断片的な情報をいくつか目にして、それがひとつのビジョンを作り出そうとしているのが見えるような気がしていますが、まだ明確なビジョンになりきれていない気もします。

 

ひとつの材料は、70歳以上の人がスーパー・マーケットで70歳以上に見える人が、体の痛みをこらえながら仕事をしているのを見かけるという話です。

 

これと同じ光景を僕はマイケル・ムーアさんの映画で見たことがありますが、それは多分10年以上前だったと思います。アメリカで起きていたことが少し遅れて日本でも起きているということだと思います。

 

このまま行けば、貧富の格差が拡大しているアメリカと同じように日本もなる、ということは、ある程度の広がりを持って、10年前の日本で理解されていたと思うのですが、全体として見れば、日本に暮らす人たちが、あまり実効性のある動きをできなかったということじゃないかと思います。

 

僕も、社会をあるべき姿に戻すために、ほとんど何もできなかったような気がしています。努力が足りなかったということもあるでしょうし、努力を注ぎ込む方向性が間違っていたということもあるでしょう。

 

広域の状況を好転させられることが一番ですが、それができなくても狭い範囲で状況を好転させられればいいし、それが無理でも最後まで粘り強く活動していくための基盤が作れていても良かったと思いますが、僕の場合は何もできなかった気がします。

 

10年あげるからあがいてみせな、という課題の出し方は、ビデオ・ゲームではよくあるものだと思いますが、現実の僕のチャレンジは失敗だったので、リトライしたいところですが、現実にはリトライの仕組みはありません。

 

またゲームではクリアできるように、さまざまなサポートが用意されていますが、現実にはそれが必ず用意されているとは限りません。無視する人や妨害する人がいます。意気消沈させることを言う人や、馬鹿にしたり笑いものにしたりする人がいます。それは実際問題、ゲームの条件であり、今の世界の背景にあるものなので、それを前提とした上でどこまでやれるのかというゲームになっています。

 

自分が定めた方向性が、間違った方向を向いているとか、先に進んでも実りのない方向を向いている場合は、無視されたり、笑われたり、注意されたり、突き放されたりしても仕方がないと言えます。しかし仮に正しい方向を向いていたとしても、同じ目に遭うことが往々にしてあるので、その前提でどこまでやれるかというゲームになっているのだろうと思われます。

 

実感としては、日々たゆまず努力することも難しいことではありますが、方向性を定めることも困難だと感じます。大きな方向を定めることも難しいですし、状況に応じて微修正する時にも、何が正しいのかわからなくなることが多いように思います。

 

それで誰かがアドバイスをくれると助かるだろうとは思うのですが、全員が善意の人であったり、人にアドバイスできる人であるとは限らないので、誰かに関わってもらうと余計にややこしくなることもあります。

 

多分、人との出会いに恵まれている人でも、ある面では助けてもらえる人でも、別の面で迷惑をかけられる、みたいなことになっているんじゃないでしょうか。

 

追い風の中を進めるわけではなくて、妨害や逆風の中を進まなければならないために、なかなか人生の事業はうまくいかないということかもしれません。

 

それから、自民党に対する評価が地に落ちてきていて、はもう末期状態だ、政権を任せられるような状態でない、今やただの反社会的集団だ、解体するべきだ、というような、厳しい評価になってきているのを見ます。

 

僕の感覚でも、民主党政権の方が良かったじゃないかという評価になってきています。以前は、民主党はひどい、民主党には任せておけないという論があって、いや自民党よりましだという考えの人も、うまく反論できない時期があったと思いますが、今では自民党がひどすぎて、それに比べたら民主党の方がましに見える感じになっているかもしれません。

 

自分たちがコントロールできるお金は、公金であっても、自分たちの選挙に注ぎ込むということは、内部の事情を知る人が以前から少しは告発していたことだと思います。桜を見る会の事件も、そんな中のひとつだったと思います。

 

以前との違いは、自民党は悪いこともするけど、国民のためにいいこともしているのだろうという信頼があったのが、最近の動きを見ていて、徹頭徹尾、自分たちの利益しか考えていないことが明らかになった、ということかもしれません。

 

感染症の流行とか地震災害とか物価高とか国民に困ったことがあっても何もしないで、オリンピックとか万博とか観光旅行への助成などを行っているのを見て、どんどん増税を行っているのを見ると、一般国民から利益を吸い上げて少数の人たちが着服しているビジョンが見えてきたということかもしれません。

 

もしかすると経済学の議論では、自民党はサプライサイドを重視して、社会主義政党や人権主義政党はディマンドサイドを重視するという対立があるということかもしれません。しかし露骨に公金の着服をしている人たちを見ると、ディマンドサイドを優遇して社会を発展させようとしているというふうには見えず、単に泥棒が巣食っているとしか見えなくなってきているのかもしれません。

 

自民党なんかダメだ、政権を委ねてはいけないということは、第二次安倍政権が誕生する前から、わかっていた人がいたと思いますが、その考えが正しいことを証明するのに、かなり時間がかかってしまった、ということかもしれません。

 

そしてまだそのことに気が付いていない人もいるので、まだ自民党政権は終わりには至っていないのかもしれません。内情を見ると、もう政党としては見られない、反社会的集団としか見えない、ということになっているかもしれませんが、そのことに気が付いていない人が大勢いる間は、形の上ではまだ自民党政権が続くということかもしれません。

 

自民党が信用を失ってもまだ維新がある日本保守党があるという状況も続いているので、まだ一時代の終わりには至っていないということかもしれません。