無責任は日本の伝統!只今の日ノ本の齢、幾つ也や? | 儂は悪くないぞ!松平が!松平の奴が悪いンだ!

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 世間を騒がした新国立競技場問題は建設計画の白紙化という陳腐な提案で、仕切りなおしとなった。果たしてオリンピックに間に合うのであろうか?

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150728-OYT1T50067.html

 その新国立競技場問題の責任をとらせる形で、文部科学省で新国立競技場建設計画を担当していた久保公人スポーツ・青少年局長(58)が、下村文部科学相により、8月4日付で定年退職まで、あと一年ちょっとを残しながら、辞職させられることになった。この更迭人事の記事を見て、以前みた舛添東京都知事のTwitterでの発言を思い出した。

http://togetter.com/li/848780

「舛添要一 @MasuzoeYoichi

新国立競技場、政府は抜本的見直しをするという。6月29日に下村大臣が政府最終決定を発表してから3週間も経っていない。このような事態に至ったのは誰の責任か?ミスを重ねた文科省の役人一人の首もとれないのか?A、I氏など、皆、自分は悪くないと自己弁護。大日本帝国陸軍と同じ無責任体制。」
以上、引用終わり

 何故、これを思い出したかって?部下に責任を全て押し付け、擦り付け、自分は知らん振りというのは、日本軍のお家芸であったからだ。いや、日本軍だけではない。無責任は戦前、大日本帝国の国民的特徴であり文化であった。

 大体、この更迭人事は、舛添東京都知事の発言を受けての人事かもしれないが、くぼきみと、のイニシャルにAやIは含まれてないようだが・・・

 新国立競技場問題の顛末は、今、世間を賑わしている安保、戦争法案の話題を一歩先行く形の始末のつけ方かもしれない。


 敗戦直後に行われた裁判の多くは、こういった無責任な司令官や参謀の下で、多くの将兵が罪を被せられ、BC級戦犯として処刑されていった。

 戦中でも都合が悪いこと(機密書類を敵に奪われた、敵勢力(連合国に属さないゲリラ含む)に捕まって捕虜になった)があれば、何時でも上の命令で死なされた。

 差し詰め、今回の当事者を使うのであれば、森喜朗司令長官の下にいる下田参謀に命じられて下士官の久保公人は単機爆撃を命じられた(事実上の自害)といった形であろうか?

 因みに単機爆撃を成功しても許されない。基地内で隔離され(まるでリストラ前の社員のようだ)他の飛行隊員から白眼視され、通路で会おうものなら罵詈雑言浴びせられ、暴力を振るわれたりする。これらは、再び単機爆撃や、単機特攻を命じられて無事に戦死する日まで続く。

 なんか戦争絡みが続くが、先に述べたとおり、無責任は戦前日本の国民的特徴であり文化であった。それを助長させ、国家へ蔓延らせたのが、現人神とされた天皇という機関であり依代だった。


 なぜ、天皇が無責任を顕すのか?先にいっておくが、昭和天皇は戦争の責任を取らなかった。だから、無責任だという話ではない。まず、わかりやすい例として大逆事件まで遡る。

 大逆事件は1910年(明治43年)5月26日長野県で社会主義者4名が明治天皇を暗殺するために爆弾を製造したとして捕まった。ここから同年6月にわたり、逮捕者が増え、東京地方裁判所検事正は

「まことに恐るべき陰謀だが、犯人はこの七名で他に連累者はいないと確信する」と談話を発表したが、舌の根が乾かぬ内に逮捕者は増え、結局、六月末には全国で26名が逮捕され全員起訴された。この報道管制がしかれ詳細が不明なまま大量の逮捕者を出した事件は、欧米諸国で大問題になり、各国日本大使館に対して抗議活動が行なわれたが、国内は、まだ静かだった。

 1911年(明治44年)1月18日には大審院(最高裁です)から早くも判決が出た。結果は被告24名に大逆罪による死刑を申し渡した。(残り2名は有期刑)

 この異例のスピード裁判+大量の死刑判決に世が騒がないはずはない。もちろん、衆議院でも問題となって困った当時の内閣、桂太郎はどうしたか?自分の一存では決められないと明治天皇に裁可を仰ぐこととなった。

 明治天皇が「半数ぐらいに止められないか」といったので、桂内閣の面々は、もう一度、裁判をやり直すよう命じたとか、量刑を適切なものにする為に議論をおこなうこともなかった。ただ、額面どおり、死刑囚の半数を「陛下の御仁慈により」無期懲役に減刑した。

 もし、ここで桂達衆議院議員や、裁判官達が議論をし、何かを行い、それによって(放免した囚人が事件を起したなど)何か不適切な問題を起こせば、彼らの責任問題となることは必定だろう。

 しかし、天皇が言った通りに事が運べば、何が起ころうとも誰も文句は言えなかった。天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス存在(あらゆる法律の上にあり、責任を問われることはないという意味)であったからだ。天皇の名の下に行えば、責任問題が発生する事はない。まさに究極の自己保身装置であった。

 維新の志士とやらでも、この顛末であった。この時、明治天皇は自分の立場が文明国の元首ではなく、未開の土人集落の酋長だと気がつかされたことだろう。愛想を着かした睦仁は、自由の身となった死後、穢戸なんぞに鎮座するのは、真っ平ごめんと遺言で京へ帰って行った。

 だが睦仁が亡くなったところで、この悪疾は治まることはなく、寧ろ、時が経ち、明治政府の支配体制が安定すると共に、あらゆる階層へ広まり、この天皇という依代に罪を肩代わりさせる精神的疾病は国中へ蔓延していった。


 戦前の意識を引きずるがごとく、先の大戦は「全てにておいて昭和天皇、裕仁が悪い。自分達は騙されただけだ!」と主張する者達が、始末の悪いことに右翼にも左翼にもいる。

 それは嘘だ。講和が遅きに失したのは、平沼麒一郎らの責任も大いにあろうが、裕仁の罪も少しは問われよう。だが、開戦についてはどうであろうか?裕仁に統帥権はあったのであろうか?


 まず、満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)がある。この事件は河本大作(当時、大佐)によって奉天軍閥の張作霖大元帥が列車ごと爆殺された事件だ。

 当時の田中義一首相は、天皇裕仁に対して、責任者を軍法会議にかけ処罰する旨を奏上した。

 が、田中は陸軍から脅迫などの圧力を受けた。ついでに河本大作は軍法会議にかけるのであれば、日本の謀略を全て暴露してやると、今でいう逆ギレを起こした。天皇の統帥権など存在しなかった。

 田中は河本を処罰できず内閣総辞職し、その三ヵ月後位に、あれらの一件が、よほどストレスをかけたのか?心臓の病で急死してしまった。

 河本は罪を問われず予備役に編入された後、南満州鉄道理事、満州炭鉱理事を経て、軍部の支那における国策会社、山西産業株式会社、社長に就任、戦後もソビエトや国民党と取引し、同社の経営者として君臨しつづけた。

 あの悪名高き日本国民を兵士として国民党に売りつけた山西省日本人残留事件(彼らは軍命で残ったのではないので日本軍ではない。故に、未だ恩給も貰えない)にも関わっていたが、日本人を売り渡して、国民党と一緒に台湾に渡り帰国した澄田𧶛­四郎中将と違い、無事、共産党に捕らわれ戦犯として収監され、支那でつつがなく72歳で人生を終えたのであった。

 これが天皇に逆らった男の人生である。支那に捕まるまでの悠々自適の生活は、なんということであろうか?これでも天皇に統帥権はあるのだろうか?


 一度、前例ができると駄目で、満洲某重大事件から三年後、日本側の爆破から始まった柳条湖事件では、板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が中心となった。(彼らは、後に近衛内閣陸軍大臣と、関東軍参謀副長となる)左官クラスが天皇より上の権限を振るう時代にまでなった。こんな時代なので、林銑十郎が天皇大権を干犯し軍隊を自由に動かしても、もう誰も罰することはできなかった。


 何故これだけのことを軍部が行えるかというとドイツを参考にして作られた陸軍参謀本部があったからだ。陸軍参謀本部は日本政府や、議会から完全独立しており、平時でも絶えず戦争計画を立て、そのための情報収集をしている組織であった。

 ロンドン海軍軍縮条約締結時のこと、軍の要求を満たさなかったとして、軍部は犬養毅と鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父でルーピーが左のトンデモなら祖父は右のトンデモなわけだ)ら、野党の政友会連中に攻撃させた。

 当時の総理、浜口雄幸は条約の批准権を持つ、昭和天皇に裁可を得る前に、議会で可決し、後に上奏し裁可を得ることで無事、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。(軍縮は裕仁の意向にそったものであった)

 が、それから一ヵ月後、1930年(昭和5年)11月14日、浜口雄幸は軍部の意向を受けた右翼青年、佐郷屋留雄に東京駅で射殺された。この事件後、軍部は自分達に命令できるのは天皇だけとばかりに戦争へ突き進むが、果たして天皇裕仁は彼らを留めることができたであろうか?いや、軍部は天皇に対し、誠に忠誠心というものもっていたのであろうか?


 1941年(昭和16年)11月30日、裕仁は高松宮宣仁と開戦について相談していた。宣仁は「今この機会を失すると、戦争は到底抑へ切れぬ、12月1日から海軍は戦闘展開をするが、巳にさうなつたら抑へる事は出来ない」と告げた。海軍は内閣、天皇にも秘密で既に作戦を開始していた。

 折りしも12月1日の御前会議に先立つ、11月26日早朝、ハワイ作戦機動部隊はヒトカップ湾出港し、真珠湾攻撃へ向っていった。同日17時ごろに野村吉三郎大使と来栖三郎大使がアメリカからハル・ノートを受領した。

 海軍にとって陸軍に対ソ戦争(勿論、ソ連を相手にするには陸のみとなる)を行なわれれば、既に対支那戦も開戦済みの為、戦費の関係上、これ以上、戦争はできなくなる=海軍の出番がある対米戦が行なえない=予算を大幅に減らされることは必定であった。

 海軍としては如何にしても日本を対米開戦に導かなければならなかった。巳に海軍には天皇など眼中になく、忠誠の二文字は保身の二文字に取って代わられていた。

 二人は開戦を避けることで意見を同じにしたが、裕仁は立憲国の君主として、政府と統帥部の一致した意見は認めなければならないと考えていた。

 また、若し認めなければ東條は辞職し(御前会議は憲法上の機関ではない為、内閣が倒れれば、軍部に不利な、どんな詔勅でも無効となる)、クーデターが起こるのではと危惧していた。宣仁が帰った後、永野総長と嶋田海相を呼び、開戦を憂慮していることを下問したが二人は、一度命令あらば何時でも戦争できると、ドイツは頼りにしていない。例えドイツが負けても関係ないと血気盛んに答えた。

 結果、同年12月1日、裕仁が一言も発せぬまま御前会議は終わり、対米開戦は決定された。

 だが、まだ希望が残っていた。同年12月7日、日本時間9時40分頃、アメリカのハル国務長官はマスコミ相手に天皇への親電をグルー駐日大使へ打電することを表明。木戸日記には、これを受けた裕仁が「深夜であろうともかまわぬから ただちにもってくるように」指示を出した。

 同日11時頃に打電され、日本の電信局は同日正午に無事、受電した。が、グルー駐日大使が親電を受け取ったのが同日22時半頃であった。陸軍参謀本部通信課、戸村盛雄の独断により、中央電信局が遅らせたのだ。

 結果、裕仁が親電を手にしたのは真珠湾攻撃三十分前の12月8日3時であった。後に発行された寺崎日記に付属する昭和天皇独白録では、親電の内容は事務的なもので大勢に影響なしとしているが、実際はどうであろうか?昭和天皇独白録は近衛、平沼、松岡など死者や一部嫌悪忌避された人物を除いて、戦争に荷担する行為は、なるべく裕仁や東條へ責任が及ぶようにしてある節がある。

 もし、この親電で開戦が避けられたと仮定されれば、戸村盛雄は、どんな戦後を送ることになったであろうか?木戸日記との親電にたいする態度の落差に、私は何かあると思うと同時に個人的に真実を知りたいと思う。

 唯一つわかることは、嘗ては存在したかもしれないが、昭和には天皇の大権など存在しなかった。ただ、天皇という機関、装置を通して事を運べば、例え戦争に負けるような酷い命令であっても滞りなく遂行された。

 

 陛下の御命令の一言で死地へ出撃させられた例として、一つ挙げるのであれば、世間で人気の島風が出てくる第三次多号輸送作戦だろう。

 7ノットしか出ない商船を含む、低速兵員輸送船団を、早川幹夫少将は護衛司令官として、島風、浜波、初春、竹、駆潜艇第30号、46号で護衛することになった。

 が、早川幹夫はソロモン海戦で鳥海艦長を務めていた時に、鳥海が被弾、損傷しているのを、ものとせず「長官!反転してもういちど攻撃に行きましょう」と、敵輸送船団追撃を具申する強気の男だった。

 それ故、この編成では、みすみす部下と艦が敵にやられるだけだ。承知できないと作戦に強く反対したが、南西方面艦隊司令長官、大川内傳七中将に「これは陛下の御命令である」と、一蹴され死地へ赴くことになった。

 結果、米軍に襲撃され、1944年11月11日12時、早川幹夫は島風の艦橋で名誉の戦死を遂げた。彼が死んだ約5時間後、島風も多くの負傷者と一緒に海の藻屑となった。


 だが、幾ら天皇の名で命令されたといっても、現場責任者の目前に、命令にそぐわない現実が差し迫れば、さすがに考えを改めるだろうと思う人がいるかもしれないが、日本の負けが確定している大戦末期でも、そんな考えの人間は中々でてこなかった。そのような現実的思考に目覚めて行動を起こしても、階級が低ければ以下のような目に会うのが落ちだった。

 昭和二十年二月ビルマ、メイクテーラへ英軍戦車四輌、自動貨車二十、人員三百が向ってくることを察知した日本軍は、天瀬中尉率いる急ごしらへの混合討伐中隊を英軍迎撃に向わせた。

 しかし、天瀬中尉を待ち受けていたのは英第四軍団機械化兵団であった。(防衛庁戦史室『イワラジ会戦』より)百倍以上の戦力差に混合討伐中隊は戦わずして瓦解し、天瀬中尉は実際の敵戦力を伝えるべくメイクテーラへ戻ったが、彼を待ち受けていたのは「何故、生きて逃げ帰ってきた」「敵が大勢だからどうした戦車に飛び込んで死ね」「さっさと、ここで腹を切って死ね」などの罵倒の言葉だけであった。いかなる状況であれ、一度出た命令は絶対であった。

 天瀬中尉は情報を伝えると、単身、前線に戻り死んだ。天瀬中尉を罵倒した粕谷留吉少将率いるメイクテーラ防衛部隊は、無謀にも抵抗を試み、色々と無茶な作戦をとった。

 特に酷いのは、重病患者二百名のみ後方へ移送し、残り五百名の患者で患者集成大隊を編成したことだ。この戦いで日本軍はメイクテーラを失い千数百名が犠牲となった。英国は半ダース(6輌)の戦車と約二百名の死傷者を出したに過ぎない。何より、粕谷少将は、おめおめと生き残りタジに逃れ生き恥を晒した。終戦以降も生き残り、腹を切ることはなかった。


 天瀬中尉は投降して捕虜にでもなれば良かったかもしれないが、そういう思考に至るには難しいだろう。そうならないよう訓練教育されたからだ。何時から、そのような教育するようになったのかといえば、具体的にはノモンハン事件以降であろう。

 それ以前の日本は、日清戦争時、戦時国際法を遵守し、東亜の先進国たらんと、この文明戦争へ勇躍したが、勇み足が過ぎて、旅順虐殺事件を起こしてしまった。

 因みに旅順虐殺事件の時も日本側は、清兵が軍服を脱いで逃げたので、市民と見分けがつかなくて殺したと、世界に向って3歳児並の言い訳をしていた。

 それから約43年経て、南京で虐殺を行った。南京事件当時は秘密裏に行なわれたのと、三歳児並の言い訳が通用しないことを理解してたから言わなかった。

 が、終戦後、馬鹿な連中が国民党兵士が軍服を脱いだ、全員、便衣兵だったと言い出したのには、なんということか?南京事件当時の報道で、日本の勝利を祝い、捕虜となった制服を着た国民党軍士官の写真を新聞に載せている。便衣兵以外の捕虜もいたわけである。彼ら捕虜の大半も殺された。

 また略奪を行い、抗議され、音楽学校にピアノなど最低限必要なものを返還した記録が日本、交渉にあたったドイツともにある。偕行社が残した資料には抵抗分子として一般市民を連行し殺害を目撃した兵士の日記が収録されている。日本国民の年齢が終戦直後より若返ったのか?これには裕仁とマッカーサーも驚いたことだろう。


 この旅順虐殺事件は世に知られることとなり、事件現場には『牛肉と馬鈴薯』(青空文庫で無料で読める。良い時代になったものだ)で有名な国木田独歩も訪れている。

 世界に非文明国として認識され、恥を掻いた日本は、日露戦争時は戦時国際法を違反することなく、無事、汚名を雪いだが、前線で文明化された日本兵が、投降や敵前逃亡することが日本軍部内で大きな問題となった。

 第二次世界大戦末期、西部軍によりB29搭乗員を処刑する事件が後を絶たなかったが、B29搭乗員は捕虜になる前に市民に殺されることも多かった。それら私刑行為に及ぼうとする民衆から、戦争後に戦犯として裁かれるぞ!と怒る群衆を諭し、米兵を守った日露戦争経験者も多かった。

(東野利夫著、『汚名「九大生体解剖事件」の真相』にも同様の場面が出てくる)

 その敵前逃亡問題もノモンハン事件で解決した。ノモンハン事件は辻政信(辻政信はシンガポールで華僑を虐殺したアノ辻である)が戦功欲しさに、参謀本部すら無視して、国家の方針とは反対の考えの『満ソ国境紛争処理要綱』なるものを司令官に提示し引き起こされた、個人の欲望に基づく馬鹿な戦争であった。

 『満ソ国境紛争処理要綱』には「満ソ国境ににおけるソ連軍、蒙古軍の国境侵犯に対しては徹底的にこれを膺懲する」と書かれており、ソビエトなどから戦いを避ける政府方針とは反対の、膺懲、すなわち徹底的に戦って相手を懲らしめる(戦力差を分析すれば、このような上から目線にはなるまい)という戦線拡大方針が掲げられていた。

 このノモンハン事件の後、当時、法的には根拠がないのにもかかわらず、捕虜となった者は、兵士、下士官であれば、その正当性を調査され、敵前逃亡罪と判断されれば起訴投獄、無罪や起訴に至らない者でも、上が必要と判断した者は厳重な懲罰処分をしろと通達された。

 また、将校であれば自殺を(通達に兵士と別の措置にしろとはあったが、自殺させろと明記されてないので命令ではなく)強要され、死して後は名誉の戦死を遂げたとされた。その後、戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」と記載されるようになるという道筋がある。


 ノモンハン事件で個人的に憶えているのが、NHKを見ていた時に裕仁さんの語った話で、ノモンハン事件で東久邇稔彦の長男、盛厚中尉が戦闘に敗れ、苦力に化けて逃げたことについて沢田茂へ下問した時のこと、沢田は日を置いて勇敢に戦い、命令で撤退したと答えた。

 沢田が返答するまでの数日間、実は裕仁さんは人伝いに本人へ確認を取っていた。日本人が中国人苦力に化けても、直ぐばれて、日本人の乞食か食い詰め者としてみられ、食事などを恵んでもらい手厚くしてもらったこと。無事、ハイラルに逃げれたが、食事が口にあわず体調を崩していて病院に入院することになったという真相を聞いていた。

 後に将校への自決を強要した事を知ったが、もし、沢田が真実を喋れば(即座に撤退した皇族を殺すわけにもいくまいから、捕虜や敵前逃亡をした)将校達への自殺の強要もなかったのではないか?と話していたこと。

 ふとした呟きだったので、皆、反応に困り、誰も返事をしないので、私に対して、天皇も大変だね。周りに嘘をつくやつが多くて困ってるんだよ。どうしたらいいかな?と沈黙も嘘とばかりに(今、思えば)皮肉一杯で聞いてきた。勿論、子供の私には皮肉は理解できなかったので、質問に素直に答えた。「見せしめに殺せばいいよ。特に偉い人が相手なら殺す数も少なくてすむよ」と答えたら、一瞬、驚いたような顔をして、時折、おまえは子供の癖に恐ろしいことをいうねぇといわれ、後で色々と質問され、日本に皇帝や帝王はいらないといわれるのだが。当時、相手が、その天皇だということを知らなかったので、余り興味がなかったが、ただ一点、この変装して敵に化けたというエピソードが記憶に残り、辻はノモンハンでも変装して逃げてたと間違えて憶えていた。

 辻は第二次世界大戦後、戦犯処理から敵前逃亡をした。1944年(昭和19年)8月に小磯国昭内閣から「大東亜戦争に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件達」がでて、少し規則は緩くなったとはいえ、戦中、敵前逃亡者を厳しく処断、処分することを高言してきた男が取れる行動であろうか?

 辻は著書に「逃避潜行した卑怯者として、その罪の万一をも償う道は、世界に魁けて作られた戦争放棄の憲法を守りぬくために・・・余生を捧げる」と書いていたが、当選後は、「憲法を改めて国土の防衛は国民の崇高な義務であることを明らかに」などと言い出し、戦後も変節漢振りを発揮した。

 このような者、または、このような者の血を引く者達を国会議員として当選させてしまう日本人は幾つなのであろう?

 

 最後に俄かに信じがたいが、例え、階級が下の者、または慰安婦であっても彼の名を出せば兵士を従わせることができた。

 朝鮮人慰安婦が無茶な性行為を要求する兵士、下士官に暴力行為を働かされたそうになった時、天皇陛下が赤子を殺せといったか?などと抵抗すると、すぐ大人しくなったという証言が複数ある。これは右翼的な著者ではなく、金一勉という在日朝鮮人作家の著書にもみえるエピソードだ。

 人間、裕仁の人格は世間から抹消され、ただ、天皇という言葉だけが世に満ちていた。

 

 こう書けば、まるで天皇という装置がなければ、日本人というのは、えらく真っ当な存在になるのではと思えてくるかもしれないが、そんなことはない。天皇が使えなければ、屁理屈をこねて、どうにかして責任を逃れようとするのが日本民族だ。


 悪名高き特攻は、何故、志願制かというと、こんな非道な作戦を命ずれば戦争に勝っても負けてもどうなるか?それは考えだした者が一番理解しているのである。

 昭和19年10月25日午前、大西瀧治郎中将は、こう宣言した。

「今後も特攻は続ける。このことに批判は許さない。反対するものはたたき斬る」

 これで命令や、強制はしていないと良く言えたものである。志願制といえども実態はこうであった。要するに大西も責任をとりたくなかったのである。

 大西瀧治郎は無能な働き者の典型例で、あの悪名高き重慶爆撃に関わっており、「日本は戦争をしている。イギリスは負けている。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構」と高言した。こうなれば東京大空襲や、二度の原爆投下は、全て彼の失策・失言による責任である。

 大体、特攻自体効果はなかった。考えてもらいたい、自軍の飛行機が落ちても凹まぬ甲板に、爆弾と違い、空中で姿勢制御できるように羽を胴体から生やした物体が、目標へ当て、敵装甲を貫通するためにデザインされた爆弾以上の働きが出来るのであろうか?日本側で命中、撃破と記録されている船が、敵国では甲板に着弾、異常なしとあり、更に次の戦場に平然と出てくる。。(西沢広義兵曹長が見届けた関行男大尉率いる五機の最後と米軍の記録があわないなど)特攻の戦果は、大したことはなかった。その殆どは日本側が盛っているだけだ

 また、特攻に選ばれた者達も大いに苦しんだ。特攻隊といえば、小林よしのりが戦争論に描いた郷土訪問飛行は嘘で、実際に行えば罪に問われる。営倉に入れられ、特攻隊が出撃する日も収監されていれば寿命が延びるだろう。運良く不適格者として断じられれば、二度と飛行機には乗れないかもしれないが特攻で死ぬことはなくなる。そんな気持ちでおこなわれるものだった。だが、1回ぐらい出撃を避けられた者はいるかもしれないが、多くの者は、そのまま出撃させられた。特攻を命じた者達は特攻自体が一つの刑罰と考えている節があったからだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150804-00000089-spnannex-base

『 父から聞いた剛さんの話によると、石丸が最後に残した言葉は、モールス信号での「我、突入す」だったという。1945年5月11日。鹿児島・鹿屋基地から沖縄方面へと出撃した。500キロの爆弾を抱えて。そして、そのまま帰らぬ人となった。藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに死に急いでどうする!」と諭したという。「兄さん、そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答えだった。出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿もあった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。』―引用終わり


252航空隊、角田和男特務少尉の手記より

『搭乗員室とは名ばかりで椰子の葉で葺いた掘建て小屋、土間に板を並べただけのものだった。近づくと暗闇から『ここは士官の来る所ではありません』と止められた。だが私とわかると入れてくれた。わけを聞くと『搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです。特に中島飛行長(吉川注:基地指揮官で特攻大好きな201航空隊の中島正少佐のこと)に見られたくないのです』。

ドアを開けた。空缶に廃油を灯した薄暗い部屋の正面に、十人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。じろっとこちらを見つめた眼が、ぎらぎらと異様に輝いている。隅には十数人が一団となってひそひそ話をしている。

『これはどうしているのだ』

『正面にあぐらをかいているのが特攻隊員で、隅のはその他の搭乗員です』

『どうしたんだ。今日、俺と一緒に行った特攻隊員は、皆明るく喜び勇んでいたように見えたんだがなあ』

『そうなんです。だが彼らも昨夜はやはりこうしていました。眼をつむるのが怖いんだそうです。いろいろと雑念が出てきて。それで眠くなるまでああしておきているのです。しかし、こんな姿は士官たちに見せたくない。喜んで死んで行くと信じてもらいたいのです。朝、飛行場に行く時は、皆明るく朗らかになります』


 この角田特務少尉は何をやっているのかというと特攻機の誘導直掩(特攻隊を先導し護衛する)を担当していた。タクロバン爆撃を終えて、セブ島に寄ったら、先の中島少佐から

『特攻機の誘導直掩を命じる。敵機の攻撃を受けても反撃は一切ならぬ。特攻機の盾となって弾丸を受ける事。先発した制空隊は敵艦隊直衛機を遠くへ誘出する事。任務を果たした場合は帰投してよい。戦死した場合は特攻隊員と同様の待遇をする』

 と、命じられたからだ。こんな非道な中島少佐に刃向かった者もいた。203航空隊、岡嶋清熊少佐だ。岡島少佐は特攻は邪道であると中島正と激論し、玉井中佐の仲裁で203航空隊は内地に引き上げることになった。

 命令として異常な行動を取らせる者がいれば、少ないながらも、その命令に反対する者、その論争を仲裁する者もいた。別に日本軍は命令されたことを疑問に思わず実行する三歳児ではないのだ。

 しかし、特攻隊員の遺族に対して思うのは、戦後、何故、天皇や命令をだした者達を訴えなかったのか?天皇が刑事裁判に係わらなくとも非道な上司を野放しにした使用者責任や管理者責任を問えたのでは?開戦や敗戦の責任を天皇に問う気はしないが、特攻は別だ。この資源と命を浪費する非人道的な作戦を、なんとかして強制的に止めれなかったのかと思う。

 特攻を命令した者も多くは生き残っていた。いくらか責任と賠償を問えたのではと思う。源田実という特攻を命じようとしたが、部下に一緒に特攻しましょうと言われて特攻をやめた腰抜けは、戦後、自民党で参議院議員をしてたので、訴えるのは難しかったのかもしれない。今でいう、武藤貴也みたいなものか?

 太田正一は、戦後、名前と戸籍を変えて暮すという共産党員のような暮らしを送り、倉澤清忠は報復を怖れて、何時も拳銃を所持していたという。特攻を命じた者達も自分達が、非道な行為を命じたことを理解していたのだ。特攻が何か知りながら、自己保身の為に特攻を命じたのだ。 


 いろんな士官、下士官、兵士の手記が出ているが、誰もが戦犯に選ばれると、こう書いている。自分は上からの命令で戦犯行為(大抵、捕虜を処刑している)を遂行しただけだ、自分に罪はない、命令者が罰せられるだけと思って戦犯行為に及んだと。

 とくに印象的なのは、海軍特別警察隊と逃亡「油山事件」戦犯告白録で、両方とも現場近くに法務士官がいるのにもかかわらず命令どおり軍法会議・軍律審判をへずに捕虜を処刑したこと。

 両名とも自分が何をしでかしたのか、はっきりと認識していることだ。決して盲目的に、上からの命令に従ったら捕まったという状況ではない。その証拠に海軍特別警察隊の禾晴道は死体を海へ投げ込んで証拠隠滅を謀ったりする。

 酷いのになると、個人的復讐や、八つ当たりの為に現地人などの弱者に当たる。当時、慰安婦は、兵士用、士官用、高級将校用などにわかれていた。司令官など高級将校を相手にする慰安婦は、下手な士官、下士官より厚遇され、権力をもっていた。

 昭和19年春、ビルマの牟田口軍指令専用慰安婦(いわゆる愛人)が子宮外妊娠となり、手術しようとしたが、麻酔の効きが悪く、陰毛を剃っただけで終わったところ、慰安婦が激しく怒り、兵隊達が叱責されことが記録に残っている。

 それぐらい権力をもった慰安婦もいたわけだが、兵士の方はたまらない。第二十三連隊が中国にいた頃の話しだが、自分達には抱けない美しい日本人慰安婦(愛人)を連れてきた上官や、自分達に辛くあたる慰安婦を伴った上官の下に配属された時に、意図的に、放火、強姦、輪姦、略奪をしたいう証言もある。

 つまり、自分達が楽しめて、且つ、上官を辛い立場に追い込めるからである。日本軍は天皇の命令などではなく、上から下まで個人の私利私欲に基づいて動いていた。アジアの解放などは心中に微塵の欠片もなかった。

 因みに第二十三連隊は南京事件で虐殺をしたことで有名であり、終戦直前の8月12日ブーゲンビル島で吉池軍曹を私刑で殺害したことでも有名である。戦後、問題となり国会でも取り上げられた。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/071/0080/07104180080020c.html

○小林(進)委員 その審査会は三十五年に行なわれて、実にあれがインチキそのものであることは、もう二月二十七日の委員会で繰り返し言った。・・・当時のブーゲンビル島における第十七軍の状態はどうだったか。それは神田中将以下が言っております。玉砕の準備をした。もはや敵に全部包囲せられて玉砕以外にはない、そういう状態で、軍は腹をきめていた。・・・その現状の中から、一体、軍のりっぱな臨時軍法会議を開いて、そしておまえは逃亡罪であるといって処刑なんかできる状態があったかというのだ。』引用おわり


 このような集団を果たして天皇の軍隊などと呼べるのだろうか?天皇に戦争責任がある自分達は犠牲者だと声高に叫ぶ人間は、自分は悪くない全ては韓国人(朝鮮人)が悪いと叫ぶネトウヨと表裏一体だ。


 結局、裕仁には建前的な権力しかなかった。ただ、軍人達は、彼ら自身の思惑を通すために、自身が望む作戦行動や、面倒な上からの指令をこなす時に、彼の名前を用いて、自らの責任や罪科は問われぬものとして、彼に責任を委ねて、人の道に外れた行為を重ねた。


  昭和天皇を最大の無責任と切り捨てる山田風太郎は日記で日本国民について、こう書いている。

『日本人の国民性のひとつに“無責任”ということがありはしないか。こう考えるのは、開戦時における陸海軍首脳の無責任を思い出すからだ。アメリカを相手に開戦して勝てるかと言うと、陸軍も、海軍も、自信がなかった。自信のないまま、ズルズル開戦してしまった。これが一般国民とか、一般軍人ならいい。しかし、国家の存亡を担う首脳として、あまりに無責任な考えである。彼らは海軍の名誉利害、陸軍の名誉利害ばかり考えて、日本の名誉利害を考えなかった。ようするに、日本人の無責任性が最悪の形で表れたものとしか言いようがない』


 軍上層部は、裕仁に全ての責任を押しつける為に、全てを彼の名で遂行されることを望んでいるに過ぎない。裕仁の意見や考えは多くの軍人が必要としていなかった。彼が軍人達の意を反する行動をとった時の彼ら軍人達の反応はわかりやすかった。

 裕仁が具体的な形で、軍部と正反対の意向を示し、行動に移ったのが終戦の御聖断、玉音放送だった。奇しくも今年は宮内庁のwebサイトで玉音放送音声が公開されることになった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150801-00050015-yom-soci

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

 それに対して、軍部から、さまざまな形の化学反応が引き起こされた。まず、陸軍は御前会議から帰った阿南陸相に辞任を要求した。(これは先に述べたとおり、倒閣して詔勅を無効にするため)阿南はこれを断固として拒否した。

 その後、起こった叛乱事件が宮城事件であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 宮城事件後も海軍厚木基地でも叛乱が起こった。陸も海も裏切った。これが皇軍の正体であった。


 マッカーサーが天皇の人間宣言を行なわせたのは、神様だから罪に問われない=いくらでも罪を擦りつける存在は、もう存在しないよと12歳の日本人達に告げたに過ぎない。

 維新後、原罪という観念を持つ彼ら西洋文明人を上辺だけ模倣しようと帝国主義に傾倒した我々、日本人は、罪を憎んで人を憎まずを言葉どおり、いや、言葉以上に拡大解釈し、無責任な拡大主義に陥り、相手の罪を論い、亜細亜解放を謳うも、その実は西洋文明の帝国主義者より、苛烈な植民地政策によって亜細亜を蹂躙することに邁進した。

 また、その事で非難が及べば、先程と打って変わり、罪を憎んで人を憎まずと無責任に言い逃れたのであった。

 今、戦争法案が問題となっているが、今度、誤った道を行けば、誰に責任をとらす算段なのであろうか?先の大戦のように為政者達だけの責任とはなることは、もう、ない。

 もし、国民全員の責任となれば日本の運命は、そこで途絶えるだろう。政治家達は自分達が、何をしようとしているのか?今一度、先の大戦が祖国防衛などという、まやかしを建前にして起こった戦争であることを思い出し、過去を振り返り、考え直してみては如何であろうか?

 戦争法案に賛成する方々が敬愛してやまない靖国の英霊(1948年(昭和23年)9月22日ジャカルタ、グルドック刑務所にて銃殺刑)佐藤源治も処刑されるまで、こう書き記している。

日本によるアジア侵略の発端は朝鮮に始まっている。長い日本の統治下に屈辱と臥薪嘗胆の日々を送った人たちで、今次大戦では多数の人材を失わされている。一介の野人ではあるが、本当に申し訳なかったと思い、心からお詫び申し上げる。

 『祖国日本はいまこそ正しい信仰を取り戻し、道義の本源にかえって最出発すべきである。そして平和的精神と手段で完全な自立を果たし得られれば、世界の人々は神国の理想像をそこに見て、心から尊敬すると思う。武力を手段とする威嚇、侵略はけっして恒久的繁栄の道でないことを銘記すべきである。』

ジャワ獄中記より引用  

さて、来週、8月14日、安倍首相はどんな戦後70年談話をだすのであろうか?



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