「中国人マフィア」VS日本の暴力団 2000年代 | a.k.a.“工藤明男” プロデュース「不良の花道 ~ワルバナ~」運営事務局


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(中国人マフィアでも日本のヤクザでもありません)



■2000年代前後の「中国人マフィア」間の抗争

 日本在住の中国人マフィア間の抗争は、表に出たという点においては、まず台湾グループの間で始まった。


 1987年2月 歌舞伎町近くにあったマンションで台湾マフィア同士の銃撃戦が展開され、3名が死亡するという事件が起きた。

 次いで、1987年12月 大久保のマンションで台湾マフィア幹部2名が射殺される。犯人は前科16犯の猛者、楊双力という日本ではほとんで目にすることのできないほどの凄腕でのアウトローであった。

 実は、編集部員の一人はこの楊という凄腕アウトローと兄弟分だったという男と、2000年代後半に中国大陸のある土地で、インタビューをしたことがある。その男は社員3千名を超える実業家となっており、インタビューは彼が経営する5つ星ホテルの社長室で行った。彼は、楊のことをいろいろと話していたが、「楊は、本当にいい男だった。死刑になって残念だ」と言っていたのが印象的だった。彼の言葉の通り、この事件の後、楊は確か台湾で死刑になっている。


■禁断の「警官殺し」と勢力の変化 


 そして1992年、日本における中国マフィア史にとって決定的な事件が起きる。台湾マフィアの一因が職質した警察官2名を射殺するという事件が起きたのである。

 それは衝撃だった。日本のヤクザでさえ躊躇する警官殺しを、いとも簡単にやってのけたのだから当然である。

 しかし、これを期に、日本の警察はメンツをかけて台湾マフィアの徹底した取締を展開する。その結果、台湾マフィアは徐々に衰退していかざるを得なかった。

 台湾マフイアが衰退すると、新宿には「上海」「北京」「福建」の中国三大マフィア勢力が急速にその勢力を拡大させていく。彼らのそれぞれの勢力拡大は同時に抗争の歴史と重なった。

 1994年2月、中国クラブで殺人事件が起こる。これは上海人経営のクラブを福建人グループが襲撃したことによるものであった。1994年6月には、別の中国クラブで客として店に来ていた福建人アウトローが店にいた上海人と揉め、その男を刺殺して逃亡するという事件が起きた。

 そして8月に、世間でも有名な、中華料理店「快活林」における、いわゆる「青竜刀殺人事件」が起きるのである。


 この事件で使用されたのは実は刺身包丁だったらしいのだが、中国人マフィアがからんでいたことで凶器は「青龍刀」という他にない、そしてそれが伝説として定着した。この「青龍刀殺人事件」は中国マフィアの凶暴性を印象づけるのに大きな役割を果たした。

 こうした中国マフィアの抗争のその内実を追った当時の産経新聞の記事で見てみよう。

「新宿区歌舞伎町の中国人組織は従来、上海グループが飲食店などを営み、売春を斡旋していたが、蛇頭の手引きで密入国するなどした福建グループが勢力を拡大。平成6年には歌舞伎町の中華料理店で客二人が中国の大型剣で殺される「青龍刀事件」などの対立抗争が起きた。」(産経新聞2003年の記事)

 これらの事件は、いずれも中国人内部での出来事であることを特徴としていた。日本に来た中国人アウトロー、もしくは日本でアウトローになった中国人は、同じ中国人が日本で稼いだ金をねらい、それを巡って抗争を繰り返していたのである。


 この時点では、新宿を抑えていた日本人ヤクザはまだ鷹揚であった。彼らのシノギと直接バッテイングしない中国人の”無法”には目をつぶっていたのである。

 ところが、この頃、日本のヤクザに大きな”地殻変動”が起こりつつあった。言うまでもない、暴対法の施行である。これは、日本のヤクザにはボディブローのように効いていった。表立って、みかじめ料の徴収などが難しくなったヤクザの中には、馴染みの中国人アウトローを下請けに使うものも出てきた。さらには、地域警察の役割を果たしてきたヤクザが、暴対法で表立った活動ができなくなったことで、中国人アウトローが歌舞伎町の街を我が物顔で闊歩するようになる。


 機を見るに敏な中国人マフィアたちは、ヤクザが暴対法で身動きが取れないと見ると、半ば公然とヤクザのシノギに割り込んでくる者まであらわれたのである。こうしてヤクザと中国人マフィアとの間は一触即発の雰囲気につつまれて行くのであった。


■中国人マフィアVS日本の暴力団


 両者の本格的な激突は、もはや避けることのできない情勢となっていた。



2002年9月、新宿歌舞伎町の風林会館1階にある喫茶店「パリジエンヌ」で中国東北グループに属する中国人マフィアのメンバーが歌舞伎町を縄張りとする住吉会幸平一家の組員二人を射殺するという事件が勃発した。いわゆる「パリジエンヌ事件」である。


「昨年(2002年)7月、歌舞伎町の中華料理屋に約150名の男たちが集まった。東北グループなどの一部と住吉会系組員。「お互い衝突しても仕方ない。権益を犯さない限り手を結んいこう」とする『結団式』であった。二か月後の9月、歌舞伎町の喫茶店『パリジェンヌ』で住吉会系組幹部二人が中国人に撃たれ死傷。その後、歌舞伎町で中国人が経営する店に催涙スプレーがまかれる等、嫌がらせが相次いだが、嫌がらせの一部は、住吉会に加勢した東北グループなどの犯行と見られている。」(産経新聞2003年の記事)


 この記事に示されるように、住吉会などの日本のヤクザと中国マフィアの中の「東北グループ」が対立したり、和解したりしていたがその最中で起こった事件であった。この地点で中国マフィアの中にも日本のヤクザに対して温度差があったことがわかる。


 日本のヤクザの猛反撃と、警察の威信かけた捜査により、この事件の犯人は捕まりやがて事態は沈静化していった。

 しかし中国人マフィアの存在が、日本の闇社会で排除できないまでに勢力を増したことを象徴する事件として、その後の「日本暴力団と中国マフィアの蜜月関係」が形成されていくのである。


 日本の闇社会のその実の一部は、まさに中国人マフィアだらけとなっているのが現況である。それは表にはなかなか顔を出すことはないが、間違いなく日本の危機を表していると言えるだろう。
(取材・文 R-ZONE編集部)