パリの女優アリス・オジーをモデルに描かれた《泉のほとりで眠るニンフ》は、公的な場に出展される作品としては珍しく腋毛が描かれています。そこには写実主義の萌芽がみられるのだとか。
今月は、国立西洋美術館 (東京・上野)で開催されている「シャセリオー展―19世紀フランス・ロマン主義の異才」の作品を紹介しながら、シャセリオーについてご紹介します。
テオドール・シャセリオー《泉のほとりで眠るニンフ》1850年
CNAP(アヴィニョン、カルヴェ美術館に寄託)
©Domaine public / Cnap /photo: Musée Calvet, Avignon, France
―全身を描いた肖像を見ると、アリスの抗いがたい魅力とは
コントラストにあったようだ〔…〕
あのギリシャの肉体にパリの顔が載っているのだ―
上記は、ヴォドワイエによって記された19世紀パリの女優アリス・オジーについての一節です。
舞台女優のアリス・オジーは、当時パリで最も美しいと賛美された体の持ち主だったとか。
ドーマル公爵、ヴィクトル・ユゴー父子、ゴーティエ、そしてルイ=ナポレオン・ボナパルトといった著名人と浮名を流す高級娼婦でもあったようで、数々の詩人が彼女を称える詩を捧げ、多くの画家が彼女の姿を絵画に残しました。
そんな彼女と、ロマン主義の画家テオドール・シャセリオー(1819-1856)は、1849年から50年にかけて関係を結んだ恋人どうしでした。
有名な美女と、美男とはいえない植民地生まれの「クレオール」の画家というカップルを、詩人ヴィクトル・ユゴーは残酷なパロディーにしています。
その中で、アリスと思われる女性は「私のような可愛らしい女と付き合うにはあなたは醜すぎるの。・・・ねえセリオ、私の乳房を見せてほしい?」と、シャセリオーがモデルと思われる男を翻弄。セリオは遂に滑稽な様子で気絶してしまいます。
しかし、これにはどうやら、アリスを誘惑して失敗したユゴーの嫉妬が混じっているようで、この作品に対しアリスは激しく反論しています。
「ユゴーという名のあの天才にとって何たる侮蔑でしょう」と、シャセリオーを擁護し、彼を慕うアリスの確かな思いがエピソードとして残されています。
※1 テオドール・シャセリオー《泉のほとりで眠るニンフ》1850年
CNAP(アヴィニョン、カルヴェ美術館に寄託)
©Domaine public / Cnap /photo: Musée Calvet, Avignon, Franc
アリスをモデルにしたシャセリオーの作品のなかでも《泉のほとりで眠るニンフ》は代表的な1枚です。
草上に、裸体の女性が寝そべっている様子を描くというのは、一見、16世紀ヴェネツィア派から続く、伝統的な主題のようです。
しかし、そこにシャセリオーは時代を先取りするような革新を施しています。
木々の合間に横たわっているのは、ギリシャ神話に登場する精霊「ニンフ」ということになりますが、よく見ると、彼女がその体の下に敷いているドレスや金の首飾りなどは、19世紀同時代の女性のもの。
さらに彼は、はっきりと腋毛を描いているのです。
当時はまだ、女性の裸体は、神話や聖書の一場面として、理想化して描くのがお約束でした。
シャセリオーがこの作品を描いた2年後、写実主義の画家クールベが《浴女たち》という作品で、理想化されていない、現実的な女性の裸体を描いて批判を浴び、その十数年後にエドゥアール・マネが《草上の昼食》で、スキャンダルを巻き起こしています。
公的な展覧会の作品で、女性の腋毛が描かれたのはとても珍しく、後に画壇を揺るがす「写実主義」の萌芽を感じさせます。
しかしこの時は、とりたてて大きなスキャンダルになることはありませんでした。
当時の人が見れば、アリス・オジーを描いたものだということは、一目瞭然だったのでしょうが、アリスが虚構の世界を演じる舞台女優であり、また、芸術家のミューズとして現実離れした存在だったからでしょうか。
多くの著名人との恋愛で知られた奔放な美女と、公的注文も受けるようになった有望な画家の関係は、2年ほどで破綻したようです。
原因となったのは、一枚の絵でした。
※2 シャセリオー展―19 世紀フランス・ロマン主義の異才
テオドール・シャセリオー《16世紀スペイン女性の肖像の模写》1834-50年頃
個人コレクション
それが、こちらの作品《16世紀スペイン女性の肖像の模写》です。
シャセリオーは若いときに、エル・グレコにもとづく模写を描いて師のアングルに見せたところ、彼はとても気に入り「決して手放さないように」と弟子に約束させたそうです。
それ以来シャセリオーが大事にしていた作品が、上の絵ではないかと考えられています。
しかしあるとき、アリスは、シャセリオーが「エル・グレコの模写以外」なんでも選んでいいと言うなかで、どうしても上の作品がほしくなり、結局画家はアリスに渡してしまいます。
ところが、しばらくしてアリスがこの師匠と弟子との約束を茶化したために、シャセリオーは激怒。
自らナイフで画面を切りつけ、二度と彼女の家に戻ることはなかったといいます。
その後、作品はシャセリオーに返され、画家は絵を修復したようですが、2人の関係が戻ることはありませんでした。
後年、この作品を所有していた男爵は、絵見て涙を流す老いたアリスにこれを贈り、彼女によって作品はシャセリオー家に遺贈されました。
師アングルと決裂し、「ロマン主義」という新たな道を歩んだシャセリオーでしたが、自分がアングルの弟子であることは生涯自負していたそうです。
女性を陶器のような滑らかな肌で描いたアングルの弟子として出発しながら、そこに現代の感情やレアリスムを取り入れたシャセリオー。
彼は革新の火を燃やし尽くすことなく、突然の死を迎えてしまうのです。
参考:「シャセリオー展―19 世紀フランス・ロマン主義の異才」カタログ 発行:TBSテレビ
※1 テオドール・シャセリオー《泉のほとりで眠るニンフ》1850年
CNAP(アヴィニョン、カルヴェ美術館に寄託)
©Domaine public / Cnap /photo: Musée Calvet, Avignon, France
<展覧会情報>
「シャセリオー展―19世紀フランス・ロマン主義の異才」
2017年2月28日(火)~2017年5月28日(日)
会場:国立西洋美術館 (東京・上野)
開館時間:午前9時30分~午後5時30分
毎週金曜日:午前9時30分~午後8時
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし、3月20日、3月27日、5月1日は開館)、3月21日(火)
※ただし、3月20日(月・祝)、27日(月)は開室
展覧会サイト:http://www.tbs.co.jp/chasseriau-ten/
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