釈迦も空海も人.115【「人を殺してみたかった」】 | ロバ耳ブログ 

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現代人が普通の幸せをえるのは難しい。だけどそれを、一つの社会的な指標にすることは大切な事だと思います。社会的な規範や基準となるもが無くなってしまえば、もう何でもありになります。
そういう規範を見失った社会には、退廃が蔓延し、人々は虚無感のなかで、その時その時の快楽を求めて生きるようになるでしょう。
刹那主義と言って、リースマンの『孤独な群集』の中にそう書かれています。半分しか読んでませんけど(苦笑)


こういう事態に陥ると、社会はバランスを崩したまま、構成員をどんどん不幸に陥れてしまうでしょうね。そしてそういうところに限って、我こそが幸せへの道だと主張する宗教が口を開けて待っているのです。
むしろ社会のバランスを積極的に壊し、信者を獲得しようとする嫌いまで垣間見えるくらいです。

このような宗教に飲みこれない為に、では何が必要か。それは教育でしょうね、やはり。繰り返しになりますが、どういう世界観を共有するのかが、社会にとって極めて大事なわけです。
もちろん宗教=悪なのではありません。これが、肉体的精神的、社会的な個人の成長のバランスを取れない社会の処方箋として発展したのであれば、ある意味でなくてはならないものです。
しかしナイチンゲールのように、死ぬ間際に「私には神の声が聞こえなかった」と悩みを漏らすような事になっているのでは、処方箋として不完全だと言う事です。最近やっと、カトリック教会がイルミナティに数百年間乗っ取られていたと自覚しだしたようで、まあこれからの話ですね、この辺は。
もっと問題なのは、そんな受け皿にも乗らない世相ですね。人殺しも人の救済だとするカルトは論外ですが、「人を殺して見たかった」といった外れ方をする者が現れてしまう。
現代日本社会の病理は、かなり深刻なレベルに来ています。
まぁ普通の幸せ追求から、個人が外れ易い社会が病理を生み出すのだとしても、自分の思いを成就させる方向性が、破壊的な方向に行くことは本当に深刻です。
このような敵対的性格が生まれるのは、いかに個人が社会的に切り離された存在になってしまっているか、の指標になるでしょう。この辺でいい加減に社会のあり方を考え直して行かないと、後々厄介な事になるかも知れません。
今の十代がもの凄い時間をネットで過ごしています。これはヤバいでしょうね‥。虐待の発表件数も増加の一途。
恐ろしく社会から切り離された子供が、爆発的に増加しています。