

 

せかっくなので、残された遺構と選鉱手順を対比して見てみることにした。

最上部に残されていた保管棟。ブロック積の壁のみが残されていた。耐震性能はないと思われる。この中に、資材や機材が保管されていたと思われる。

(施設の概要が記された根拠試料は、一般的には残されていないようです。よって、保管庫については想像です)

 

 

鉱石を選鉱するにあたり使用する水を溜める貯留タンク。内部にはどこからか飛んできた土が溜まり、そこに、同じく飛んできた木が育っていた。

 

 

銅を分離する、浮選設備の遺構と思われる、コンクリート基礎が残されていた。まるで橋脚の様だが、この上に橋が架かっており、そこに設備が設置されていたのだろう。

 

 

総合浮選の稼働状況の写真が残されていたので、転載させてもらう。

 

 

あらてめて遺構をじくりと見てみるが、現代の遺跡の様に見える。

 

 

選鉱場の中段にあるシックナーが、奇麗な状態で残されていた。

 

 

選別された銅が貯蔵されるホッパーが残されている。

 

 

土倉鉱山選鉱場の最終積み出し場と思われる遺構も、屋根以外は残されていた。選鉱場の上部から鉱石を選別しながら、最終的な銅はここまで下ろされてくる。

これから先は、索道に移し替えられて、旧北陸本線まで架空を運搬していたと文献には書かれていた。その索道跡は、近くで見つけられなかった。もう撤去されているのかもしれない。

 

 

さて、土倉鉱山選鉱場はこれくらいにして、その奥にある第二通洞跡を見ることにした。鉱床から採掘された鉱石は、ここを通って、先ほどの選鉱場までトロッコで運搬していた様だ。

 

 

閉山してかなりの時間が経つが、いまでも坑口からかなりの湧水が流れ出ている。本来なら使われなくなった坑口は、閉塞してしまいところだが、これだけの水が常時流れ出しているので、閉塞することができないのであろう。

 

 

最後に、土倉鉱山のはどれくらいの規模であったのかを知りたくなった。そこで、日本の鉱山概論と呼ばれる文献から、銅生産順位を抜き出してみた。

土倉鉱山は、順位が33位で、シェアはわずか0.4%といった家内工業的な規模だということが判明した。

 

ところが、銅の品位を調べてみると、なんと圧倒的に全国1位だったことが判明した。

銅の品位とは、おおまかに言えば、採取した鉱石から、最終的な製品になった割合だといえる。土倉鉱山は、品位が4.2%もあり、他の鉱山に比べて抜きんでていることがよくわかった。

 

 

滋賀県と福井県の県境付近に、かつて存在していた土倉鉱山。その鉱山であるが、銅を産出していたくらいしか分かっておらず、その詳細はほとんど知られていない。ただただ、鉱山跡の廃墟として有名な場所であった。

今回、その土倉鉱山の概要を記した一冊の鉱山日誌に巡り合うことができて、その全貌を知ることとなった。

土倉鉱山は決して大きな鉱山ではなかったようだが、銅の品位が全国トップレベルであったことが判明した。

滋賀県が誇る、貴重な近代化産業遺産ではないだろうか。