ふるふワールド

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映画が3割、残りはノンジャンル
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インスタやツイッターで場所を載せている猫スポットから

複数の猫を捕まえてきて

自宅で熱湯をかける

ペンチで歯を抜く

ガスバーナーで焼き殺:す

虐・殺動画をネットに上げる

 

妊娠していた母猫がお腹の子供を守るために、熱湯を浴びせられながら決してお腹をみせずに子供もろとも死・んだはなし。現場を見たわけじゃないけど話を聞いただけでもやりきれなくなる

 

大矢誠、、今は妻の苗字で岩野誠

夫婦で里親募集に申し込み??

まだ殺し足りないのか??!! 

まったく反省のかけらもないサイコパス、鬼畜 

執行猶予4年はすでに去年12月で終わっている!

悪魔を野放し 

改正動物愛護法も生ぬるい!

 

 

逮捕後も虐殺動画は拡散されて海外にも流れている 

治療できない、治らないからサイコパス 

人間の面の皮を被った悪魔 

こんなやつが社会に野放しになっている!!

 

SNSでむやみに猫スポットの場所を載せるとこういうキ✘ガイのターゲットになることを考えてほしい

 

http://instagram.com/p/CESDCu0nH16/ 

母猫の虐殺について上がっていたアニメーション動画でもキツイけど、実際の虐殺動画は見るに堪えない

 

 

 

前回、水俣病資料館がコロナ渦で休業中だったがエコパーク水俣(水俣市広域公園)だけでも見てみようと思い足を運んだのだが、資料館の敷地内にあると思われた水俣病慰霊碑が見つからなかった。今回、資料館が開館したのを機にもう一度水俣へ。資料館に入るや否や職員に慰霊碑の場所を確認した。この敷地内にないはずでそこから結構離れた海沿いに慰霊碑はあった。

 

 

 

 

『不知火の海に在るすべての御霊よ 

 二度とこの悲劇は繰り返しません

 安らかにお眠りください』

 

 

最初に犠牲になったのは魚、エビ、タコ、牡蠣などの海の生き物

そしてカラスや海鳥

猫や水銀汚染の残飯を食べたブタやニワトリ

そして人間、、

多くの者たちが犠牲になった

 

慰霊碑の言葉はシンプルだがこれ以上の鎮魂の言葉はないだろう

 

 

最後にある人が水俣の友に贈った句でこの長い長いシリーズを終わりにする

 

「水俣の生命の花に朝の露」

「水銀の苦海の彼方は虹の華」

 

 

 

 

「猫実験」、、このテーマは時系列からいくともう少し前に書こうと思っていたものの、犠牲になった猫たちのことを考えると気が重く、なかなか調べる気にならなかった。とはいえ今回水俣まで行ったきっかけ、水俣病を調べるきっかけとなったのが「猫の墓」だ。「猫実験」という重いテーマはどうしても避けては通れない。

 

 

水俣病の公式確認のあった昭和31年(1956年)から熊本大学医学部の水俣病研究班や伊藤蓮雄・水俣保健所長は、水俣湾産の魚介類をネコに食べさせる実験を行い、伊藤氏は翌年に実験の結果、水俣病と同じ症状を猫が起こすことを突き止めた。

昭和34年(1959年)には熊本大学医学部の水俣病研究班は、水俣病の原因は「有機水銀化合物」と発表した。これによって、「チッソ」の工場排水が疑われ始めた。チッソ側はこの熊本大学の発表に強く反論。「水俣病の原因はチッソ工場の排水ではない」ことを証明する目的で行なわれたのが、チッソ附属病院の院長・細川一(はじめ)氏らによる猫実験だった。

 

チッソの技術部とチッソ附属病院が中心となり、猫に様々な餌を与えて実験を繰り返していた。昭和32年頃に始まった実験に使われた猫は、838匹。その中で、チッソの工場排水・百間排水口の廃液を餌にかけて与えたネコ374号は、1959(昭和34)年9月28日にネコ水俣病を発症した。

さらに、チッソの廃液中、アセトアルデヒド工場から排出される廃液を餌にかけて与えたネコ400号が同じ年の10月6~7日頃にネコ水俣病を発症、もう一つの塩化ビニール工場の廃液を餌にかけて与えたネコは発症しなかった。ネコ400号の解剖の結果も、ネコ水俣病であることを示していた。

チッソは、自社工場から排出される廃液が水俣病の原因であることを確定的に知った。だが、チッソ内の研究班会議では、猫実験を含む新たな研究はしないことになった。細川氏は猫実験の継続を訴えたが、会社側から禁止された。また、廃液の採取も拒否されるようになった。

チッソは、自社の工場廃液が原因であることを知りつつ、その実験結果を隠蔽し、虚偽の報告で熊本大学の原因究明を妨害。自社のアセトアルデヒド製造工場を増産させ続けた。細川氏らのネコ400号の実験から約9年後の1968(昭和43)年5月まで垂れ流し続けた。

 

 

 

細川氏は、自分たちが行なった猫実験によって、自社の工場排水が水俣病の原因が知ったにも関わらず、会社側の命令で実験そのものを隠蔽させられる。苦しんでいる多くの水俣病患者たちを診断した医師の立場と、責任逃れをもくろむ会社側との板バサミで苦悩したそうだ。患者らがチッソに損害賠償を求めて69年に提訴した第1次訴訟の際には、肺ガンでの入院中に熊本水俣病裁判出張尋問で、当時のチッソ社内研究について証言し、「猫400号実験」の結果について会社側(技術部)も知っていたと証言。当時のメモを提出した。

これによって、当時、実験が行なわれたことも、1959年の時点でチッソ側が「排液が原因である」ってことを認識した上で隠蔽工作してたことが明るみになる

1973年3月20日、熊本地方裁判所で「チッソは水俣病の原因が有機水銀と認識しながら工場排水を流していたという過失責任がある」として患者側勝訴の判決が出る。

 

 

細川院長の補足

 

1960年8月27日、会社側に禁止されていたアセトアルデヒド排水直接投入猫実験(いわゆるHI実験)をひそかに細川氏が再開、翌1961年全9例の猫の発症を確認したが公開されることはなかった

細川氏は、チッソ附属病院の院長に就任した時に、会社側から立派な院長室を作ろうっていう話があった時、「そんなお金があるのなら、診察室や病室を1つでも多く作って欲しい」とずっと断り続けていた。

何ともやり切れないのは水俣病の原因究明のために犠牲になった猫たちの命が、チッソの隠蔽により無駄になってしまったことだ

 

ちなみに、このHI実験された9匹の猫のうちの1匹、「猫717号」のホルマリン漬けの標本は、細川氏がチッソ付属病院を退職した時に自宅に持ちかえり、昭和43年(1968年)に、政府が公式見解として「水俣病の原因は水銀である」って発表した時に、水俣病の被害者たちを助けるために標本を利用して欲しいと熊本大学医学部の教授に送っている。そして、細川氏は、自らが証言した水俣病裁判の結果を知ることもなく、肺ガンのため、69才の生涯を閉じた

 

 

 

「猫400号」の猫実験

 

毎日、20ミリリットルの排液をエサに混ぜて食べさせた実験。3ヶ月後には猫400号はよだれを垂らし歩行困難になり、人間の水俣病患者に酷似した症状を発症した。細川氏がその事実を会社側に報告したが、会社側は「たった1例の実験だけでは、排液が原因だとは言えない」として、この実験結果を公表しないように命令して、事実を隠蔽する

 

 

ネコ実験小屋

当時、院長だった細川氏のチッソ附属病院で水俣病の原因究明のための実験に使用されていたもの

付属病院から譲り受けていたチッソ従業員から相思社が寄贈を受け、相思社の水俣病歴史考証館に展示されている

 

 

 

 

猫の墓

水俣病を実証するための実験で800匹以上の猫が犠牲となった。その猫たちを弔う墓。昭和50年4月建立とある

 

 

 

【次回、最終回】

 

前回はコロナ感染拡大によるまん延防止法で残念ながら水俣病資料館は閉館中だったが、開館になったのを機にもう一度訪れてみた。館内の展示物を見て水俣病患者の施設関連で「明水園」「水俣ほたるの家」「ほっとはうす」があるのを知った。

 

 

水俣市立明水園

 

水俣病患者の方々の療養施設として昭和47(1972)年12月に水俣市複合施設明水園として開設され、以降水俣病認定患者対応の施設となっている。

設立当初は、重症心身障害児(者)施設と重度身体障害者授産施設だったが、で障がいの重度化により昭和52(1977)年に授産施設を廃止。現在では、定員が65人となり入所者の健康保持、医療、看護、介護、リハビリテーション、日常生活援助などを行っている。

 

 

 

共同作業所「ほっとはうす」(社会福祉法人)

1998 年 11 月 活動開始 

喫茶コーナーの営業、押し花、ポプリなどの自主製品の製造・販売などを行っている。利用者11 名(胎児・小児性水俣病患者 9 名その他 2 名) 

胎児性水俣病患者などが通う共同作業所であり、市民と交流しながら患者の生活のサポートや、水俣病問題について啓発活動を行っている。水俣病患者が直接子どもたちと接し生の声を届けることで、この問題に対する理解と啓発を効果的に行っている。

団体の目的 ・障がいを持つ人が働き、出会い、交流する場 ・障がいを持つ人が広く社会に関わることを大切にする ・障がいの種別や程度にとらわれない、誰でも参加できる地域に解放されている場 ・どんなに障がいが重くても、地域に暮らし続ける意志を支え、応援する ・水俣病事件を語り伝える

ボランティアとして地元高校生、県内の大学生、小学校教師、福祉施設・病院職員、市内の主婦や小学生なども参加している

 

 

(熊本県NPO法人 水俣病協働センター (水俣ほたるの家)

2007年11月に定款に記載されたNPO法人。水俣病被害者の人権と権利を守り、医療、福祉、生活に係わる諸問題に協働で取り組むとともに、被害の全容解明と被害補償に取り組む。また、加害責任の検証を行い、その教訓を伝え、産業公害等の被害者らと協力して、その権利回復と公害廃絶の活動に寄与することを目的とする。

(※ネット上で調べてみたものの情報が少なくメンバーは約10名、公害認定訴訟でも患者に寄り添いともに戦っているようだ)

 

 

 

石川さゆりさん「水俣病終わってない」 ~ 

38年続く交流(2017年朝日新聞デジタルより)

 

演歌歌手の石川さゆりさんは今年、38年ぶりに(2017年時点)熊本県水俣市のステージに立った。還暦を迎えた水俣病胎児性患者との再会を喜び、「きれいになった海と街」を見た。流れる月日の中で変わり行くもの、いつまでも心にとどめなければいけないこと。5月1日の公式確認61年を前に、水俣病について石川さんが語った。

胎児性患者さんらは、熊本出身で年の近い石川さんを水俣に招いてのコンサートを企画し、1978年に実現させた。前年に「津軽海峡・冬景色」のヒットがあった。石川さんは療養施設も訪れ、重度の胎児性患者らと対面した。

 

「学校で『4大公害病』の一つとして水俣病を学んでいたけれど、実際に患者の皆さんに会った時、ただただショックでした。自分の意思と関係なく、自由を奪われて暮らさなければいけない。いったいどうしてこんなことになったんだろう、と」

 

大成功に終わったコンサートの後も手紙のやり取りなど交流は続いた。2010年、コンサートを記録した映画の上映会が水俣市であった際も、石川さんは駆けつけた。そして今年2月、還暦を迎えた患者たちは「生きてきた証しに」と再び石川さんを水俣に迎え、コンサートを開いた。患者代表の男性は「これからも人生は続く。石川さんの歌、力を貸してくれる皆さまの思いが生きる力になる」と満員の会場で感謝を表した。

 

石川:「車イスに乗るようになったり、話すことが以前より難しくなったりした人もいた。患者さんや家族は一生闘って過ごしている。本当に困難な大変な日を重ねたと思うけど、心はたくましく健やかに過ごされたんだ、とごあいさつを聞いて感じました」

 

1978年当時の水俣での石川さゆりコンサートの際の患者との交流

 

 

石原慎太郎と石川さゆり

 

石原慎太郎氏は77年4月、環境庁長官として水俣市の患者療養施設を訪問した。自立を願っていた胎児性患者らは手紙を書き、「仕事がしたい」と石原さんに要望。ただ、受け取った石原さんが胎児性患者らを侮辱したような発言をしたと聞き、胎児性患者の坂本しのぶさん(65)=水俣市=たちは偏見があると感じたという。

 

石原慎太郎氏:『いま(明水園で)会った患者さんたちもかなりIQが低いわけですね。この手紙は非常にしっかりした文章というか、あるタイプの文章に見えますけど、これはやっぱり彼女たちが書いたんですかね』

 

坂本さんらは、熊本市に滞在していた石原さんに直接抗議。78年1月、石原さんは水俣市を再訪して謝罪の意を示した。

 

              土下座で患者らに謝罪する石原慎太郎氏

 

 

石原氏の謝罪の際、患者側は歌手の石川さゆりさんを「水俣に呼びたい」と提案。石原さんや故原田正純医師らの支援を受け、患者たちは石川さんのコンサートを実現させた。

石川さんの水俣公演を提案した胎児性患者の滝下昌文さん(65)=水俣市=は「石原さんとの面会は思い出深い。コンサートのことは今も感謝している。亡くなったと聞き、一つの時代が終わったと感じる」と感慨深げに話した

 

 

38年ぶりのステージで熱唱する石川さゆりさん=2017年2月11日、熊本県水俣市