行雲流水 ~所長の雑感~

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

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平成があと少しで終わろうとしています。当事務所も令和元年8月には創業50年目を迎えます。私は昭和35年に同志社大学経済学部を卒業し、即税理士事務所で実務を学びつつ、税理士試験を受験し昭和38年に試験合格、昭和45年に許されて独立、税理士事務所を開き、税務、会計の世界でほぼ60年が経過しました。昭和の後半の30年、平成の30年を思うと万感の思いがします。いずれ遅かれ早かれ、各界の人々から平成の総括がなされると思います。私は大それたことをするつもりはないですが、先日開業当初の源泉徴収簿を見ていて、昭和45年から64年までの昭和と、平成の30年間の人件費には顕著な特徴があることに気づきました。

 

 まず私の昭和35年(1960年)の大卒初任給、学内で張り出された求人で、最高は日興証券の15,000円、12,000円から13,000円が一般的でした。私の初任給は高卒なみだよといわれて8,000円でした。1960年に池田首相が所得倍増論をぶち上げていましたが、世間の反応はまだまでした。ところが昭和45年の開業後に最初に手伝ってくれた女子事務員の給料は、4535,000円、4645,000円、4750,000円、4865,000円退職時の49年には100,000円になっていました。丁度高度成長の初期の物価及び人件費の高騰がうかがわれます。49年に入れ替わりに来てくれた、大卒男性は初任給100,000からでした。私の時代の初任給ほぼ10,000円から、15年で倍増どころか10倍増になっていました。彼の給料を年代別に追ってみると、月給が300,000円、年収が5,000,000円を超えるのは昭和の終わり近く、10年かかってほぼ3倍、高度成長がやや緩やかになってきたことを伺わせます。

 

現在在籍する4人は全員平成も半ばを過ぎてからの入所です。一種の出来高払いなので、定期昇給はありません。売上高の増減で給料は変化するのですが、ここ数年は安定した金額になっています。社会全体が物価の上昇も大きくなく、社会がよく言えば安定、悪く言えば停滞していることの証なのでしょうか。

 

さて昭和の高度成長期に自営業をしていたことを話すと、多くの人はいいですね、と羨ましがられます。しかし本当ははたしてどうか。売り上げが少々上がったからといって、今年の成長率は10パーセント、それより下回っていては成長とは言えませんよ、と発破をかけられる。物価はどんどん上がり、経費と人件費は毎年見直してくれる顧問先もありません。

 

従業員にしても給料が上がるほどには豊かさを実感していたとは思えません。新しい電化製品は次々売り出される。友達は車を買った、などなどいつまでも落ち着く暇はありませんでした。考えようによっては必要なものは周りに大方揃っている。多くはなくとも収入もある程度安定している平成の方が生活はしやすかった、のかも知れません。

 

「令和」私は好きです。明治、大正、昭和、平成と並べてみると柔らかくはないですか。中国古典からと万葉集からの違いでしょうか。なんとなくふんわりと期待が持てそうな気がします。ただ世界はこれからたいへんですね。アメリカの独りよがり、中国の独断、EUの混乱。東アジアの台頭、アフリカとアラブ諸国の政治的混乱。日本で言えば朝鮮半島問題が再燃しています。朝鮮半島の政治的無力と混乱のため、明治、大正時代、国運を賭け、日清日露戦争を戦いかろうじて得た政治的安定が音を立てて崩れかねない様相です。

 

新しい時代、私たちはどう生きるべきか。新しい年号が示唆しているような気もします。「令」を命令の令ととって異を唱える人も二、三見かけましたが、漢和辞典を引いてみると、例示されている40の熟語のうち、命令の令は2例だけ。あとは令嬢、令息、令人、令名など、ほめ言葉もしくは丁寧語として使われています。ということはまさに「和をもって貴しとなす。」という聖徳太子の言葉を自信をもって世界に発信することの暗示かもしれません。

 

幸いなことに、災害時の人々の整然たる姿や、サッカーのワールドカップでのゴミ拾いとか、70年間戦争をしないどころか、外国に対し一発の銃弾も発していないことを世界の人々が知りつつあります。日本人の庶民の誠実さは、報道のみならず、多数の観光客の目で世界の人々が広く知るところとなっています。また最近あるマスコミ人の発言で今、世界で何か重要なことが起こった時、真っ先に日本に情報が入ってくるそうです。彼の30年間の報道生活の中で初めての経験だと語っていました。安倍首相の長年の外交の成果と言えるのかも知れません。ともあれ我々日本人は世界に対し発言を控えすぎていました。世界中の人々が力による解決が無意味なことを感じ始めています。日本人が勇気をもって世界の平和に積極的に貢献出来る、令和がそんな時代になっていくことを願います。

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 平成が終わるからやめるのではないですが、みどり会タイムズ、この号で一旦筆を置こうと思います。いつか必ず終わるものであれば、どこかで区切りをつけなければなりません。みどり会タイムズ1号は平成55月に始まっています。今回で309号になります。そこで「私本平成記」と名付けて本にすることにしました。ご希望の方には進呈いたします。みどり会タイムズ令和版は今のところ考えてはいませんが。

「和歌山の冬の味覚といえば幻の高級魚「天然のクエ」。天然クエの漁は一本釣りが多く、漁獲量も少なく幻といわれています。さらに見た目からは想像もできないほどの繊細な味わいは、他では決して味わえません。脂ののったゼラチン質の食感はくせになる美味しさ。アンコウや河豚よりも美味しいと称されます。」

 

ここは和歌山県、紀淡海峡の友ケ島を真上から見下ろす、国民休暇村加太のレストラン。表題と「」の文章はランチメニューの説明書きです。メニューは、天然九絵「食前酒 クエヒレ酒」「先付 クエ煮こごり」「造里 クエ薄造り」「台物 クエ鍋」「揚物 クエ唐揚げ」「御飯 クエ雑炊」とクエづくしが並んでいます。 

 

京都新聞のバス旅行広告、特選「クエづくし」にひかれてここへきています。クエははじめてではないですが、以前の記憶は旅館の宴会料理。ビールや酒の勢いで大量の刺身や鍋を思い切り食らい、ああうまかったとぐっすりお寝すみ、だったと思うのですが。しかも帰りのバスでのトイレを考えると、ビールのがぶ飲みなど持ってのほか、一杯のヒレ酒でじっくり味わいました。結果的にはこれが最高。多分クエの煮凝リは初物、造りにしても鍋にしても、量が限られているだけに、逆にじっくり味わえて、雑炊を空にすると丁度満腹。酒がつきものの日頃のディナーをちょっぴり反省しました。

 

この休暇村の温泉露天風呂は最高です。岬の突端でしかも高台にあるため友ケ島を見下ろし、眼を上げれば四国を遠望できます。紀淡海峡を通過する船舶、友ケ島への行き来する舟、舟を見ていると飽きることがありません。旧日本軍の砲台跡などで人気の友ケ島へも行って見たくなりました。友ケ島、一つの島だと思っていたのですが、上から見ると二つに分かれています。地図で確認すると小さい二島を合わせて四島を言うそうです。たっぷり一時間足らず楽しんでいました。

 

時間が前後しますが、旅行広告にはもう一つ賀名生(あのう)梅林の見学がありました。五條市で紀の川を超え南へ5Kから10Kぐらいでしょうか、山間でバスは止まりました。ガイドさんの説明では古くからの梅の名所で、「口の千本」「見返り千本」「奥の千本」とありますが実は2万本以上あるそうです。全部回ると3時間以上かかります。急坂ばかりなので適当にお戻りください。とのことでしたが歩き出すとほとんど登山。また、224日は山の梅には早すぎてチラホラどころか、チラ………チラ咲。くっきりと咲いていた一輪をキャノンに残し、早々に戻りました。(今、その一枚うちの玄関を飾ってます。)

 

バスの待機場所に戻り国道を隔てた看板を見るともなく見ると、後醍醐天皇の字が読めました。特にガイドさんの説明もなく、出発の時間もあったので、ちょっと立派な茅葺の二棟を写真に収めただけで、そこへは足を運びませんでした。

が帰って「賀名生梅林」とインターネットを開けてみると………。なんとその建物は「賀名生皇居跡」。足利尊氏に追われた後醍醐天皇が、吉野山に入る前に滞在したところ。またその後、後村上、長慶、後亀山の3天皇の行宮ともなりました。南北朝時代というと、はるか歴史の彼方のように思えてましたが、現物を目の当たりにすると、歴史がぐっと身近なものに感じられます。今一歩足を延ばせば良かったな、と少し反省しています。

 

一滴会でいつもお世話になる天龍寺。天龍寺はそもそも後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢想疎石の勧めにより、足利尊氏が創建したものです。一滴会は西暦2000年の夢想国師の650年遠忌に協賛し設立された集まりで、私も誘われて入会したのが今から思えば、25年以上前の事でしょうか。遠忌の終了後も、春の花見、秋の月見と瀟洒な集まりが続いています。一滴会の総会などが開かれるのは天龍寺の多宝殿という建物ですが、そこは正しくは後醍醐天皇の尊像をお祀りしているところです。賀名生という鄙びた梅園のご縁で、改めて天龍寺と日本という国の成り立ちに、深い興味を呼び覚まされました。

 

天龍寺では毎月第二日曜に午前10時から、午前9時からの座禅会に続いて龍門会という勉強会が開かれています。私が最初に参加した20数年前は、「碧巌録」という「禅」の公案がテキストでしたが、現在は「夢中問答」を使っています。「夢中問答」は尊氏の弟、直義が「俗」の質問を夢想疎石にぶつけ、国師が丁寧に答えるという形式で非常に興味深いです。佐々木容道管長が直接説いていただけるせいか、20数年前は年配の男性中心でせいぜい230人だったのが、現在では100人から120人ぐらい、それも男女を問わず、若い人が多いのは頼もしい限りです。老師の法話が直接聞ける貴重なチャンスです。是非一度は来てみませんか。

 

1962年「太平洋一人ぼっち」堀江謙一のマーメイド号による太平洋横断で、クルーザーによる航海が日本でも認知されました。1966年にはイギリス人・フランシス・チチェスターがヨットでの単独世界一周を成し遂げ、世界は驚かされました。それを受けて1968年、サンデータイムズ紙が単独無寄港世界一周レースを主催し、イギリス人ノックス・ジョンストンが優勝します。1962年は私は税理士試験の真っ最中で琵琶湖とは完全にご無沙汰でしたし、琵琶湖にクルーザーはただ一艘浮いているだけでした。しかし1965年頃から日本でも各地でクルーザーのレースが盛んにおこなわれ、1968年には琵琶湖縦断のレースも始まっていました。私もそのころにはメンバーに加わってレースにも出ていましたので、そんな海外のニュースにも敏感に反応していました。

 

表題の映画は、その世界初の単独無寄港世界一周レースの物語と聞いて、楽しみに出かけたのですが。まったく想定外の展開で、しかも実話と聞いてまた吃驚。英国では当時話題にもなり、書物もありテレビドラマにもなった有名な話だったそうですが、寡聞にして私はまったく知りませんでした。日本では報道されなかったのかも知れません。

 

物語はサンデータイムズが5000ポンドの賞金を出して、「ゴールデン・グローブ・レース」単独無寄港世界一周レースの参加者を募集する場面から始まりました。そのレースにいち早く申し込んだのがドナルド・クローハースト。船舶用の位置測定器を開発して会社を立ち上げたものの事業は行き詰まっていました。5000ポンドの賞金と、妻と幼い3人の子供たちに名誉を送ろうというのが動機でした。ドナルドはほんのウイークエンドのアマチュアセーラー、そのことが話題を呼び、資金も集まりマスコミは宣伝媒体に祭り上げる。紆余曲折はあり、迷いもあったもののスタートの日を迎え、町の人々と家族の盛大な見送りを受けて出発します。

 

(閑話休題。画面でそのヨットを見たとたん、私は眼を疑いました。というのはトリマラン〈三胴船〉だったからです。カタマラン〈双胴船〉やトリマランのヨットはハワイあたりでよく見かけますが、静水の順風では良く走りますが、風上へ切り上がる能力は完全に劣ります。南氷洋の荒海の航海に耐えられるのか、当時の情報不足が想像できます。)

 

出発はしたものの素人の悲しさ、次々と起こる故障に泣かされ、懸命に大西洋を南下するものの、向かい風に悩まされ一向に予定どおりには進みません。この当時GPSは勿論ありません。陸地との連絡は基地局を通じた無線電話だけ。喜望峰どころか大西洋で行きつ戻りつ、ついに彼は偽りの電信を打ち始めます。その偽りの位置報告による驚異的なスピードに地元英国内は大いに沸き立ちます。現実の航海と本国の熱狂との狭間で、ついに彼は大西洋に留まったまま、他の船のゴールに時間を合わせてゴールインしようともします。大自然の驚異と心の葛藤………。

 

事実は後日大西洋を漂流している無人のヨットを貨物船が発見、それが彼のヨット、テインマスエレクトロンでした。そのキャビンに航海日誌が残されていました。

 

ところでこのレースには9人が参加し、前述の通りノックス・ジョンストンがただ一人313日をかけてゴールインし優勝するのですが、その前を帆走(はしっ)ていたフランス人モテワシエはレースを放棄し一人、南太平洋タヒチにむかいます。「記録など意味がない。海にこそ幸せがあるから」だと。まさにロマンですね。残り6人はすべて遭難し棄権、当時の小さなヨットによる世界一周の過酷さがしのばれます。ノックス・ジョンストンは賞金5000ポンドをドナルドの寡婦と3人の子供にドネーションしたそうです。泣かせますね。

 

ところで1989年から4年に一度「ヴァンデ・グローブ」という名の「単独無寄港無補給世界一周ヨットレースが行われています。フランスのヴァンデ県をスタート。喜望峰、インド洋の南、南極に近いハード島、オーストラリアの南西ルーイン岬、南米大陸の最南端ホーン岬のチェックポイントを通過し、フランスへ。今まで8回開催されていますが優勝者はすべてフランス人。最初のころは100日前後でゴールしていましたが、最新の2017年にはなんと74日でゴールしています。

 

日本からは白石康次郎が挑戦しています。白石康次郎は1994年26歳の時、単独無寄港無補給世界一周を果たしています。2016年第8回のヴァンデ・グローブに挑戦しましたが、マストトラブルでリタイア。来年第9回のレースに挑戦するようです。上位チームの予算はほぼ10億。白石チームも3億5千万かかったようです。スポンサーとクラウドファンディングを募集しています。興味のある方はどうぞ。ドナルドの時代と違って、航海の過酷さは変わらないとしても、その気になればテレビの実況中継も可能だそうです。

昨年12月18日、左眼だけ白内障手術をしました。これまで白内障手術の経験者の話によると、「世の中が一遍に明るくなった。」「白い色がこんなに綺麗に見えるとは思わなかった。」「ゴルフボールの飛んだ方向がはっきり見えるようになった。」とか、とにかく手術の前後では全く世の中の見え方が変化する様な話ばかりでした。私はというと、手術をする決心をした左眼の左上のもやもやが消え、決算書の数字のちらつきがなくなり、読書や仕事に必要だった近距離用のメガネが不要になりました。ゴルフボールがはっきり見えるかどうかはまだ試していません。(1月10日現在、術後約20日)しかし世の中の見え方が変わるほどの劇的な変化は感じませんでした。

 

そこで改めて経験者にくわしく話を聞いてみると、極端な方は「対向車のヘッドライトで一瞬目の前が真っ暗になった。」とか「電柱にぶつかってメガネが壊れ、殴られたような怪我をした。」とか相当重症になってから手術をされているようです。私はというと、45歳になった時から毎年人間ドックに入っていました。30年間、γ・GTP(アルコール性肝炎等に関わる指標)の数値が注意点を上回るぐらいで、幸いなことにほとんど問題なく過ごして来れました。75歳になった6年前、今さら癌になったところで5年、10年は過ごせるだろうし、下手に告知を受ければ余計な心配事が増えるだろうから、今年でドックは終わりと決めて受けたところ、眼科で精密検査を受けて下さいと初めてのチェックを受けました。

 

受診すると自覚症状は一切無いにも関わらず、白内障、緑内障ともに症状が出ているということで、その後6年間ほぼ2か月に1回眼科に通い目薬のみの治療を受けてきました。今回も昨年10月ぐらいに左眼のちらつきを訴えたところ、「まあ潮時かな。とりあえず左眼だけして見ますか。」ということで、バプテスト病院の紹介を受け、行ってきました。ということでぎりぎりまで我慢しなかった分、劇的な変化が感じられないのかも知れません。体にメスは入れたことがない、病院でのお泊りはしたことが無い、と勝手に自慢していたのですが、残念ながら傷は残っていませんが、多分メスは入ったのでしょうね。ただ日帰りを選択しましたので、病院でのお泊りはまだ経験していません。

 

以前(どれぐらい前か聞きそびれましたが)の白内障手術はただ見えるようにするだけだったそうですが、現在は汚れのついた水晶体を取り除き、レンズと交換するだけなので、焦点を遠くに合わせるか、近くにするか自由自在に出来るそうです。中には健康保険は使えないものの、遠近ともメガネの使用が不要なものもあるそうです、80万円ほどするそうですが。私は遠くはメガネを使用する方を選びました。説明書には8万円ほどご用意くださいと書いてあったのですが、実際に支払ったのは4万円ほどでした。8万円は両眼の費用だったのかも。

 

さて具体的な手術の段取りは、まずかかりつけの眼科の先生に紹介していただいたバプテストの先生に予約を取り、10月22日に診察と説明を受けに病院へ行きました。そこで先ほどの内容も含め説明を受け、手術日を12月18日(火)と決めました。それから逆算して12月10日(月)、手術に必要な検査と説明、12月19日(水)に術後の確認、その週一杯自宅で安静、12月28日(金)最終確認とスケデュールを決定。手術そのものは全く拍子抜けするほどシンプルでした。手術台に横たわって、左目に強烈な光が当たっているだけで、痛みもなく接触感もなく先生と普通に会話を交わしながら、いつの間にか終了していました、30分ぐらいだったのでしょうか。それよりも12時の手術に10時に行ってまもなく、処置室に呼ばれ10分おきぐらいに、目薬を差してもらっている間の方が緊張していたように思いました。

 

術後眼帯で左眼を覆いながら帰宅してから、渡された注意書きを守る方が大変でした。帰宅当日は風呂は勿論顔も洗うな、眼帯は寝るときも外すな、目薬は指定どおり指定時間にすること。手術翌日も首から下の入浴はOK、しかし顔は濡れたタオルで拭くだけ、目薬は指定時間に、指定どおりに。手術後2日目、洗顔洗髪OK、ただし目を押さえないように、目に水が入らない様に。28日に病院で検査してすべて問題なし。ただし目薬指しはいまだに面倒です。目の状態が落ち着いて、メガネを新調してゴルフボールの行方がしっかり確認出来るまでは、あと暫くかかりそうです。

上記の案内に連れられて、122日指定時間の5時より少し前に、御幸町御池上るのスペイン料理店「ラ・マーサ」のドアを開けると、さっと2階へ案内されました。まだまばらな店内で、男性がギターを弾きながらきれいな高音でフラメンコを歌っています。自由に席に着くと、さっとアルコールのメニューが出されます。ビールを注文してまもなくスペイン料理のおつまみがどんどん出され、いつの間にか店内は満員になっていました。ほろ酔い気分になった頃、階下にお集まり下さいと案内があって降りてゆくと、3坪ほどの狭い舞台に、きれいな衣装をつけたフラメンコダンサーが3人と、歌手とギタリストが二人。もっともダンサーのうちの一人は10歳ぐらいの少女、多分親子でのステージのようです。ソロが3回、群舞が一度、目の前、1メートルか2メートルで見るフラメンコはなかなかの迫力でした。それから50周年のセレモニーが始まりました。

 

いつもの店での仕事姿とは見違えるような盛装のご主人と奥さん。便せんに丁寧に書かれた最初のお客様の祝辞を神妙に聞いてはおられましたが、途中で「一枚飛ばしてます。」と奥さんが注意されるほどの余裕もありました。これも古なじみのよしみなのでしょうか。ご主人のお礼の挨拶も、50年前、25歳の開店当初「夜が来るのが怖いの」という流行歌のとおり、「夜が来るのが怖かった」(お客さんが来てくれるかどうか)とか「夫婦二人の仕事は大変、客の前で喧嘩もできん。」とユーモアあふれる本音続きでしんみりと笑わしていました。けれど地元の消防団、夷川の職人さん、京都新聞や市役所の職員さんなどいろんなお客に囲まれて続けてこられたのだそうです。

 

「ふじ吉」は麩屋町二条にある寿司、割烹のお店。最初のご縁は何だったのかちょっと記憶にないのですが、今では家族は勿論、事務所の宴会、ときには税理士仲間など気軽に立ち寄れるので、よく利用させてもらっています。一応、寿司、割烹なのですが、頼んでおけば、すっぽん、鯨、蟹などなんでも用意してくれる便利なお店。そういえば顧問先の社長が鯨を食べようと、連れていってくれたのが最初のような気がします。

 

話は全然変わりますが、割烹料理とは物の本によると、目の肥えた客が板前にいろいろ注文を出し、板前がそれに応えてそれぞれの客に目の前で調理するのをいうそうです。ところが最近は目や舌の肥えた客が減り、客をカウンターの前に並ばせて一斉に次々と料理を出してゆく、割烹とはとても言えない店がはびこっていると、物の本は嘆いていました。

 

そこへ行くと「ふじ吉」はまさに割烹料理です。「おまかせ」で頼みながら、突然天ぷらが食べたくなって、注文するとさっと出てきます。一度など、家内が祇園祭のときの家のおばんざい、「はもをなすびではさんでたいたん、出来る。」と聞くと、「それ面白いな」とすぐ出てきて、今では定番商品の一つになっています。

 

ところで一口に50周年記念といいますが、一代で50周年を祝えるのは非常に珍しいケースです。まず若くしてそれなりの実力がなければ独立できません。半世紀の間には景気の変動も激しく、お客様もどんどん入れ替わって行きます。そして何より本人と奥さんが、心身共に健康でなければなりません。この三拍子を50年維持するのは稀有なことです。本当におめでとうございます。と思っていると宴たけなわの二階席で、某京都市会議員の先生の、ふじ吉の半世紀を読み込んだ相撲甚句が始まりました。なかなかのいいお声で長々と謡いこみます。目出度い席の相撲甚句、きちんと宴が引き締まりました。