今、私は同志と共に、「レインボーになれなかった人のために」というコミュニティ作り、というかプロジェクトの様なものを始め、11月6日には第0回の開催を予定しています。
拠点はは恵比寿。
スローガン的なものをあげるならば、「レインボーからカラフルへ」です。
詳細は、mobile.twitter.everyoneisally
のアカウントを見ていただけるとありがたいです。

立ち上げから、実はまだ2週間と少し、という衝撃的な短さですが、この約2週間は、私にとっては、時空を軽く飛び越える位の偶然の連鎖や、愛ある後押し(拡散して下さった方々、感謝です!)に満ち満ちたものでした。アクションをいざおこして見ると、自分の想像を遥かに超える時間軸では計れないこと、というのは起きるものなんだな、と感じています。何事も、きっかけは大切だと実感しています。
(同志との出会いについては、以前のブログに書きました)   

今回は、私達が一体何を考え、どんな描きたい未来を持っているか、について書いていこうと思います。

発端は、バイセクシャルのコミュニティってあまりないよね、という会話から始まりました。けれど、私達には自分がバイセクシャルであるか否か、そのものに懐疑的な部分も持っています。
とはいえ、自分のセクシャリティに明確な答えを求めてもいなく、とても曖昧、と言いますか。
そんな自分に居心地のよさも悪さも感じていたりもします。ただ、その「曖昧さ」を「ネガティヴに感じ、捉えていないこと」、が、最も大きな私達の共通項なのかもしれません。
むしろ、曖昧で当たり前、というか、ゆらゆらしているのが自然、人って流動体なんじゃないかな、と言いましょうか。

極端に言えば、自分で自分の事を笑えてしまう様な感覚で、自分のセクシャリティを含め、自分自身を捉えています。それは、あくまでも自分、という存在の中でセクシャリティは、あくまでも構成要素の内の1要素と捉えているからかもしれません。
かといって、セクシャリティについて考えたり悩んだりする事を放棄している訳ではありません。

答えの出ないグレーな問いを考えたり悩んだり、知識を得ることの「プロセス」を常に大切にしているからこそ、前述した自分で自分を笑えたり、曖昧さを包括できる、という今、に至っていると思っています。
とはいえ、今でも、答えは、出ていないし、何が正解か、は、わかりません。だから、問い、考え続けたい。そう思っています。
そして、その「プロセス」の中での小さな気付きや、なるほど!、の蓄積の先に見えるものが、自分自身の肯定、並びに、まわりに対しては、おたがいさま、な気持ちの自然発生に繋がるといいな、とも思っています。

ただ、1人で考えていると、ぐるぐるとしたスパイラルに入りがちなので、やはり、「対話」や
「交流」が、「プロセス」には欠かせないものだと思っています。
そこで、私達は、(自分達の為にもかもしれません)セクシャリティを切り口に多様性を考える対話と交流の場、を作る事にしました。セクシャリティ、はあくまでも切り口です。なかなかとっつきにくい切り口かもしれませんが、自分のセクシャリティやLGBTsに対して、居場所のなさや、曖昧さを抱えている人もいるんじゃないかな、と思っています。そこを起点に、他の事象も含め、多様性って何だろう?とか、違和感って何だろう?、それぞれにとって、何が曖昧なんだろう?など、話が飛びに飛んでいけたらいいな、とも思っています。

そして、レインボーからカラフルへ。 
原色だけじゃなく、モノクロ、蛍光色、同系色でも千変万化。内包する色は色味も数も人それぞれ。その交わりの中で、色が変化したり、しなかったり、何も混ざり合わない真っ白な部分もあるかもしれない。そして、自分の中のカラフルとだれかのカラフルが混ざり合う事で、更に色を変えたり、思わぬ色ができたり。レインボーになれなかったらカラフルでいいじゃない!、そんな思いから、「レインボーからカラフルへ」というスローガン的なものは生まれました。まるで、言葉遊びに聞こえそうですが、そんなカラフルな未来を私達は真剣に描いています。

最後に思い出したことを。堀潤さんと恵比寿新聞さんが主催の、伝える人になろう講座、に初めて行った時。スマートフォンのカメラの部分に自分の親指を当ててシャッターを押してみて下さい、と言われました。実際に撮ると一面に赤、が写し出されます。けれど、まわりの方々と自分の、赤、を比べてみると明るさも色味もそれぞれが微妙に違うんです。もし、興味を持たれた方は是非試みてみて下さい。まわりの誰かと比べてみると面白いですよ。