ワッツ夫人はすでに老いていた。世の中はやっと戦争が終わり落ち着きを取り戻しつつあった。この戦争はそれまで米国民が積み上げた富を散々食い荒らしてしまったから、人々は様々な豊かさへの憧憬を抱き都会に出た。ここヒューストンでもちょっとした就職難を招いていたし、市民の多くの暮らしはまだ楽ではなかった。
だが夫人はすでに20年も前に貧しいバウンティフルの村の生活に見切りをつけ、この街に息子と二人で出て来ていた。成長した息子はやがて結婚し母と息子夫婦との同居が始まった。そして現在彼女は感じていた。自分にはもとより都会暮らしは合わなかったのだと。折に触れて思い出すのは、広大な大地を耕し 澄んだ空気を吸い 貧しくとも解放感に溢れた自然の中での暮らしだった。ところが今はどうだ。狭いアパート二部屋で息子夫婦との同居 ── 臨時雇いでアルバイトをしている頼りない息子ルディと、パート勤めの口うるさい嫁ジェシー。
ここでは土いじりもできなければ実りも得られない。孫さへいない家庭での生活は 息が詰まるような毎日だった。嫁に言わせれば 夫と義母の世話で手一杯、子供などとんでもないそうだった。
その上、嫁は義母の年金を気にしている様子で、ちゃんと小切手が届いているか否かを度々彼女に訊ねるのだ。更に換金する郵便局へは、夫人が勝手に換金できないよう依頼までするという念の入れようだった。そんな環境は老いた彼女の心臓に負担をかけた。時々体調を崩す事があった。急に目まいがして動悸が激しくなる。たいていはしばらく横になっていると収まったが。
彼女の願いは日を重ねる毎に顕在化して行った。 かつて住んでいた故郷バウンティフルの村にもう一度戻り、空き家になっている自分の家で余生を送る事。電話も引かれていない「僻地」だったが、その村には幼馴染みのキャリーが待っている。女一人、村に残って今でも畑仕事をしていた。彼女がやっているのだから、私にだってできる! 夫人がそう考えるのは無理無かった。 それに ── いつでも戻って来いと 手紙で言ってくれているのだから。
* * *
若者は未来を語り老人は過去を語ると言う 。若者は語るべき過去を持たないし、老人は語るべき未来が無いからである。前者が未来を見ているのと同じく、後者は追憶の中に過去を見ている。ワッツ夫人のように現在気を紛らせる手段を持たない者はなお更である。ふと気が付けばいつも昔と今の生活とを比較をしている自分がいた。彼女には窮屈で孤立した気分に対処する方法などなかった。唯一、讃美歌を口ずさむ事が自分にできる気晴らしだっが、嫁はそれさへも奪っていた。いくら小声で歌っていても、その度にきっぱりと禁止の宣告を受ける。
「私がいる前では歌わないで!」
ここでの閉塞感と募る郷愁はもはや如何ともし難いほど肥大していた。
ある日の朝 嫁とのつまらぬ行き違いがあり、腹が立った勢いも手伝って かねてからの決意がムクムクと頭をもたげたのだ。「今度こそは」と思う。息子夫婦が仕事に出たのを見計らった彼女は ついに家出を決行したのだ。
目立たず地味な服装をして ── 実際には普段着以外の服はそれしかなかったのだが ── 頭にはツバのある帽子、手に小さな旅行用カバン一つと 肩にはもっと小さなバッグ、それに雨除けのコート。首からかけたソフトケースには胸元に隠すように 頼りの年金小切手を入れていた。
ご近所に顔を見られぬよう配慮しながら駅まで歩いた。階下の顔見知りには普段通りの挨拶を交わし、たまに訪れるマーケット前を通る際には何気なく手で顔を隠したし、ドラッグストアの道は避けて通った。
* * *
こうして誰にも悟られず駅に着く事ができた、多分。ヒュ-ストンは汽車とバスが並行して走っていたから、彼女の目的地にはどちらでも行けるはずだった。だがどちらにせよ乗るまでは気を付けねばならない。汽車の駅では過去に何度か連れ戻された。いや、たいていは駅に着く前にそうされたのだ。嫁が自宅に確認の電話を入れたら、自分がいない事がバレてしまう。すると電光石火の勢いで連れ戻しに来るのだ。安心はできない。待合室の窓から外を見張る必要があった。
まず汽車に乗るべく切符を買う。
「バウンティフルまで1枚」
だが窓口の向こうからの言葉に彼女は耳を疑った。
「そのような駅はありません」
実は ── 過去にも同じことを言われたが彼女はきれいに忘れていたのだ。そんなはずはない。窓口の男に何度も聞き返した。しかし彼の答えは変わらなかった。バウンティフルへは利用者が無い為に、汽車もバスも2年前から駅が廃止されていたのである。当然バスの窓口の返答も同じだった。一瞬絶望感が走った。だがここで諦める訳にはいかない。仕方がない、とりあえず村の手前のハリソン駅まで行こう。ハリソンには若い頃何度か遊びに行った事があった。初めてダンスをした街、一つだけあったオペラハウスで踊った。彼女の厳格な父は最初なかなか許可しなかった・・・・。そこまでバスの切符を買う事にした。
小切手は窓口では換金できないとの事だった。財布の現金はギリギリだったがハリソンまでの切符が買えた。やった! そこからバウンティフルの村までは確か20kmほど、そこで小切手を換金したらタクシーで行けるだろう。もし車が無くても陸続きだ、歩いて行ける!
* * *
バスが来るまで少し時間があった。ブラインド越しに窓の外へ注意を向けながら、広くはない待合室の二列10席ほどのベンチに腰かけた。この時間、人はまばらだった。隣の席には若い女性が座っていた。話しかけると 偶然彼女も夫人と同じハリソンまで行き、そこから別便に乗り換えるのだと言う。良い同乗者ができた。そんな思いでいると、息子夫婦が車を降りて来るのが見えた。連れ戻しに来たのだ。きっと妻のジェシーが自宅に電話を入れたか、昼休みに一時帰宅して義母の不在を知ったのだろう。夫人は慌ててトイレに駆け込み隠れた。彼らは周囲を見回しながら駅員に老婆が来なかったかを訊いた。幸い窓口は15分前に昼の交代をしていたから「見ていない」との返事。次に息子は待合室に居たその若い女性に聞いた。彼女の隣りの座席に、見覚えのある母親のハンカチが落ちているのを見つけたからだ。それを見た女性はとっさにウソはつけないと感じた。そこで、老婆は見かけたが どこかに行ったようだ と答えてくれた。
妻は公衆電話で警察へ捜査依頼をした。警察からは「人の注意を引くための行動で、老人や子供にはよくある事、家で知らぬふりをして待っていなさい。」 と言われた。夫にそれを告げた後、二人は引き揚げて行った。
しばらくして様子を見計らい待合室に戻った夫人は、息子夫婦が立ち去る姿を窓から確かめた。若い女性は「あなたのハンカチを見つけられたので、あなたを見たことだけは話した。」と告げて詫びた。
「いいのよ 私でもそうするわ。」
老婆は笑って許すのだった。
* * *
バスが到着した。いよいよ念願を叶える時が来た。彼女はいそいそと乗り込んだ。さあこれで連れ戻される事はない。私はもう戻らない。
車窓から眺める風景はどれも新鮮で 太陽の光を受け全てが輝いていた。もう何年間も味わったことの無いこの高揚感。彼女の帰郷を神が祝福しているかのようだった。そう思うと、街を出た際の何の変哲もない草原風景でさへただ美しく、自然と笑みがこぼれるのだった。ハリソンまでの途中の駅で一度乗り換える必要があった。若い娘もそうだった。今度のバスでは、そこからハリソンまで二人は隣り合わせの席に座った。同性のよしみと、すでに待合室で見知った仲だったから 徐々に身の上話を紹介し合った。ある程度お互いの素性が分かると、夫人はちょっぴり自分の娘が隣席に居るような気分になった。幼くして亡くした娘が生きていれば、ちょうどこの娘くらいの年になっているはずだ。
これから夏に向かう季節の太陽は高く昇っていたが、日が落ちてもなおバスは走り続けた。二人はあれこれ会話を続けていた。更に数時間が経った。二人とも会話に疲れてうとうとし始めた頃ハリソンに到着した。夜10時を過ぎていた。
バスが到着の合図に軽くクラクションを鳴らすと、間もなく中から明かりがともされ、係員が出て来た。そしてバスのサイドスペースを開きボストンバッグを1つ降ろし、ターミナルの中に運び込んだ。バスはすぐに発車した。降りた客は二人だけ。
ハリソンは殺風景な田舎町だった。夜の人気(ひとけ)の無さがそれに拍車をかけた。ヒューストン駅より遥かに小さく古びたターミナル。明るくもない照明の下には粗末な木製ベンチ ── 人間が三人程度座れる ── が1台、同じものが外にも1台。中のベンチのすぐ奥にはカウンター、暇を持て余した先ほどの中年係員が座る背もたれの高い椅子。
「こんな街だったのかしら。」
と夫人は意外に思う。過去の記憶は常に大きく、威厳があり、輝いているものだ。
大きなバッグを運び込む係り員に話しかける為、夫人は外に出た。
「私バウンティフルに行くんです。」
運びながら彼は怪訝な顔をした。
「あんな所に何しに行くんです?」
「幼馴染がいるの。」
「あそこには誰もいやしませんよ。最後まで残ったキャリーも死にましたからね。」
「えっ? ・・・・」
一度荷物を置いて男は続けた。
「いつ死んだかは不明です。一昨日前に発見されてね。今朝葬式をしたところです。多分死ぬ直前までトラクターを運転していたんでしょう。」
あのキャリーが 死んだ?
・・・・・・・
彼女は外のベンチに座り込んだ。
* * *
今、故郷には誰もいない。自分一人でこれから生活するのか。不安と寂寥感が同時に襲って来た。しかしそれでも彼女の希望は潰えてはいなかった。追憶が郷愁と重なった末に醸造する錯覚の力はリアルで凄まじいものがある。そこに現在の不満の数々が強力な後押しを添える。
あそこには自由な暮らしが待っている! だって好きな時に讃美歌が歌えるんだから。それに土いじりもできるし、野菜や果物も取れる。一人であっても自分の生まれた家で暮らせる。少ない年金だが自由に生きて行ける。そしてあそこならいつ死んでもいい。
実際、それは彼女の錯覚に近かった。店もなければ車も電話すらない。明日からの食事にも事欠くだろう。作物の種もない。たとえあってもそれは数日では生えて来ない。そんな所で生きては行けない。ひょっとして言葉通り、そこで死ぬ覚悟をしているのではないか。自分が生まれ育った家を選んで一人餓死するのも一つの死に方ではあるが。
今の社会、孤独死を嫌悪する傾向がある。それは密集した街で周囲に迷惑がかかるからである。特に発見が遅れると近所はいい迷惑だ。様々な後始末もある。だが動物は一匹になって死ぬ。彼の家族に看取られて死ぬなどあまり聞いたことがない。それが本来の死に方ではなかろうか。人間は生死への尊厳とやらにこだわり過ぎている。世界の多くの人々が尊厳などとはまるで無関係に生まれ死んで行く。人権などと同様に、本来そのような抽象的概念は存在しないのだから。
夫人は横に立つ友人にきっぱりと言った。
「朝になったら車を手配し、バウンティフルに行くわ。そこで暮らすの。」
若い友人は夫人の固い決意を知った。
やがて友人の待つ乗り換えバスが到着した。夫人に残っていたサンドイッチを与えた彼女は、無人の村に行く老婆一人を残したまま去って行く事に後ろ髪を引かれる思いだった。だが乗るしかなかった。
「だいじょうぶ、心配しないで。」
夫人は気丈なふりをして彼女を見送った。バスはすぐにターミナルを出て行った。
* * *
待合室は夫人一人だけになってしまった。もう朝まで便はない。係りの男はターミナルを閉める準備を始めた。と言っても明かりを消し、ドアを閉めるけの事だったが。
夫人は歩き回る男に話しかけた。
「この街で初めてダンスを踊ったのよ。ここのオペラハウスでね。」
男の返事は容赦なかった。
「あれはもうありませんよ。15年前にね、老朽化したんで取り壊されました。」
彼女はがっかりした。だが「キャリーの死」と比べたら、さほどでもなかった。
今度は男の方が聞いた。
「ハリソンでお知り合いは?」
ちょっと考えた夫人は頭に浮かんだ人々の名前を挙げた。
「フェイ姉妹」
「知りませんね。」
「ではナンシー・グッドヒューは?」
「さあね。」
男は答える度に明かりを消して行く。夫人の周囲は次第に暗くなる。それはまるで、彼女の記憶にある知人達が次々と消えて行く侘しさを象徴していた。
「イウングさんの店は?」
「何代目の?」
「ジョージよ。」
男は三代目が12年前に死んだと告げた。その息子二人のうち一人は飲まないが、もう一人は大酒飲みで父親が困り果てていたと。顔や名前も知らぬ子供の事など彼女にとってどうでもよかった。
何もかもが変わったのだ。まるで自分だけポツンと取り残されたような寂寥は老いた者がしばしば感じるものである。だがそれが自然の常であり流れである。大抵の人間は身勝手にも「昔のまま」を望んで悲嘆し渇望して一度は自然の流れに抗うが やがて無駄な事だと悟り、その葛藤を諦観の中に埋没させてしまう。ほんの一部の活動的な者達が、その追憶を絵画にしたり文章や日記に書きとめて昇華させようとする。そうやって「捨て難い過去の記憶」をなぞるのである。
今彼女は無謀にも「過去の生活そのもの」を現実になぞる事を、店も電話も車も無い無人の村で試みようとしているのだ。
明かりは遂にカウンター内の机上スタンド灯だけになった。男は中の椅子で仮眠を取るのが常だった。彼女の記憶に残る人々は消え、あたりも暗くなった。夫人は室内にあるベンチに体を横たえた。張りつめた緊張が緩むと、長旅の疲労感が一気に押し寄せた。夫人は男が告げた話を反芻するうちに いつしか眠り込んでいた。
* * *
待合室のドアが開いて男が入って来た。保安官である。年は50を過ぎた中肉中背でツバ広の帽子、口ひげをたくわえた人物だった。物音で夫人は目を覚ました。数時間ほど熟睡したようだ。ここはどこなのか、あの見慣れたいつもの部屋ではない事は分かった。ではどこ? ・・・・ ああ、ハリソンの・・・・ 思い出すのにしばらくかかった。
男は覚醒したらしい夫人に近づいて言った。
「その年では決して無理をしてはいけません、またチャンスは来るのだから。」
またチャンスは来る? どこにそんな保証があると言うの? そんなの待っていても私は年を取る一方なんだから。チャンスは今よ!
保安官は続けて息子夫婦が朝7時半ごろ迎えに来る事を話した。
それを聞くや否や彼女は眠気も飛び、激しく反発した。
「もうチャンスなど来ない。ここまで来て諦める訳にはいかない。死ぬまでにもう一度見ておきたいのです。住むのがダメなら、せめてもう一度あの野原を、住んでいた家を あの風景を見たい。あそこの空気を吸いたいのです。1時間でも、いや15分でもいいんです。あの家のポーチに立ちたいんです。息子達が来るまでまだ時間はあるでしょう?」
夫人は保安官の胸を叩いて必死に訴えた。興奮した彼女をまた目まいが襲ってきた。倒れ込む夫人を支え彼はベンチに運んだ。そして医者を呼んだ。
簡単な診察を終えた医者は「少し眠ると元気になる。そうすればバウンティフルにも行けるだろう。」と言って帰って行った。
すでに外は白んでいた。しばらくして夫人はゆっくりと覚醒した。それに気付いた保安官は傍に寄り 今の気分はどうかと聞いた。 落ち着きを取り戻した彼女は穏やかに答えた。
「さっきよりだいぶいいみたい。」
夫人の表情と安定した態度を見て回復を確認した彼は、一呼吸おいて静かに告げた。
「私の車に乗りなさい。村まで行きましょう。」
* * *
車がバウンティフルに近づくにつれて、見覚えのある光景が次々と彼女の眼に入って来た。それは紛れもなく20年前に息子と共に別れを告げた風景だった。保安官は車の速度を落とした。散在する朽ちた家はどれも無人だった。それを見ると彼女はさすがに寂寥感を覚えた。
「これがバウンティフル。そしてキャリーはいない・・・・。」
だがそれより 夢や想像ではなく、今故郷に戻ったという実感、その込み上げてくる感動が上回った。彼女は気を取り直し、消えかかった遠い記憶を懸命に辿るのだった。昔見たあの広大な草原とそこに立つ木々、あそこに見える丘で遊んだ事、そしてあの木の陰に座って母の焼いたパイを食べた事。
── やあ みんな 元気だった? 私は帰って来たのよ! ──
もっとよく見ようと窓を開けると、あの頃嗅いだ木々や緑の香りが飛び込んで来る。懐かしい空気を胸一杯に吸い込みながら 保安官に説明するのももどかしく、あの木、あそこの丘を指さす彼女の頬には 熱いものが流れ落ちるのだった。
やがて車は細道をそれて草原の中にある白い家の近くに着いた。草原の中、林をバックにそれは静かに佇んでいた。車を降りた二人は家に向かって歩いた。20年前の草を踏みしめる靴の裏の感覚を思い出しながら夫人は歩を進めた。白塗りのペンキは全体にくすんで一部は剥離しているようだった。祖父が建て、父や彼女が生まれ育ったこじんまりした家。息子二人を育て、赤ちゃんを二人亡くした二階建ての家。遂にポーチ前に来た。聞き覚えのある鳥達のさえずりが聞こえる。次々と甦る記憶は、しばし彼女を茫然とさせたのだった。
二人は家の前に佇む。彼女の過去に浸る姿を見た保安官は、しばらくして車に戻って待つことにした。よそ者の自分がいるより 彼女一人の方が満足できる、そう思ったからだ。
彼女はポーチ横の木の壁に手を当てた。塗装は落ち汚れてもいたが、そんな事は関係なかった。壁に向かって小さく語りかけるのだった。
「帰って来たわよ。」
朽ちたポーチに立つと 開きっぱなしの家の中から「お帰り」と 今にもあのパパとママが出て来るように思えた。
居間に入って周囲を眺める。部屋は外からの光りだけ。荒された様子はなく、出て行った当時のままにそれはあった。ガランとした部屋の棚や隅には置いて行った「やかん」と「花瓶」、そして数個のがらくたがそのまま残っていた。横の壁際には 長い間火が途絶えたままの暖炉が。
毎日上がり降りしたきしむ階段を上がると 屋根の低い部屋、窓からは庭が見えた。その光景は若い頃にいつも見ていた「見慣れた光景」だった事を思い出した。薄いレースのカーテンは今もかかっていて、開いた窓からの微風を受けゆっくりと揺れていた。白だった色はややグレーに変色していた。
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突然外から聞き慣れた声がした。それは彼女を「味気ない現在に引き戻す声」だった。車にいた保安官は息子夫婦の「迎え」を確認すると、事務所に戻って行ったようだ。
過去との対面はそこで中断され、彼女は階段を降りた。そしてポーチに出て来て息子ルディに迷惑をかけたと詫びた。息子は母親の気持ちに気付かなかった自分を詫びた。だがその必要はなかった。何故なら息子は母の望郷の念を理解していたし、母もそれを知っていたから。二人はしばらくかつての「我が家」を眺めていた。
やがて、車からじれた嫁が降りて来た。
「何をしてるの? 新しい靴がドロでメチャクチャになったわ、さあ早く帰るのよ。」
「過去との対面」を果たした夫人は ゆっくりとした足取りで車に乗り込むのだった、またあの「現在」に戻る為に。
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1985年 米国映画 「バウンティフルへの旅」(The Trip To Bountiful)
アカデミー賞受賞作品 主演 ジェラルディン・ペイジ(ワッツ夫人)