363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居  | ひぼろぎ逍遥

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363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居 

20160629

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


2014年の秋でしたが、求菩提山手前の日吉神社の撮影を終え、翌日、中津市の手前にある吉富町に向かいました。古代史の世界ではかなり有名な八幡古表神社の例大祭があることを思い出したからです。

古代史に関心をお持ちの方ならどなたもご存じの、操り人形による「傀儡相撲」が奉納される吉富町の八幡古表神社(中津市の古要神社も同様の「傀儡相撲」が奉納されます)ですが、過去、何度か同社に訪れていますが、祭り(御神幸祭)を見るのは今回が初めてです。

しかし、有名な細男舞・神相撲(傀儡子舞)は、四年に一度オリンピックの年の夏に行われるだけで、今回は見ることはできません。そのうちに機会があれば見たいと思っています。

吉富町は中津市と豊前市の間の海岸部というより山国川河口の左岸にありますが、この古表神社も、一目、古代には島か岬だったようなところであり、神聖な沖合の島か岬に置かれたものだったように思えます。

今回、八幡古表宮を訪れた理由はお祭りもありますが、百嶋先生が言われていた「古表も古要も古いと置き換えてはいるものの、実は胡人の『胡』が本当なんです。…」という話を自分の目で実感するためでした。

そのことだけでも、豊前一帯が、かつて、新羅、伽耶から雪崩れ込んできた秦人(秦の支配を嫌って半島に逃げてきた多くの異族を含んでいた)の居留地であったことを思わせます。

つまり、表面上は豊予水道に展開した安曇系の海人族の神社には見えるものの、その祭神から分かる通り、その上に君臨していた神とは、実は四十柱神(古表大明神)であり、さらにその上に聳えていた九州の王権の痕跡を探ることでした。


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八幡古表神社の裏参道の大鳥居(瀛の鳥居) カーナビ検索 福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1


 御祭神 息長帯姫尊 虚空津比売命(神功皇后の妹豊姫) 


朝7時半には着いていたと思いますが、豊前から中津方面に向かったことから裏から入ることになりました。普通はこのような場合でも表に回って境内に入ることにしていますが、早速、胡人の痕跡を発見したことからそのまま入内することにしました。

 直ぐにはお分かりにならないと思いますが、百嶋先生から聴かされていた殷(中国殷イン王朝)の鳥居が目に飛び込んで来たのでした。

 この形式の鳥居はたまに目にするものです。

小馬鹿にされそうですが、ユダヤ・イスラエル系と言うより、はっきりイスラエル系と言いたいのですが、私が住む佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式もこれに該当します。

 厳島神社の鳥居は縦に支えとなっていますが、それと異なり横向きに広がる鳥居の形式がこれなのです。

 裏参道を少し入ると、元宮ではないのですが(元宮は各々別のところにあったはずです)、古い古表宮がそのまま残されていました。ご覧のとおり、ここにも殷の鳥居があるのです。これで、この鳥居が思い付きで造られたものではなく、古くからの伝統を持つ形式であったことが分かるのです。


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左は古表神社の殷の鳥居、右も佐賀県嬉野市谷所の八天神社の殷の鳥居(瀛の鳥居)です


 両方の鳥居に共通しているのは鳥居上部の浮き袋状の丸い輪ですが、これは、彦山山岳修験の特徴であり、ここにもその影響が認められます。境内でも参拝殿の外側では早くも御神幸の準備がたけなわでした。多くの山車の周りを揃いの法被を着込んだ数百人の氏子が、“今や遅し”と出番を待っていました。過去、二、三度訪れた時は、殆ど場所を確認した程度の事で落ち着いて見ることが出来なかったのですが、今回は今日一日のメインのテーマと心づもりしていましたので、いろんなものが見えてきました。


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この古表、古要の二社についてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、まだ調査中です。

 一般的に「胡人」とは古くはシルクロードのソグド商人を、後にはペルシャ人一般まで胡人とされます。

 この延長上に、数社ある飯塚市の許斐神社が「このみや」と呼ばれている事を考えていますが、今回は、殷の鳥居(瀛の鳥居)をご紹介するに留めます。