「体育がきらい」という本が出ていたので読んでみた。著者は大学で体育を教えている先生だ。以下、一方的ではあるが、根からの運動嫌いの感想。

 

図 Bing Image Creatorに「スポーツが嫌いな人」と入れた結果

 

・体育嫌いというタイトルなのだが、「スポーツが嫌い」「運動が嫌い」という章が出てくる。なのだが、体育、スポーツ、運動の定義がはっきりしない。

以前にも書いているが、別物だというなら業界として定義を決めてもらいたい。運動の範囲を強引に広げて「だから面白い」と言われても何の解決にもならない(著者によると心臓が動いているのも運動らしい、そんなものに好きも嫌いもない)。

 

本から抜粋すると

 

体育は身体に関わる教育

スポーツは文化

運動=スポーツは幻想

 

とある。まず体育が教育的要素を含んでいることは同意する。身体に関わると言いながら、スポーツばっかりやらせているのが問題だと思う。

「スポーツ的な運動」というのも出てくる。ここからすると、スポーツは運動の一部ということのようだ(運動ではないスポーツが存在するのか否かは読み取れなかった。ベン図でどんな行動がどこに属するのか書いて欲しい)。文章からすると「歩く」や「ストレッチ」はスポーツではない運動のようだ。競争的な要素があることがスポーツの条件のように読める。

 

・体育なんて好きにならなくてもいい とあるが、こんな当然のことをわざわざ言うことに意味があるのは、スポーツ業界が「体育を好きなのは当然」「スポーツ嫌いはこの世に存在しない」という態度を取っていることの裏返しだ。そして、スポーツが好きなことを当然のように押しつけてくるスポーツ側の人間にスポーツ嫌いは辟易している※1。
 

・新しい運動ができるようになることは面白い と勝手に決めている(ように読める)が、これこそがスポーツ側の論理だ。何であってもできないよりはできた方がいいとは思う。何の苦もなく何かができる能力が手に入るなら、その能力は不要だと思ってもとりあえず手に入れるだろう。しかし、通常、能力を得るためには何らかの努力や苦痛が必要だ。運動嫌いとしては、新しい運動ができるようになったら面白いのかもしれないが、そのために努力や苦痛が必要なら、新しい運動ができるようにならなくても構わない という判断をする※2。やらされるものが跳び箱やら逆上がりだったりするので、できるようになったところで何の役にも立たない(これは筆者も書いている)というのも「できなくても構わない」と判断する根拠だ。球技なども私にとっては跳び箱と同じだ。面白くないし、できたところで何の役にも立たないと考える。

 

例えば私は中学生の頃にバレーボールを体育でやらされた※6。はじめに他の人が投げたボールを腕に当てて跳ね返すような動作※3の練習をさせられたのだが、この時点で私にとっては「バレーボール=腕が痛い」でしかない。日常生活でこの動作が何かの役に立つ状況が思いつかない(あるなら教えて欲しい)ので、できるようになりたいとは全く考えなかった。授業中はいかにしてボールを腕に当てずにすませるか(つまり空振りのような状態を作り出す)だけを考えていた。そもそもバレーボールなどやりたいと思っていないし、できるようになりたいとも思っていないし、試合をしたいとか勝ちたいとか微塵も思っていない。このような人間に「できるようになったら面白い」などと主張したところで何の意味もない(ここでスポーツ側は「やってみたら面白いから」などと言ってくるのもお約束だ、余計なお世話だ)。

 

これは他の教科でも全く同じで、新しい数学(まだ勉強していない分野)ができるようになることは面白い と言うのは数学好きにとっては正しいだろうが、数学嫌いにこんなことを言っても面白いとは思わないし、やってみようとも思わないだろう。運動も同じ事だ。

 

・スポーツが競争を含んでいるという話は同意する。私は体育の授業の競争的な部分(例:チームに分けて勝敗を競う、走って順位をつける 等)については嫌うより前に、競争する意味が理解できなかった。理由は「仮に勝ったところで何も得られない」からだ※4。なぜ他の生徒が何の見返りもないのに、真面目に試合をしているのか理解できなかった。勝ちたいともやりたいとも面白いとも思わないので、どうすれば極力何もせずに済むかを追求することになる。バスケットボールやサッカーだとなるべくボールに近づかないように端の方をウロウロする、トイレになるべく長時間行って時間を潰す などということになる。こんなことをしていると当然ながら競争することに疑問を持っていない人からは「真面目にやれ」などと言われることになる。競争的な部分に対して嫌悪感を持つのは、スポーツ側に文句を言われることが原因だ(私に言わせれば、やりたい人だけで勝手にやっていればよいと思うのだが。数学の問題を真面目に解こうとしない人に向かって数学好きが文句を言うことはないだろう。なぜ体育なら文句を言うのが当然になるのか)。

 

・結局、体育の授業をどうしたらいいのかという提案がない(著者がこんなことをしているという話はあるが)。問題があるのに現状の体育の授業を変える必要はないということなのか。本来、体育で教えるべき事は、スポーツをやらせることではなく、体の管理の方法とか、病気にならないためにはどうしたらいいのかといったことではないのか。「健康に過ごすためには、Xという動作が1日Y回必要だ。理由は~」という授業なら、私も真面目に話を聞いたと思うのだが、そんな授業は一度もなかった。

 

参考、この本と同じようなことも書いている。

 

 

・運動嫌いは運動で体が変わることが怖いというロジックは納得できない。私は体が変わることが怖いから運動を嫌っているわけではないし、現在の自分の状態から変わりたくないとは思っていない(積極的に変わりたいとも思っていないが)。変わる必要性がない(と思う※5)のに、変わるためには嫌いな行為(=運動)をしないといけないのなら、わざわざ変わろうとしないだけだ。順番が逆なのではないか。また、私は運動嫌いだが、自分の体が嫌いなわけではない。他人の体と取り替えることは不可能なのだから、好きとか嫌いとか考えたこともない※7。

 

 

※1 例えば数学業界は数学嫌いに対して数学を好きにさせようとしているだろうか。できるようには努力するだろうが、嫌いを好きに変えるのは相当難しい。なぜ体育なら好きになるのが当然のように思っているのか、私には全く理解できない。

 

※2 できないと体育の授業で晒し者になるという強迫は存在する。これに対して私が取った対応は「こんなことができても何の役にも立たない」と開き直って「心を無にしてやり過ごす」だ。多くの場合、できないままでも体育教師はどこかの時点でさじを投げるので、いかに早く投げさせるかを考えていた。

 

※3 いまだにあれが何の意味を持っているのか分かっていない。

 

※4 ここで「勝つことは快感」とか言い出すのがスポーツ側のよくあるパターンだ。私はそんな苦痛(=運動)の先にあるかもしれない(負ける方が多いので)快感など不要だと判断する。快感が欲しいならもっと楽な方法があるだろう。

 

※5 変わることで階段を上れるようになる という例が出てくるが、すでにできていることを例に出されても意味がないと思う(リハビリ運動の話なら分かるが)。今から苦痛な運動をしてでも、できるようになりたい動作というのが思いつかない。

 

※6 なぜバレーボールだったのか謎だったのだが、体育教師が元バレーボールの選手だった と言うだけの理由だと本書の部活の部分を読んで思い当たった。単に自分の好みでやらせていただけではないのか。

 

※7 運動が苦手でない体であれば、これほどひねくれ者にはならなかったかもしれないとは思う。