(ダリヤ ・サルトゥイコヴァ伯爵夫人 1730〜1801)
ダリア・ニコラエヴナはロシア帝国の貴族女性で〝血の伯爵夫人〟こと有名なエリザベート・バートリと並ぶ大量殺人犯です。
1730年11月3日、ダリア・ニコラエヴナはロシア帝国の貴族の令嬢として誕生しました。
ダリヤは裕福な家庭に生まれ、莫大な持参金を持ってサルトゥイコヴァ伯爵と結婚しました。
ダリヤはサルトゥイコヴァ伯爵夫人となり、結婚生活はとても幸せなものであったと言われています
ダリヤとサルトゥイコヴァ伯爵の間にはフョードルとニコライという2人の子供にも恵まれました
ダリヤ達はモスクワのグズネツキー橋の近くの豪邸に住んでいたと言われています。
さらにダリヤはとても信心深い女性で尊敬されていましたしかし同時に極度の潔癖症だったと言われています。
ダリヤが26歳の時、夫、サルトゥイコヴァ伯爵が死去。ダリヤは未亡人になってしまいます
夫の死去によりダリヤは夫の莫大な遺産と共に大量の農奴たちを相続し、北西部の3つの州を治める大地主となりました
(ダリヤ・サルトゥイコヴァ伯爵夫人)
領地における唯一人の女主人となったダリヤは誰にも知られることなく、農奴たちに対する拷問と虐殺を楽しむようになりました。
何故か被害者は女性か少女ばかりでした。
しかも何故か金髪の女性ばかりでした。
その拷問方法は残酷そのもので髪を燃やしたり、熱湯をかけたり、寒い中裸で放り出したり、餓死させたりしました。
しかし世間一般ではダリヤは優しく信心深い女性で通っていました。貧しい人々に施しを与えたりしていました
しかし犠牲者となったある女性の親族がロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世に嘆願書を送ることに成功。
1762年に逮捕されたダリヤは、当局による入念な取り調べのおかげで、1768年まで6年間ものあいだ獄につながれた。
司法参議会は多くの証人を召喚し、ダリヤの領地での行状について調べ上げた。公式の発表では犠牲者は138人であり、そのうちのほぼ全員がダリヤに仕える者たちでした。
ダリヤが138人の女性農奴を、撲殺または拷問死させた事実が明るみに出ます。
しかしエカチェリーナ2世はダリヤへの処罰について決断をためらっていました
1754年以降、ロシア帝国では死刑が廃止されていた。それに加えクーデターを起こし、夫から帝位を簒奪したばかりのエカチェリーナ2世は、貴族階級の支持を保持しておく必要があったからだった
貴族であるダリヤにとって殺害した農奴の少女たちは同じ人間ではなく、器物損壊くらいの気持ちで行なっていたと言われています
1768年、ダリヤは首に「人を拷問死させた女」と書かれた標識をぶらさげ、モスクワで1時間だけ晒し台の上に立つ刑に服しました。
誇り高いダイヤにとって死刑よりつらい刑だったでしょう。
大勢の人々が彼女が晒し台に架けられているのを見物にやって来た。この刑の後、ダイヤはクレムリンの近くのイワーノフスキー女子修道院の地下室で無期刑に服するよう命じられました。
鉄の鎖をつけたまま、死ぬまで太陽をみることができないようにと地下に監禁される刑でした。
潔癖症だったダリヤにとって耐え難い苦痛だったでしょう。
そしてダリヤは1801年12月27日71歳で死去しました。
ドラマ化されています