Twitterで流れてきた運動嫌いに関するツイート。

 

 

典型的なスポーツ側の意見(上のブログに示した「彼らの中では「スポーツ嫌い」はいない」と同義)だと言えよう。例に挙がっている体育嫌いな子供が大人になって運動をするという話に文句をつける気はない。しかし、ここから言えることは「体育教育がクソだ」であって、運動嫌いがいないことなど示してはいない。

 

大人になって運動をする人は「体育嫌い」で「運動嫌い」ではない。「体育嫌いの多くは運動嫌いではない」が正しいからと言って「運動嫌いは(ほぼ)いない」は成り立たない。世の中には「運動嫌い」はそれなりにいる というのが根っからの「運動嫌い」である私が言いたいことだ。

「学校生活では体育大嫌いだったが、大人になってもやっぱり運動しない」という人はいないとでもいうのだろうか?

 

例えば上のツイートに書いてある「体を動かすのが気持ちいい」だが、私はこれを感じたことがない。あまりにも動かないと体調が悪くなるので歩いたりしているが、基本的には苦痛である。やらないで済むならやりたくないと思っている。

 

これも前に書いているが、運動嫌いは自分が運動嫌いであることをベラベラ話したりはしない。特にスポーツ側と思われる人には言わない。攻撃される可能性が高いからだ。

 

 

話さないのもあるし、スポーツ側の人と関わると不快な思いをすることが多いので、そもそもできるだけ関わらないようにしている人も多い。なので、世の中の多数派であるスポーツ側からはさらに見えなくなってしまう。

 

最初のツイートに戻ると、私のような運動嫌いは「本当の意味で運動嫌いな子はほぼいない」などと勝手に決めつけるような人(≒スポーツ好き)の思考回路が嫌いなのだ。最近はやりの「多様性の尊重」とは対極的だと思うのだが、どういうことなのだろうか。このような思考の結果、スポーツ側が運動嫌いに対して暴力的、差別的な行動を取るようになるのだ。スポーツ側がこのような思考だから、なおさら関わりたくないと思うようになる。完全に悪循環だ。

多様性の尊重というのは、「(多数派からすると)いないと思うような属性の人もいる」ことを認めるところから始まるのではないか。別に気持ちを理解しろとは言わない※1が、存在を否定するなと言いたい。この手の思想のたちが悪いところは、存在を否定することに利益がない※2のにやっていることだ。上の例だと、根っからの運動嫌いが存在したからと言って誰かに迷惑をかけることはない(はずだ)。にも関わらず存在しないと勝手に決めつけるのだ。存在しないことにされた側からすると。一体何を目的に主張しているのか不明なところに不気味さを感じる。極端に言えば「抹殺されるのではないか」という危惧を抱くのだ。

 

 

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※1 他人の気持ちなど基本的には分からない。存在しないと考えてしまうくらい自分と異なる属性の人間の気持ちなど分かるわけがない。スポーツ側に最も欠けているのは、「分かるわけがない」という謙虚さではないか。
※2 運動嫌いが存在しないと主張することで利益を得られる人というのが私には思いつかない。