“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(19)ー「農村コミューン主義」革命家に心酔する戦争狂の狂人 | 日本人の進路

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“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(19)──「農村コミューン主義」革命家に心酔する“戦争狂の狂人”西尾幹二






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歴史の偽造屋・西尾幹二





西尾幹二01


















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中川八洋掲示板
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2015/04/16/134757



「農村コミューン主義」革命家に心酔する“戦争狂の狂人”西尾幹二──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(19)

2015.04.16

カテゴリ:西尾幹二の妄言狂史



筑波大学名誉教授  中 川 八 洋





 日本の「現代史」が空白と歪曲しかなく、歴史の真実とはほど遠い“ノンフィックション小説”に近いものとなっている原因は、二つある。

 第一の主因は、大学における「現代史」分野のほとんどを独占する共産党系の研究者・学者たちが、初めから歪曲と空白化を企図して真実から遠い嘘歴史を捏造する作為を永年にわって積み重ねてきたからである。

 では、どのような空白化か、どのような歪曲か。その答えはきわめて簡単。日本の共産革命に役に立つ“デッチアゲ現代史”になるよう、都合の悪い所は空白にするか、歪曲改竄するか、この二つの手法でそれを徹底した。
 


 この赤い作為はすでに「戦後七十年間」も営々と積み重ねられてきたから、そう簡単には是正されえない。いや、もう是正などもはや全くの不可能。そのようなことができる人材が日本国にはゼロとなったからである。

 第二の主因は、民族系の“非学者”評論家たちの垂れ流す真赤な嘘歴史が、共産党系の現代史“学者”の捏造歴史を是正するよりも、逆さにも全面支援する共犯的な関係においてこの捏造改竄を加速したためである。1970年代に始まった、妄言・暴説のスタイルでの民族系論客の嘘歴史大量垂れ流しも、すでに四十年間。
 


 民族系論客たちは、実態的には、自分の売名売文のため一般国民を洗脳煽動せんものと、いわゆる“畸形の反日”言論活動をしている。だから、民族系デタラメ評論家は、自分たちが「現代史」を真実から遠ざける逆走エンジンの役割を演じているのを何となくは自覚している。が、彼らには共産党系の赤い学者と同じく、愛国心などからきし不在。だから、自分の言説のマイナス効果など気にならない。民族系論客が垂れ流す嘘歴史評論の、日本国を毀損する深刻な害毒は、共産党のそれに同等である。

 嘘歴史垂れ流しの民族系論客の代表といえば、今では誰でも思いつく、ニーチェ=ヒトラー主義者の“畸形の極左人士”西尾幹二。
 
 


 そこで、「畸形の反日」屋で“非学者の暴言”のみが満載の、西尾幹二の『GHQ焚書図書開封』第五巻と第七巻から、日本を無用の戦争の奈落に導かんとする、“歴史音痴”西尾幹二の戦争狂の狂気を抉り出して、上記を証明する一端に供したい。歴史を知ったが故にそれをあらん限りに歪曲・改竄する共産党系学者の怖ろしい暴力共産革命の情念と、“戦争狂”西尾幹二が「無知と幼稚と意味不明の歴史評論」を振り回して日本国の廃墟化・亡国を図らんとする恐ろしさとには、優劣がつけがたい。 










「農村コミューン」革命が信条の、“スターリン集団農場”を憧憬する長野朗


 『GHQ焚書図書開封』第七巻(2012年刊)は、長野朗の作品三冊に関する、西尾幹二の(良く言って)小学四年生レベルの読後感想文である。作品三冊とは、『支那三十年史』(1942年)、『民族戦』(1941年)、『支那の真相』(1930年)である。

 西尾幹二は、日本の政治思想史上では“幸徳秋水系アナーキズム”の流れを汲む長野朗を、長野朗の低層に潜むアナーキズムに共鳴するのか、褒めちぎっている。学問ジャンル「現代史」の物差しに従えば、長野朗の支那論には学術的価値はゼロ。現代史の研究にとって(戦後の支那側で「日本人支那通」の一人として研究対象となることはあっても、日本側に)価値ある知見は何もない。
 


 とすれば、西尾幹二が長野朗を手離しで称讃すること自体、「現代史」の中でも大きな比重を占める「日支関係史」「日満関係史」「東アジア国際政治学」等の専門家からみれば、西尾幹二が小学生レベルの知識しかないことの証左となっている。なぜなら、学術的価値ゼロの長野朗の“支那・満洲解説書”群に感動すること自体、2012年時点(76歳)までの西尾幹二が、支那人(漢族)や支那・満洲に関する国際関係論の知識が全くのゼロだったことの動かぬ証拠ではないか。

 長野朗への西尾幹二の大絶賛は、上記の第七巻だけではない。2011年刊の『GHQ焚書図書開封』第五巻においても既に展開していた。その第八~一一章が、それに当たる。第五巻では、『支那の真相』(1930年)、『日本と支那の諸問題』(1929年)、雑誌『満洲事件の経過』(『世界知識』増刊、1932年2月刊)の中の長野論考、の三点を西尾は採り上げている。
 


 専門家だけでなく「現代史」の研究に多少の関心があるものは、長野朗といえば、即座に「農本主義者」の五文字が頭をよぎる。しかも、専門家の多くは、橘孝三郎/権藤成卿についで三番目にはその名を思い出す。長野朗は、「農本主義者」としては、重要人物だった。

 長野朗は、“支那問題の権威”でもなかったし“支那問題の一流学者”とも看做されなかったが、戦前日本で「支那通」として名が通っていた。これは事実。だが、長野朗が「現代史」に名を残したのは、「農本主義者」、今風に言えば「農村コミューン主義者=農村コミュニスト」としてである。「支那学者」としてではない。

 長野朗は、陸軍大尉で軍役を去った後、直ぐに向かったのは、ルソーとマルクスとクロポトキンをブレンドした“幸徳秋水アナーキズム”直系の大川周明の門だった。長野朗の信条イデオロギーが、“アナーキスト系の農村コミュニズム”だったからである。因みに、長野の履歴は一八八八年生れ。陸軍士官学校卒後、陸軍に入り、工兵大尉の1921年(33歳)、退役して予備役編入。その後、大川周明の門下生的な行地社メンバーとなる。大川周明は1886年生だから、長野朗は大川より二歳年下だった。 


 大川周明が北一輝と別れ、行地社を結成したのが1924年。長野朗は大川周明側に付き、行地社から四冊の著作を出版した(1926~7年)。

 長野朗が、自ら信条に従った農村コミュニズム革命への第一歩を踏み出したのは、五・一五事件の前月、1932年4月、「自治農民協議会」結成を主導した時。「自治農民協議会」の「自治」とは、1871年のパリ・コミューンの「コミューン型無政府」と同類の概念。過激性ニュアンスを持たない現代語「自治」とは意味が異なる。
 


 長野朗は、思想的には権藤成卿とほとんど同じ。無政府主義系のアナーキズム色が強烈なのに、幸徳秋水や大川周明などが志向するクーデターなど暴力革命やテロとは一線を引いていたようだ。これが、長野の同志だった(愛郷塾の)橘孝三郎や、長野の最初の師である大川周明が、五・一五事件のテロに参加したのに、長野朗が参加しなかった理由であろう。権藤成卿も五・一五事件ではいったん逮捕されたが無関係が証明され釈放された。長野朗や権藤成卿は、あくまでも合法的に農村アナーキズム革命が遂行できると考えたようだ。

 レーニンのロシア革命に触発され、その「プロレタリアート労働者」を「プロレタリアート農民」に置き換えた、1932年の“農村コミューン革命団体”「自治農民協議会」の「宣言書」は、長野朗の作。その末尾をほんの少し引用しておこう。マルクス・レーニン主義の臭いがプンプンである。市場経済の否定と自給自足を謳っているから、長野朗がスターリンの集団農場を“ユートピア”に思い描いていたのは事実。
 




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 「公同自治(コミューン)による革新(革命)には農民の自覚と全国的団結を必要とする。古今東西の歴史は、かつて農民の自覚による一国改造の実行を記録していない。…もし農民が速やかに自覚と団結とを強化しなければ、わが歴史上の一大不幸が現出し、農民自身もまた永久に救われないだらう。…全農民は決起して団結せよ。農民を救ふものは農民自身の外にはない。農民自治(農民コミュニズム)によつてこそ日本は救はれ世界もまた救はれん」(注1、カッコ内中川)。  

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“かつて支那通”長野朗の支那論に学ぶべき知識など皆無。だが、なぜか西尾は大絶賛。“対中永久戦争”を日本人に煽動する西尾幹二の狂気は不治。


 農村コミューン主義者が、なぜ、「支那通」になったのか。北一輝と動機は同じかも知れない。戦前日本で革命家を目指すものは、清朝滅亡後の統一政府なきアナーキーとなった支那大陸を流浪して、その革命方法や手段を磨くのが通例で、長野朗もその一人だったに過ぎない。だが、このテーマは重要とはいえず省略する。

 そこで話を本論に戻そう。まず、“スーパー歴史音痴”西尾幹二は、農村コミュニズム革命家・長野朗をどう礼讃しているのか。その異常な礼讃が常軌を逸しているのは、次の「長野朗の著書18冊が市販禁止(=市販した場合は、その店頭から没収)の対象になったから、戦後日本で、歪曲きわめる現実遊離の対中観が日本中に広まった」との、西尾幹二の“荒唐無稽な妄想”に明らか。
 




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 「シナおよびシナ人の現実をしっかり見据えて、それを日本国民にわかりやすく報告してくれた長野朗という存在はどれほど貴重だったか」

「長野朗の『日本と支那の諸問題』が没収され、戦後は現実を見ない観念的な中国観が広まったために、<中国大陸には蝿一匹いない><毛沢東の革命は見事に成功した><中国人民は皆幸福になった>という類の空疎な礼讃が罷り通ったわけです」(注2)。
 
 


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 一九四九年秋に毛沢東の中国共産党が満洲と支那全土で権力を掌握するや、朝日新聞を始め、出版界を含め日本の新聞は一斉に中共礼讃の記事ばかりとなった。小中学校では、日教組の教員は一斉に中共礼讃の授業を行った。

 私事を紹介する。私が小学校四年生(9歳)の1954年、担任の(25歳にもなっていない)若い女教師は、<中共から蝿がいなくなりました>と言った。そこで私は反論したのではなく方法を知りたく、「どうやって蝿を退治したのか。蝿採り紙を、中共全土の空一面に、運動会のとき運動場の上に張り巡らす綱に万国旗を吊るすが、あれと同じように吊るしたのですか」と聞いた。睨み返されただけだった。
 
 


 ソ連や中共の共産体制を礼讃する対日本人洗脳キャンペーンは、新聞だけでなく、当時の、共産党・社会党・日教組などすべての極左革命団体が全力を挙げた。大規模なものだった。長野朗の本が市販禁止になろうとなるまいと全く無関係なのは自明。

 そもそも長野朗の本など、GHQ占領時代、読もうと思えば大学の図書館に行けばふんだんに読めた。東京大学の総合図書館など主要な図書館には、そのまま書架に陳列されていた。そればかりでない。中共礼讃を書きまくっている朝日新聞記者の多くは、戦前それらを読んでいた。戦後も自宅の書庫に蔵書していた。
 
 


 西尾幹二は、ここで二つの真赤な歴史偽造を行っている。第一に、長野朗の本であれ、それ以外の本であれ、GHQは「市販禁止をした」だけで、個人蔵書と図書館の本にはいっさい介入せず放置した。つまり、GHQ占領時代の日本には、焚書など全くなかった。なのに、“虚言癖の狂人”西尾幹二は、「市販禁止=焚書」と言う巨嘘をデッチアゲている。

 第二に、長野朗の著作をかつて読んだことのある新聞記者や学者も、「毛沢東政権ができたから、支那大陸から蝿がいなくなった」と嘘キャンペーンしたのである。ところが、西尾幹二は、「“中共礼讃の学者”吉川幸次郎や宮崎市定や貝塚茂樹は、長野朗の本がGHQの市販禁止で読めなかったから、中共について嘘を書いたのだ」との、馬鹿馬鹿しい大嘘を捏造している。彼ら三人は、仮に読んでいなかったとしても、京都大学の図書館に行けばふんだんに読める環境にあった。

 “大嘘つき”西尾幹二の『GHQ焚書図書開封』の嘘だらけ内容と、中共を礼讃した貝塚茂樹らの大嘘著作物との間に差異はまったくない。
 


 学術論文を一本として書けない、名ばかり大学教授で非学者の西尾幹二は、生涯で系統的に数万冊を読む“名のある本物の学者”の日常が全く想像できない。だから、本物の学者は一般人用の啓蒙書などよほど例外的にか読まない。また、読もうと思った本は、万難を排しても必ず手に入れて読む。市販されていようがいまいが、何の障碍にもならない。貝塚茂樹らは思想は赤いが、西尾幹二と相違して、学者である。西尾幹二には、そもそも貝塚茂樹らを批判する(資格ではなく)能力が不在。 

 一九五〇年頃からの日本では、中共についての正しい情報は、GHQと米国から齎された。GHQと米国との同盟関係がなかったら、日本は、ソ連/中共/北朝鮮三ヶ国からの偽情報操作で、真赤な嘘で固められた「ソ連/中共/北朝鮮」の虚像しか知る事はできなかった。GHQと米国こそ“嘘情報ばかりの暗黒国家”日本を救う唯一の光明で、そのお陰で日本は初めて、世界を客観的に正しく眺めることが可能になった。

 例を挙げよう。GHQが去ってすでに十年以上が経つ一九六〇年代でも、「朝鮮戦争は韓国が北朝鮮に侵攻して始まった」「ソ連の飛行機は一機として墜落したことはない」「ソ連の労働者の生活は薔薇色で、食糧は有り余るほどあって天国のような生活をしている」などは、東大キャンパスですら多数説であった。
 


 話を戻す。西尾の偽情報工作の第三は、嘘ではないが、事実の空白化(不言及)テクニックの駆使。長野朗は、戦後も元気で、執筆能力に衰えを見せなかった。長野朗がもし保守系の執筆者ならば、「<中国大陸には蝿一匹いない><毛沢東の革命は見事に成功した><中国人民は皆幸福になった>は、すべて一八〇度逆の真赤な嘘である」と事実を暴露する本を出版したはずである。だが、長野は、そうはしなった。

 一方、西尾は、「まだ中共などできていない戦前の長野朗の支那本が戦後も市販されていれば、一九四九年十月に誕生した中共の真実が戦後の日本人の間に広まったはず」と、オウム真理教の麻原彰晃も顔負けの、カルト的な狂説を嘯く。西尾は、重度の精神分裂症から時間軸が不在で時計がとまっており、「戦後の1950年代=戦前の1920~30年代」に狂妄している。
 


 しかもGHQは、“農村コミュニズミの革命家”長野朗の戦前の本に対してはその多くを市販禁止にしたが、戦後の出版物には出版拒否権を行使せず、すべての印刷を認めた。GHQの占領下の1949年/1951年、長野朗の著『中国共産党の誤謬』『中共──アジアの怪奇』が出版されている。

 つまり戦後の長野朗は、自らの意思で、学界・出版界を含む日本の赤い新聞・著書が垂れ流す、中共に関する真赤な嘘宣伝を糺そうとはしなかった。農村コミューン主義の長野朗こそ、貝塚茂樹らと同類の“毛沢東崇拝者”の一人だったのではないのか。実際にも、毛沢東を“農本主義の同志”と妄想していたふしがある。

 重度の精神分裂病を病む“虚言癖の狂人”西尾幹二の歴史評論は、何から何まで、すべて嘘だらけ。西尾の歴史偽造癖は彼の小学生レベルの彼の歴史知見の貧困と複合し、西尾「現代史」を、誤謬と嘘と狂気の煙に包まれた有害図書にする。
 










『リットン報告書』を読まずに聯盟脱退に歓喜する“ペテン師評論家”西尾幹二


 西尾幹二の長野朗称讃はまた、無知・無教養な“ペテン師評論家”西尾幹二自身の馬脚を顕わすものとなった。なぜなら、「現代史」ジャンルの一分野である「アジア国際政治学(国際関係論)」として長野朗を取り上げるのなら、『リットン調査団報告書』(1932年9月)の詳読は最小限で絶対不可決なのに、西尾は『リットン調査団報告書』を全く読んだこともないと、結果として白状することになったからだ。西尾幹二の歴史評論が“ズブの素人のペテン評論”にすぎないのは、このように明らか以上。 



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 「第二次世界大戦後、満洲は完全にシナ化してしまっているわけですが、そのことを既に一九三二年の段階で長野朗はいち早く指摘していたわけです」

「長野朗さんのようなすごいシナ通、洞察力の深いこの人が、<満洲は既に支那人のものになってしまった>と言っているのです。これには私も衝撃を受けました」(注2)。
  


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 西尾幹二の「私も衝撃を受けました」には、心底こちらの方が衝撃を受けた。なぜなら、満洲が満洲人でなく支那人すなわち移住漢人に占領された事など、当時の日本でも世界でも常識だった。日露戦争が終わった一九〇五年以降の、満洲における民族ごとの人口数は、日本政府が正確に調査し世界に発表していた。つまり、長野朗は、日本政府が調査した、ごくありふれた数字を使っているだけである。

 しかも、満洲における民族ごとの人口の時系列センサスを全面に出して、間接的に日本の満洲事変を擁護したのが、国際連盟から派遣された“親日の英国貴族”リットン卿の調査団だった。現代史家は、どんな劣悪の学者でも、『リットン調査団報告書』(1932年)ぐらいは読んでいる。
 


 だから専門家であれば、長野朗の雑誌論文「満蒙今後の新政権」(1932年1月に発売された雑誌『満洲事変の経過』所載)の当該箇所を仮に読んだら、「何だ、リットン卿と同じ資料を使っている」で終わり。学者・専門家が、これを評価する事は万が一にもありえない。況や西尾のように感興など湧くこともない。“日本一の歴史音痴”西尾幹二が76歳まで読んだこともない『リットン調査団報告書』は、こう書いている。 



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 「満洲の全人口は三千万人。うち二千八百万人は支那人と支那人に同化した満洲人。朝鮮人は八十万人。ロシア人が北満洲のハルピンを中心に十五万人。日本人は主に遼東半島に居住し全体で二十三万人。その他の外国人が四十万人弱」

「上記の二千八百万人は、その人種、文化、および国民的感情において(満洲化ではなく)支那化し、これら移住支那人のほとんどの出身地である河北省と山東省の支那人とほぼ同じである。しかも、満洲が支那北部と軍事的・政治的な利益を共有する以上、満洲を法律的に分離独立させたところで、将来における支那人の民族統一主義の動きを阻む事はできないだろう」(訳は英語原文より中川、注3)。
 
 


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 長野朗の大衆啓蒙書をもって「偉大な支那研究の学術書」かに騒ぐ西尾幹二とは、どうみても、エセ作曲家の佐村河内守氏や嘘STAP細胞をマジックショー的に捏造した小保方晴子氏らと同類の“ペテン師評論家”。このことは、連盟を脱退した松岡洋右に関する西尾言説で、さらに明らか。

 西尾幹二は、『リットン調査団報告書』を読んだこともない/触ったこともない。だのに、リットン報告書の採択を不服に国際聯盟を脱退した、日英分断の“ロシアの操り人形”になったことも知らず祖国に叛逆した“ゴロツキ外務大臣”松岡洋右を擁護し、「正義の男だ」「日本の国益に合致する正当な外交だ」と息巻き、『GHQ焚書図書開封』第九巻を書いた(注4)。西尾が、読者など騙せばよいと考えていない限り、また人格から良心が破壊されていない限り、このようなデタラメ著作は書けない。
 


 日本の国際聯盟脱退が完全にモスクワ(主としてNKGB)の対日操作の結果だった事は、100%の確度で歴史の真実である。西尾幹二の歴史評論のすべては、ロシアの対日犯罪を隠蔽してあげる犯人隠避の偽装工作といえる。西尾幹二の本性は“ロシアの犬”で“ロシア系無国籍人”。西尾幹二の著作は、これを裏づける証拠的調書である。  












米国に対日戦争をさせるべく日本を狂導する“ヒトラー型戦争狂”西尾幹二


 西尾幹二は、『GHQ焚書図書開封』第七巻の第三章~第六章で、清朝が滅んでからの支那の三十年史を概観する長野朗の『支那三十年史』(1942年2月刊)を長々と引用している。

 西尾のこの引用目的は、長野朗の主張とは全く無関係な、自分の狂った「<反米>正義論」「<日独伊三国同盟>正義論」「<対英米戦争>正義論」に、長野朗の作品を大歪曲・大改竄して牽強付会的な悪用をするためである。他人の作品をここまで大歪曲・大改竄する事ができるのは、西尾幹二の人格に、良心が真暗闇の空洞となって不在だからである。西尾幹二の異常人格は、狂犬が憑依しているのか。この長い引用の後、西尾は引用内容とは全く無関係で全く異次元の、次のコメントを唐突に嘯く。



•a「英米人は<反共>よりも<反日>を必要と考えて、支那人たちの<反帝国主義>という矛先をうまく立ち廻って日本側に向けたとあります」

•b「ここでも、第二次世界大戦における謎──英米のソ連抱き込み、日本の孤立、独伊への接近という流れ──、日本がなぜ日独伊三国同盟に走り、英米を敵に回さざるを得なかったという背景が浮かび上がってくるように思います」

•c「英米が支那大陸を廻ってソ連に近づく、英米金融資本がコミンテルンと結託し日本に攻撃を仕掛けてきたことが第二次世界大戦の主たる原因であった…ことがわかります」(注5)。




 “嘘創作と妄想のチェーン”がここまで酷い狂人など、滅多に見られるものではない。西尾幹二とは、医学部の精神科でまさに“最高の生きた臨床標本”になれる精神異常者。ニーチェもフーコーも死んでいる。東大医学部ほか主要な大学の精神科教授に、西尾幹二を研究対象にするのを是非とも推薦する。

 長野朗は、こう書いているだけである。支那の「排日」運動が、次第にソ連の工作下で、レーニンの世界共産革命戦略に従った「反・帝国主義」運動になった。「反・帝国主義=反・資本主義国」の共産主義ドグマに従うなら、英米日の三ヶ国が平等に標的になってよいはずなのに、支那の「反・帝國主義」運動の標的は、またしても日本だけの様相を示した、と。

 要するに長野朗は、淡々と当時の情況を彼なりに客観的に描写しているだけで、「英米人は<反共>よりも<反日>を必要と考え」たなど、一言もいっていない。そのような考えもない。aのゴチック部分は、西尾幹二の大改竄部分である。


 bとcの西尾幹二のコメントも、西尾幹二のまったくの嘘創作で、長野朗の著作とは無関係。長野朗をどう読んでも、このようなコメントができる僅かな話も出てこない。長野朗は、英米が支那人の反帝国主義運動から外された理由に、ここでは「支那人の(欧米系)外人崇拝と日本(人)軽視」からだろうしか挙げていない。

 唐突な西尾のコメントbとcは、「日本が英米と戦争する正義の根拠を、オレ様はついに発見したぞ」の歓喜の叫び声と言える。それは、西尾幹二が対英米戦争をしたくてしたくてたまらない対英米戦争狂であることを示す何ものでもない。西尾は、英米との太平洋戦争には日本側に大義が無いと認識しており、故に、対英米戦争をする大義探しが、実は西尾が歴史音痴を恥じることもなく歴史評論を続けている理由である。


 要は、上記引用のabcは、長野朗『支那三十年史』の紹介と言う形で、自分の“狂妄な大東亜戦争正当論”をデッチアゲたもの。が、このabcは、偶然にも西尾幹二が“ロシア系無国籍人”である証拠の一つになっている。

 まず、英米は、自国に侵攻してくるヒトラーのドイツと近衛/東條の日本を敗北させねばならず、止むを得ずして、第二次世界大戦に参戦した。ヒトラーのポーランド侵略開始は1939年9月1日。このドイツの東への軍事行動は、西に反転して英仏に向かうのは必定だから、英仏が対独戦争を決意するのは主権国家として当然の合理的決断である。米国もそうで、日本が先に1941年12月8日パールハーバーを奇襲で襲って宣戦布告してきたからやむを得ず応戦したのである。


 第二次世界大戦は、このように独日の攻撃で始まった。こんなこと歴史年表を見れば明らかだし、世界の常識以前。だが、精神異常者・西尾幹二にかかれば、c「英米が…日本に攻撃を仕掛けてきたことが第二次世界大戦の主たる原因」と、絶句するほかない、逆さ改竄が平然となされる。

 しかも、c「英米の金融資本がコミンテルンと結託」など意味不明で、何のことか、正常な人間にはさっぱりわからない。「コミンテルン」とは空体語で、その実体は「ソ連共産党国際部」のことだが、英米のどの銀行、どの大資本家が、ソ連共産党国際部とどう結託したと言うのだろうか。こんな荒唐無稽な創作は、唖然とするほかない。

 西尾幹二よ、創作ではなく歴史事実だと主張したいなら、その事例を具体的に提示されたい。浅原彰晃と変わらぬ狂気が綴る西尾幹二の異常歴史は、かくも架空の妄想のチェーンのみ。


 さらにソ連と結託したのは、ドイツと日本である。1939年8月の独ソ不可侵条約と、1941年4月の日ソ中立条約とが、それである。だが、西尾幹二の頭では、c「英米が・・・ソ連に近づく」となる。西尾の頭では、「独日」と「英米」とを入れ替っている。精神分裂症患者に特有な、“思考対象の移動・交替”が発症している。西尾幹二の頭では、「独日」と「英米」は同じ。西尾に、この区別を期待するのは無理。

 なお、1941年6月にドイツに侵攻されたソ連は、慌てて英国側につく。が、それは、対独防衛戦で勝利するだけが目的ではない。戦争の趨勢が見えるずば抜けてズル賢いスターリンは、米国はいずれ英国救援のため参戦すること、ならば必ず勝利する。


 米国側につく方がいずれ訪れる“世界大戦の戦後”で戦勝国の地位をおこぼれ的に獲得できると判断したからである。西尾の「英米がソ連を抱き込んだ」は、歴史ではない。正しい歴史は、「ソ連は独自の判断で、英米側についた」。それだけである。

 bは、正常な読者ならさっぱりわからない。日本は、二・二六事件が発生した一九三六年時点、すでに“スターリンが操る準・共産国もしくは完全な共産国”となっていた。つまり、市場経済の自由主義である英米は、日本にとってイデオロギー上の打倒すべき敵国となっていた。だから、スターリンの命令に従って、日本は英米に戦争をしかけたのである。
 


 日本が英米を敵国としソ連を準・同盟国と扱う(1940年9月の)日独伊三国同盟を締結したのも、市場経済の英米は敵国でそれとの大戦争こそ正義だと考えたからで、対英米戦争の理由など明快に明らかではないか。そんな自明な歴史が、なぜ「謎」か。

 そもそも長野朗は、第二次世界大戦など論じてはいない。支那国の三十年史を、かなり薄っぺらいが、一般大衆向けに概説しただけ。当然、『支那三十年史』には、第二次世界大戦の全貌を知る、その分析や情報など全く書いていない。『支那三十年史』から、第二次世界大戦が「わかるはずもない」。が、西尾幹二だけには「わかる」。どうしてだろう。

 『支那三十年』に書いていない事柄が、西尾の妄念において、西尾の願望のままに“妄想のチェーン”で蜃気楼と現れるからである。狂人の言説は、どこまでが現実で、どこからが妄想上の蜃気楼か、区別も境界も存在しない。
 












西尾幹二の歴史偽造は、驚天動地の天文学的レベル 


 閑話休題。上記引用文と同じ頁に、驚天動地の捏造歴史を西尾幹二が書いているので、少し道草になるが触れておこう。 



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 「世界史的流れというものは、日本の国内政治だけを観ていてはわかりません。ヨロッパの歴史がどのように展開しアジア情勢とどう関係したかを捉える必要があります。スペイン内戦(1936~9年)…で独ソは完全に敵対関係になりました。それを契機にして、イギリスがソ連に接近をするということが起こりました」(注5)。 

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 歴史はこの逆。「スペイン内戦」終結の数ヵ月後、1939年8月23日、独ソは接近し攻守同盟的な独ソ不可侵条約を締結した。スターリンのテロ集団が立て籠もるゲルニカをヒトラーの爆撃機部隊に猛爆されたが(1937年4月26日、共産党員ピカソは悔しさの余り世界的な絵「ゲルニカ」を画いた)、大局的に世界制覇を志向するスターリンは、些細な事件としてこれを意に介することはなかった。

 なお、「スペイン内戦」終結は1939年4月1日。その五ヶ月後の9月1日に始まる第二次世界大戦では、フランコのスペインは恩義のある独伊に加担せず「中立」を宣言。なお、第二次世界大戦中のスペインの国際関係は(軽蔑ではなく、感心する見事な)風見鶏。永世中立国のスイスもこれに酷似する。
 


 上記ゴチック部分の西尾幹二の狂説は、敢えて書くのであれば、「スペイン内戦で、独ソは同盟関係といえる緊密な関係になり、一緒にポーランドに侵攻しました」となる。西尾幹二の精神分裂病は重く、歴史事実を分裂的に百八十度逆に転倒する。

 なお、フランコ将軍とは、“反共反ソだが、同時に反ナチ・反ファッシズム”の、真正な自由主義を信奉する、チャーチルやサッチャーと同じ英国系の保守主義者だった。だから、フランコは自らの悲願である、1931年4月に共産勢力(主力はスターリン系の「人民戦線」派)の政権樹立で廃止されたブルボン王家の王制の復活と英国型政治制度への回帰を慎重に慎重に進めた。このため、スペイン国内に生き残って盤踞し続ける、かつての人民戦線派(=「共和国派」は共産主義者を隠蔽する嘘ラベル)の共産主義スペイン人たちが老いて死ぬのを待つ、徳川家康的な気の長い作戦を立て、そう実践した。
 


 悲願のスペイン王制の復活と英国型政治制度への回帰が、権力掌握した1939年から三十六年後、自分の死没(1973年)から二年後、の1975年となったのは、フランコ将軍のこの過剰なほどの深謀遠慮がなせる結果であった。「ファッシスト」「専制主義者」と悪名を後世に残す自己犠牲を莞爾して、“自由スペイン”の復活という大偉業を成し遂げたフランコこそは、世界史の残る偉大な“自由の騎士”の一人である。

 なお、スペインで権力を握ったスターリン直属の“悪魔の共産テロ集団”を掃討するに、フランコは、スペインが撲滅すべきもう一つの“敵”ヒトラーとムッソリーニを騙して活用した。「敵の敵は味方」ではなく、「敵と敵を戦わせて、漁夫の利を獲る」兵法である。フランコの高度な政治闘争・内戦の技は、後世のわれわれが学ぶに値する。これこそ『孫子』の実践と言わずして何と言おう。
 


 なお、上記の引用文中の「スペイン内戦で…英国がソ連に接近」は、全くの意味不明。西尾の書く歴史は、必ず、嘘か意味不明。例外が無い。

 なお、英国のチャーチルは、フランコと同じ“反ソ・反ナチ”の闘士。チャーチルの「反ソ」は、レーニンの革命後、ロシア白軍を支援し英国陸軍をロシア領内に投入したことでも、第二次世界大戦終結直後の「フルトン演説」(「鉄のカーテン」演説)でも遺憾なく発揮されていよう。第二次世界大戦期のチャーチルやフランコやマンネルへイム元帥に学べば、「反共イデオロギーなくして、自由の擁護はできない」は、永遠の格言である。
 














西尾の共産主義シンパ性が創った逆さ歴史「英米は、<反共>より<反日>」


 話を戻そう。上記引用aの西尾の言説「英米人は反共よりも反日を必要と考えた」もまた、歴史を百八十度逆に改竄している。日中戦争における英米は「反共」にこだわり、よって「反共」蒋介石とその国民政府を支援した。

 一方、日本はスターリンの操作の通り、過激な共産主義者でソ連工作員の近衛文麿を首相にして「共産国」として毛沢東の紅軍を支援すべく、「反共」の蒋介石を叩き潰すべく、昭和天皇と大多数の国民の大反対を押し切って日中戦争を遂行した。これが、唯一の真実の歴史である。
 


 とすれが、上記引用のaは、正しく書き直せば、「日本人は、<反共>勢力を絶滅させることが、東アジアの理想郷<大東亜共栄圏>づくりに絶対に必要だと考え、<反・蒋介石/親・毛沢東>の戦争を断行した」となろう。一方の英国は、日本とは逆に、「反共/反ナチ」チャーチルが第二次世界大戦で英国防衛に獅子吼した。米国は、ソ連工作員エリノアを妻とする社会主義者ルーズベルトが大統領ではあったが、建国以来一貫して伝統的に反・全体主義を国是とする国家であり、「反共」の蒋介石支援の方が「正義」だと正しく考えることができた。

 「反共」のスタンスに立てば、1937年7月に共産国となった“スターリンの属国”日本を断罪するのは当然。つまり、英米の「反日」こそ、その「反共」の証左であろう。英米の「反共=反日」が、アジア共産化革命であった大東亜戦争を遂行する“祖国に叛逆する狂った日本”を、その狂信状態から覚醒させ救ったのである。
 


 だが、西尾幹二の上記のabcは、この歴史の真実を破壊せんとする犯意に満ちている。上記の狂説aに西尾幹二がこだわりたいのなら、まず自ら「西尾幹二とは、<反共>を憎悪する<共産主義シンパ>で、低劣な大衆煽動のペテン評論家」だと、自省の訂正をした後にしたらどうか。 

 西尾幹二のイデオロギー上の立ち位置を不可解なものにしたのは、西尾の持病である精神分裂症が、西尾の言説を放物線的にあらぬ方向にdivertさせるので、さも共産党系とは相違するかに見える効果による。西尾幹二が強度な共産主義シンパで「反日」の煽動家である事実と真実は、現在かれを囲む“熱烈な北朝鮮人ファンたち”の存在によっても十分に裏づけられている。 






1、馬場義續(検事)『わが国における最近の国家主義ないし国家社会主義運動について』、三六三頁、一九三四年。非売品?

2、西尾幹二『GHQ焚書図書開封』第五巻、二八六頁、三五二頁。

3、外務省編『日支紛争に関する国際聯盟調査委員会の報告』、英語原文三五頁、二八二頁、一九三二年十月刊。

序に一言。『リットン調査団報告書』は、四年前の1928年6月の張作霖爆殺事件の犯人を河本大作・大佐とはせず、「未だ確定していない。ミステリーのままである」としている(英語原文43頁)。イギリスでは、在京の英国大使館(イギリスの外務省)は河本大作としたが、英国の対外諜報機関はこれを排斥して、「爆殺犯人はソ連」だとの諜報分析を堅持し続けた。リットン卿は、対外諜報機関のインテリジェンスの方を正しいと考えたようだ。

4、この問題は、拙稿「西尾幹二の妄言狂史」第十章を参照のこと。

5、西尾幹二『GHQ焚書図書開封』第七巻、一八五頁。


中川八洋









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