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スポット066 神社の行く末について     

20161206

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


現在、神社の存立が非常に危うくなっています。と、言うよりも、もう既に末端神社の壊滅が急速に進んでいる真っ只中と考えるべきでしょう。

 それは、年間2300社の未見の神社を訪問し、何度も足を運んでいる神社と併せ500社近い神社を実見している事から感じる事なのです。

 ある遭遇した知り合いの下級神官の某宮司が、68社兼務していたものを、最近、兼務神社が倍ほどに増えたと言って喜んでいたのですが、瞬間、“神職でありながらこの男は全く信用できない(同時に善悪の観念を持たない損得の感覚しかないさもしい人物”)と思ったものでした。

 それは、社殿の建て換え、修理、清掃、管理、地域(氏子)の維持には目が向かず、あがり=収入にだけ目が向いている事が容易に理解できたからです。

 まず、神社が投げ出されるにはそれなりの理由がある訳で、多くの神社が屋根の葺き替え、社殿の建て替え、その資金の捻出が氏子組織の壊滅状況によってほぼ絶望的になっているのであり、元々の管理神社の改修さえもできないのに、どう考えてもやって行けないと投げ出された行詰まった新規を抱え込むのですから、その引き受けた神社の存立など真面目に考えていないからこそ平然と引き受けられるのであり、目が収入の面にしか向いていない事は明らかだからです。


宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。


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この方(鵜飼 秀徳住職)は寺院を念頭にお書きのようですが、恵まれた都市型寺院とは異なる、経営基盤の弱い地方の弱小神社に至ってはこの危機はもっと深く、「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」といった状況を越え、恐らく十分の一しか生き残れず、存立できない神社が急速に出てくることになると考えています。



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少し、ネット上で拾って見ましょう。軽いところですが、…以下。


sp66-4 何で日本で、氏子が減少して神社が潰れそうになってるんですか?

氏子の数が減少して、経営難になるところが少なくないようです。

全国で5000を超す神社・仏閣が経営難で、やくざに狙われているようです。何故氏子は減少したのでしょうか。


神職をしています。

氏子の減少、と言うのは、過疎地域で見れば正しい(?)表現ですが、全国的にみれば人口の減少はまだ始まったばかりですので、この言葉は当てはまりません。厳密には、「氏子意識の希薄化」でしょうか。

そもそも神社の氏子数は、1つの神社の氏子地域に住む人を、ほとんどそのままカウントしています。例えば仏教徒であっても、新興宗教の信者であっても・・・。これが文部科学省の出す統計に、そのまま表れています。ちょっと「大本営発表」ですね。

昔はこれでよかったのかもしれませんが、今日では地域住民の神社に対する意識が変わりつつあります。昔(20年以上前)であれば、祭などの時に氏子地域に住む人は、祭の時に協賛としてお金を出してくれたものですが、今では理解を得るのが難しくなっています(「何でそんなもの払わなければいけないんだ」といった感じです)。元々善意で成り立っていたものですが、地域社会の崩壊と共に、その「善意」が少なくなり、昔のように、やっていけなくなった、というのが現状です。

これは「神職が専業でやっていけなくなった」というだけでなく、社殿等の設備の維持に問題をきたしてきています。これが、「神社が潰れそうな理由」です。例えば今もし大地震があり、地域の氏神神社の社殿が崩壊したら、修復費用が無くそのまま放置、と言うような事態になりかねないでしょう。それは先ほどの「なんで払わなければならないんだ」が理由です。

最初に述べた過疎地域はもっと切実で、例えば集団離村した地区の神社などは、存在そのものが忘れ去られている場合もあります。

結論的には、「神社離れ」が進んでいる、と言うことでしょう・・・。


衰退しゆく「伝統宗教」斎藤吉久

その数18万を超えるといわれる宗教法人が激減している。直接の原因は平成7年末の宗教法人法改正である。従来は宗教法人を「いじらない」「いじられない」状況下で、いったん法人格を取得すれば、何をやってもかまわない、というような実態があったが、役員名簿や財産目録などの提出を義務づける法改正で「休眠法人」が洗い出され、清算・解散が行われるようになった。きっかけはいうまでもなく「オウム事件」である。

といっても、文化庁の統計を見る限りでは、大きな変化は見られない。「宗教年鑑」に記載される神職や僧侶の数、氏子や信者数は各団体の自己申告に基づいていて、正確な実態をかならずしも反映していないからだ。また、神職が常住しない小さな神社が1宗教法人と数えられる一方で、公称世帯数812万の巨大な会員を擁する創価学会が1法人にすぎず、カトリック中央協議会は全国に813の教会がありながら包括する法人はゼロというのでは、宗教法人数で教派・教団の教勢を判断することは不可能だ。

けれども、水面下では日本の宗教史上、空前絶後ともいうべき大きな地殻変動が確実に進んでいる。神社神道や既成仏教などの伝統宗教は、よって立つ信仰基盤を失いつつある。民族宗教にとっては、紛れもなく「末法の時代」の到来である。


まず、神社とか寺院とかいったものは、現世救済という実利団体は別として、直接、民衆に対して、目先の利益とか物理的に役に立つものを提供する組織でありません。

しかし、列島に住む人々は、自らの食を削り、永きにわたって僧侶や神職を経済的に支えて来ました。

このため、僧侶や神職とか言った人々は民衆に養ってもらい民衆に食べさせてもらっていると言う自覚を持つ必要があり、要求はされないものの底流では清廉潔白な生き方をすることを求められているのです。 

それだけに僧侶や神職といったものは、間違ってもベンツを乗り回したり、パチンコに興じたりするのはもってのほかで、本来は、日々、学問に励み(それも真実を追求し民衆に伝える義務を負っているのであり、間違っても権力の手下として尾をふるような嘘学問のまねはできないのです)、清廉な生き方をし、最低でも氏子、広くは民衆と地域のために奉仕し続けなければならない責務をおっているものなのです。

このため、戦前の延長のような感覚で偉そうに氏子に過度の要求をしたり、教訓めいた事ことを言う宮司を見掛けますが、彼らが受け取る報酬とは、所詮、法的な裏付けがないもので、氏子、檀家と言ったものが精神的に離反したり、民衆自体が疲弊したりすれば、たちどころに生活の基盤を失うものなのです。

このため、生き残りのための競争が神社や寺院の間では静かに始まっているのです。

この事にいち早く気づき、民衆に真実を伝え、民衆に奉仕する神社や寺院が色々な試みを始め、民衆への働き掛けを始めているのです。

この事に早くから気付いているのは元々確立した檀家組織や氏子組織と言うものを持っていない仏教系神道系を問わず新興の宗教勢力は、無理に考えなくてもなくとも、自然と民衆と接触し、困窮し疲弊している民衆の救済のための意識を持ち、活動を始めているのです。

遅ればせとしても、寺院や神社に届けられるお賽銭やお布施の一部でも母子世帯に配るとか子供食堂にすら来ることが出来ない家庭への救済へと動くとか、パートに追われ子供や老人の世話ができない家庭へ寺院や神社を開放するとか、全国を放浪する学生や失業者に境内や宿坊を開放するとか、一般的な奉仕活動でも、とにかくそのような視点を持ち行動を開始しなければならないはずなのです。

偉そうなことを言う前に、ストリート・チルドレンとかマンホール・チルドレンとかフィリッピンのスモーキー・マウンテンの救済をしろとまでは言っていないのですが、そういった視点を持たない人間が凡そ神職を気取ってみても、既に、神社に対するシンパシーも存在価値も失った若い世代の民衆からは益々浮いた存在になっている中では民衆を食い潰し、最期まで寄生するする無価値な存在であり続ける事になるのです。

特に危機的なのは、戦前の反省とかから勝てもしない戦地に旗を振って送り込んだ神職のイメージから(例え人為的に戦争を引き起こそうとした英米の金融マフィアから嵌められた実質的な祖国防衛戦争=聖戦であったとしても、実際に権力の手先となって勝てもしない戦いの尻押し舞台になった神職が大半だったのですから)戦後は事実上の戦犯扱いとなり、神社も神様も民衆は教育も説明もされておらず、とうとう神職自体が基本的で初歩的な知識さえも持っていないのですから、民衆が何故神社を守らなければならないかさえ知っていないという極めて危うい構造になっているのです。

恐らくこれが「神職をしています。」氏が“結論的には、「神社離れ」が進んでいる、と言うことでしょう・・・。”と書いている部分なのです。

この点、最低でも骨を握り墓を抑えている寺院は良いとして、神社の方が事態は極めて深刻である事が分かって頂けたと思います。

既に注連縄を造れる氏子は十年どころか、後数年で消えてしまいます。

それどころか稲藁さえも手に入らなくなるでしょう。

昔は争って神輿を担ぎたいと集まってきた氏子は既に存在しません。

頼まなくてもせっせと参拝殿を掃除に集まってくる婦人会のおばさんたちも、生活のために65才を過ぎても僅かな金を稼ぐためにパートに出なければならず、床は埃だらけで、境内は落葉だらけになっています。

掻き入れ時の正月、七五三も、豊かな家庭だけが着飾り気取って参詣するだけで、参拝客が激減しお賽銭のあがりが激減している事は宮司ならずともご存じのはずです。

それどころか、寺院や神社に来てもお賽銭をあげる風習さえも消えつつあるのではないかと思うほど事態は深刻になっているのです。

こうしたなか、国宝とか指定文化財などになっていない神社や寺院は深刻で、戦後民主主義の中で、宗教法人のために国税が投入されることを禁じた国家([政府])と宗教の分離の原則憲法を恨む関係者は多いはずです。

まあ、前述のどこかのさもしい宮司(奇しくもK県K市K○○神社とク―・クルックス・クランの3K)は、増えた氏子をただの収入としか考えていないはずで、結局、社殿の閉鎖か統廃合といった形で、神社や氏子ではなく宮司家を守る方向でしか考えない事でしょう。

結局、投げ出した宮司と、これ幸いと引き受けた宮司のどちらが引き渡された氏子を大切に考えているかと言うと、きちんと維持しなければならないしそれができないから投げ出したのであって、どうにかなるだろうとこれ幸いと安易に引き受けた方がその氏子と神社を軽く考えている事は明らかで、いずれその結果を目撃する事になるでしょう。


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