ノンフィクション 古賀正紘 1 | All or nothing
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この記事はWEB限定らしいんで(・∀・)ノ

あんま出回ってないと思います☆。

興味ない人からしたら、よくわかんない記事だとは思うけど

オレみたいなジュビロ磐田サポやサッカー好きな人ならきっと興味を持つだろう記事なんで挙げます(・∀・)♪

ファイト古賀様!!

いい記事だなー・°・(ノД`)・°・











「移籍先を探してほしい」と、代理人に告げた

2010年5月、柏。彼の焦慮(しょうりょ)は深まるばかりだった。


<なぜ、こんなことになったのか?>

柏レイソルで4年目の彼は、何度もその経緯を反芻(はんすう)した。

当初、ネルシーニョ監督との関係は良好だった。
昨シーズン途中でやって来たブラジル人指揮官は自分を高く評価し、先発で起用した。
2試合目で足首を負傷し、その後はリハビリで戦列復帰が遅れたにもかかわらず、「お前の力が必要だ」と声を掛けられるほどだった。翌シーズン前のキャンプで痛みが再発した時も、「何とかして開幕に間に合わせてくれ」と監督から懇願された。


<評価されるのはありがたいことだ。でも、ボールを触るどころか、歩くだけでずきずき痛い。どうにかならないものか>

彼はせめぎあう気持ちと戦いながら、極力ネルシーニョの要求に応えようとした。

実は前に所属した名古屋グランパスエイト時代は先発メンバーから外され、煮え湯を飲まされただけに、不安や怖さがないわけではなかった。
何より、そこまで自分を必要としてくれる期待に応えたかったし、懸命に調整に励んだ。

開幕戦では、「ベンチにいるだけでいいから」と言われてメンバー入りした。
選手冥利に尽きる“特別扱い”だったが、試合に出られない自分がベンチに座ることは、可能性のあるチームメイトに対して面映ゆく、申し訳なく感じた。その心苦しさに、彼は耐えられなかった。


<万全の状態になるまで待ってもらおう>

第2節を前に、彼は意を決して監督室に赴き、別メニューを提案した。ポルトガル語の通訳を介し、誤解されないよう、信頼への感謝も込めて、言葉を尽くして気持ちを伝えたつもりだった。

「おまえはもういいよ」

しかし、返ってきた声の響きは冷たかった。もっと婉曲な言い回しだった記憶もあるが、その時の彼には関係が断たれたかのように聞こえた。
一瞬、後悔の念が胸に込み上げ、心が萎えそうになった。

その日以来、彼はまず足首の回復に努めた。


<ケガが完治すれば、監督の信頼を取り戻せる>

そんな自信があったからだ。数週間経つと、次第に痛みは引き、練習参加も可能な状態になった。

しかし、全体練習の参加は禁じられた。隅っこで若手やリハビリ組と別メニューの毎日。
紅白戦にすら出場できず、試合勘の衰えに怖さを覚えた。朝の練習前に挨拶をしても、監督は目も合わせてくれなかった。まるで飼い殺し扱いだ。
3年以上暮らした柏という町に対する愛着は強かったが、このままではダメになる、という焦りが奔流のように押し寄せた。


<忍耐だ。柏には恩もある。我慢して続けていれば何かが起きる>

彼は自分の心に鞭(むち)を打ち続けた。だが事態は変わらず、戸惑いの数ヵ月が過ぎていった。
しかし南アフリカW杯の短いオフを前に、同ポジションの選手が累積警告で出場停止となった試合で、キャリアの浅い若手選手がベンチに入ったときだ。どこか悟ったような気持ちになった。


<サッカー選手はピッチに立つことがすべて。腹を括(くく)るべきだ>

携帯電話の電話帳で代理人の名前を探し、「移籍先を探して欲しい」と告げた。
どこであろうと、移籍先は構わなかった。働き盛りのプロサッカー選手として、従容として降参するわけにいかない。どんな苦境であれ、戦える場所になら飛び込む覚悟だった。

それでも、4才になる娘の優咲(ゆら)のことを思うと、恨めしい気持ちに苛まれた。


<今の幼稚園、大好きなんだよな。“もう行けない”と言ったらきっと泣くだろうな。なんて話したらいいんだろ>

彼は困り顔で思案を巡らし、言い訳を探した。

☆続く☆