「稲荷山鉄剣銘」が明かすワニノ臣(後の春日臣)の実像(7)
[21]第5代タサキワケは伊佐知直(いさちのあたひ)と同一人物
(1)第5代タサキワケは、済(ホムタマワカ)時代の「杖刀人首(軍総司令官)」として、父タカハシワケと同じく、難波(後の摂津国)に居住したとみられる。タサキワケのタサキは「タ(大)・サキ(城・城邑)」で、本貫のワニ=高橋の城邑を意味するのであろう。
(2)「孝元紀」7年(紀元前208年。癸巳年)条には、大彦命を始祖とする阿部臣などの7氏族がみえるが、その中に膳臣と狭狭城山君(ささきやまのきみ)がみえる。狭狭城山君のササキは、タサキワケのタサキが訛ったものとみられる。
(3)『新撰姓氏録』によれば、
・左京皇別上、佐々貴山公(ささきやまきみ)の条には「阿部朝臣と同じき祖」とあり、
・摂津国皇別、高橋朝臣の条に「阿部朝臣と同じき祖。大彦命の後なり。日本紀に見えず」
・次の佐々貴山公(ささきやまきみ)の条に「上に同じ」とみえる。
(4)つまり、『日本書紀』は、タカハシワケとタサキワケが父子の関係にあることを隠すために、
膳臣すなわち高橋朝臣と
狭狭城山君すなわち佐々貴山君(公)
という別個の氏族として記録しているのである。
タサキワケの傍系の子孫は難波から近江に進出し、近江の狭狭城山君・佐々貴山君の祖となったとみられる。
(5)477年に応神(昆支・武)の即位に反対して反乱を起こした時、敗れたオシクマ王とともに自殺した「吉師(きし)の祖五十狭芧(いさち)宿禰」(日本書紀)=「吉師部(きしべ)の祖伊佐比(いさひ)宿禰」(古事記)は、
(イ)吉師・吉師部が『新撰姓氏録』に大彦命を祖とする難波吉士・吉志などがみえることと、
(ロ)イサチ=イサヒが「イ(大)・サキ(城・城邑)」と同義とみられることから、
タサキワケと同一人物とみられる。
藤原不比等がタサキワケ=イサチノ宿禰の実像を隠すために、同一人物を敵・味方に分かれて戦うことにしたと考えられる。
(6)『先代旧事本紀』国造本紀によれば、
①无邪志(むさし。武蔵)国造条には、
志賀高穴穂朝世、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命十世の孫、兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定め賜ふ。とあり、
②胸刺(むなさし。武蔵)国造条には、
岐閉国造の祖、兄多毛比命(えたもひのみこと)の児、伊佐知直(いさちのあたい)を国造に定め賜ふ。とある。
「兄多毛比」は、
『高橋氏文』に「无邪志(むさし)国造の上祖大多毛比(おほたもひ。大伴部)」とあり、
「伊佐知直」は、
五十狭芧宿禰=タサキワケと同一人物で、父「兄多毛比命」と同じく「武蔵国造の上祖」とみられるので、
「伊佐知直=タサキワケ」の父「兄多毛比」が
「无邪志国造の上祖大多毛比(おほたもひ。大伴部)」=タカハシワケ
であることが分かる。
(7)タサキワケのワケの尊称が無くなり伊佐知直(いさちのあたい)とされている理由の一つは、442年に珍(ワカキニイリヒコ)が死亡した直後、珍(ワカキニイリヒコ)の王子和訶奴気(わかぬけ)王(『古事記』)=大江王(『古事記』)=彦人大兄(『日本書紀』)が、既に珍(ワカキニイリヒコ)の後継者と決まっていた済(ホムダマワカ)と争った時、「杖刀人首(軍総司令官)」タサキワケが済(ホムダマワカ)に味方して彦人大兄を殺したが、彦人大兄が中臣(藤原)氏・物部氏の祖オシクマ王の祖父であるところから、藤原不比等に恨まれていたためとみられる。