平野啓一郎『決壊』 | 文学どうでしょう

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平野啓一郎『決壊』(上下、新潮文庫)を読みました。

まず初めに。反省してるんです! 反省して、実際に記事をアップするかどうか迷いました。でも折角書いたので・・・。もう自分でもうんざりるするくらい記事が長くなってしまったんです。すみません。だらだら書くのは悪い癖なんですけど。

記事は3つのパートからなっています。(1)『決壊』の紹介、(2)ぼくがなぜ平野啓一郎が苦手かの分析、(3)なぜ人を殺してはいけないか? という問いについて、です。

読んでやってもいいじゃろ、という心の広い方がいらっしゃるとうれしいです。それでははじまりはじまり~。

『決壊』は誰に読まれているんでしょう。そして、どこを目指している小説なんでしょう。

平野啓一郎というのは、圧倒的に読まれていない作家だろうと思います。

でも『日蝕』や『一月物語』辺りは面白いですよ。『滴り落ちる時計たちの波紋』も実験小説集として読む価値があります。

平野啓一郎に関してはこのブログでも何度か触れていますが、ぼくはかなり批判的な読者だろうと思います。

それは主に『高瀬川』など現代を舞台にした作品に関してそうなんですが、この『決壊』を読み返してみても、ぼくは否定的な意見しか抱けませんでした。

『決壊』は枠組みとしてはミステリです。妻と幼い子供のいる普通のサラリーマンが、何者かに殺されてバラバラにされてしまうんです。

これがミステリならば、およそ2つのアプローチが考えられます。(1)探偵役の人物が登場し、犯人を捕まえる、あるいは(2)警察組織が犯人を追い詰めて捕まえる、というもの。

しかし、『決壊』ではどちらのアプローチも取られていません。ミステリではないので、犯人が誰かは問題ではないんです。

物語は様々な方向から断片的に描かれていきます。そうして浮かび上がるのは、被害者の家族と加害者の家族の物語であり、ネット住人という見えない人々、それから無責任なメディアへの批判です。

ミステリの枠組みを使っていますが、ミステリではないので、ミステリ好きの読者はおそらくがっかりします。

悪(犯人)が正義(探偵)によって捕まり、懲らしめられるという爽快感がそこにはないからです。

もう少し言うと、ミステリにおける殺人は、基本的には感情が伴うものなんです。交通事故で人を殺してしまった、ではミステリになりません。

恨みつらみがあって人を殺す、そして犯人はそのことを隠蔽しようとする。それを名探偵が推理でロジカルに解決する、あるいは警察の捜査力で解決するところが面白いわけです。

『決壊』でも事件の真相、あるいは犯人が誰かというのは物語の吸引力になってはいますが、ミステリと決定的に違うのは、その殺人自体が恨みつらみなど感情によるものではなく、もっと観念的(考えのようなこと)なものになっているということです。

この小説内でも使われている言葉ですが、現実のメディアでもよく「心の闇」という言葉が取り上げられますよね。それは犯行の動機が感情的に理解できない時に使われているような気がします。

現代社会における犯罪は、ミステリのように感情的に理解できるものではなく、ぼくらが理解できないからこその怖ろしさのようなものがあるわけです。酒鬼薔薇事件や秋葉原無差別殺傷事件など。

『決壊』はそうした感情的に理解できない犯罪を、多角的な視点で描くことによって表現しようとした作品です。

『決壊』がミステリの読者をがっかりさせるだろうと書きました。では、文学好きの読者にとってはどうなのでしょうか。

現代社会における「心の闇」や、人を殺すということに対しての倫理的問いかけが、文学好きの読者の心を打つのかどうか。

たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰』はぼくら読者の倫理観を揺さぶるような物語です。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

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なぜ人を殺してはいけないのか? ラスコーリニコフはある考えから殺人を犯します。その考え自体が問題となるんですが、ぼくらはラスコーリニコフを肯定することも、また否定することもできません。

それは解消できないジレンマのようなものを抱え込んでしまうことを意味していて、なぜ人を殺してはいけないのか? という問いがぼくらを苦しめ続けます。答えのない問い、それが言わば文学的ということだろうと思います。

では『決壊』における殺人はどうか。

なぜ人を殺してはいけないのか? 『決壊』に出てくる犯人の「悪魔」の考えというのは、現代社会の「心の闇」を表しているかもしれません。でも単にそれだけです。答えのない問いでも、文学的でもなんでもありません。

ぼくらは「悪魔」に対して、別に肯定も否定もする必要はなく、「頭のおかしいやつがいるな」で終わりです。物語全体を通してみても、犯人の存在というのはそれほど大きなものではないと思います。

そうした感想がなぜ生まれてしまうかと言うと、『決壊』は単に犯人の「心の闇」だけではなく、現代社会全体の「心の闇」を暴き出そうとしたということにあります。

『決壊』はよく言えば多角的、悪く言えば、パッチワークのような小説です。中心になるのはサラリーマンのバラバラ殺人ですが、もっと複数の問題を取り込んでいます。

ちょっと話は逸れますが、そうした多角的な技法を使って、凄まじいほどの成功をおさめている小説があります。宮部みゆきの『模倣犯』です。これはもう最高ですよ。5冊あるんで、ちょっと長いですけど。

模倣犯1 (新潮文庫)/宮部 みゆき

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模倣犯』はスタイルとしては『決壊』とほとんど同じと言っていいと思います。被害者の家族、加害者の家族が描かれ、1つの事件が複数の視点で描かれることによって、物語が紡がれています。

そしてそこには単に犯人を捕まえるというだけではない、人間ドラマがあるんです。それがぐっとくるんですよ。タイトルの「模倣犯」の意味が分かる瞬間、鳥肌立ちますよ、ほんとに。大興奮の小説です。

一方で、『決壊』がパッチワークにすぎないというのは、その複合的に取り込まれている1つ1つの問題の扱われ方が、薄っぺらいんです。妻と夫のささいな不和、父親のうつ病、インターネットによる悪意、不登校の子供を持つ両親、メディアへの批判。

どれもテーマ的にはすごくいいものです。たとえば、加害者の家族がどう生きていくべきかというテーマでは東野圭吾の『手紙』という傑作があります。思い出しただけで泣ける・・・。

手紙 (文春文庫)/東野 圭吾

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そうした問題を複合的に取り込むということは、基本的には3人称で書かれることが必要とされます。3人称というのは、誰にスポットライトを当てるか、が非常に難しい技法です。

『決壊』で扱われているテーマでも、わりと重要な意味を持ってくるのが、エリートの兄とダメな弟という構図です。平野啓一郎の言うところの「分人主義」もここに関わってきます。

「分人主義」に関しては、また『ドーン』を紹介する時に触れますので、ここでは触れませんが、『決壊』での兄弟の構図に即して言うと、兄でありエリートの崇は、ある程度器用に生きていけるのに対して、弟の良介は不器用にしか生きていけない、とそういうことです。

人間誰でもそうですし、「空気を読む」という言葉があるように、相手によって自ずから人格を切り替えているはずです。家族といる時はこんなキャラクター、恋人といる時はこんなキャラクター、などなど。

兄の崇はそうした誰にでもいい面を見せられるところから、正体の不気味さみたいなものを追求されることになります。本当のお前は一体どういう人間なのかと。

これは非常に面白いテーマで、いいんですが、問題はその描き方だとぼくは言いたいんです。1人称なら分かります。つまり崇のことをぼくら読者は分かっていて、周りがおかしいんだよ、という描き方ならいいんです。感情移入もできますし。

ところが、『決壊』で描かれているのは、3人称なので、正体を見せろと言われている崇の正体がぼくらにも分からないんです。そのために感情移入がしづらい。

本当は正しいのに周りが間違っているという構図ならば、周囲に対しての批判になります。ところが正しいかどうかは分からないけれど、周りが高圧的な態度を取る、では批判になりえません。

そうすると、テーマ自体はいいのにも関わらず、エリートは周りには理解されづらいよね、で終わってしまいます。

複合的に描かれていく1つ1つのテーマはいいんですが、テーマはいいだけに目新しさはなく、妻と夫のささいな不和とはこういうこと、父親がうつ病になったらこうだろう、不登校の子供に対して両親はこうするだろうという、言わばステレオタイプの連鎖になってしまっています。

すべて既視感のある問題が、パッチワークのように集められた小説。ミステリ好きにも文学好きにもしっくりこないであろう小説です。一体誰に向けて書かれたものなのか、ぼくにはやや疑問です。どちらかに偏ればもっとよかったとは思うのですが。

作品のあらすじ


物語は、新幹線の中から始まります。沢野良介と妻の佳枝、3歳になる息子の良太。良介の実家に遊びに行くんですね。良介はぼんやりと「なぜだろう」と考えています。

実家に帰って、一家団欒の風景が描かれます。孫を可愛がる祖母。良介には出来のいい兄の崇がいることが分かります。

良介と佳枝はなんだか微妙にうまくいっていないんです。妊娠、出産を経て徐々に性的関係がなくなってしまったというのもあるんですが、元々恋人だった時から少し複雑な関係性です。

相思相愛だったのではなく、佳枝には他に付き合っていた人がいたんです。良介は相談相手みたいなところからなんとかかんとか結婚にこぎつけたところがあって、イーブンな関係性とは少し違うんです。

表面上はなにも不足していない、幸せな家庭に見えます。ところが良介はエリートの兄、崇へのコンプレックスや妻とのぎこちなさのようなものを感じていて、それをこっそりブログに書いています。

この辺は谷崎潤一郎の『鍵』みたいな雰囲気があって、ぼくは好きなんですけど、佳枝は夫がブログをやっていることに気がついて、他人のふりをしてそのブログにコメントを書いたりするんです。奇妙な関係性ですよね。

そしてそのブログにはもう1人、〈666〉というハンドルネームの書き込みがあります。佳枝はそれを義兄の崇だと思っています。いつも良介を助けるようなことを言うので。

良介の兄、崇は俗に言うエリートで、頭がよく、女性にもモテます。登場しているところでもう人妻と不倫をしています。政治や文学、哲学など広い知識を持っています。

その崇も良介一家に合流して、崇は父親の様子がおかしいことに気がつきます。うつ病ではないかと。良介は、自分の妻佳枝と兄、崇の仲を疑うというか、ちょっと警戒していたりもします。少し不穏な空気が漂う沢野一家。

話は一転して、ある少年の話になります。北沢友哉という少年。いじめられっ子というか、周囲に溶け込んでいなくて、相手にされていない感じです。ちょっと変なやつなんです。

クラスで目立つやつが、彼女とハメ撮りしたと言ってはしゃいでいます。彼女と性行為しているところを携帯のカメラで撮って、それを自慢しているわけですね。北沢友哉はその写真をこっそりコピーして、ネットにばらまきます。

それがきっかけでその女の子は不登校になってしまい、北沢友哉は性器を焼かれたりぼこぼこにされて、こちらも不登校になります。不登校になったことに対して、過保護な母親と無関心な父親。

北沢友哉は妄想のブログを綴っています。そしてある時、ブログを通して知り合いになった「悪魔」と名乗る人物と会うことになります。「悪魔」は北沢友哉のことをそそのかします。こんな風に。

一対一で、一人の人間が一人の人間を殺す。こんな方法は無意味だ。我々は、一個の主体として殺人を行ってはならないのだ。そうではなく、純化された殺意として、まったく無私の、匿名の観念として殺人を行う。この世界があなたをターゲットにして活性化するそれを、あなたの固有名詞に於いて引き受けてはならない。そのまま、世界の殺意として現前させる! 世界はそこでアテが外れるわけだ。押しつけるつもりだった人間が、スルリと逃げてしまって、ただ殺人だけが起こる。すると、世界それ自体が、殺意を引き受けざるを得なくなる。(上、348~349ページ、原文では「純化された殺意」「観念」「世界の殺意」に傍点)


沢野家の兄弟、崇と良介は、父親のうつ病に関して、話し合いの場を持つことになります。他にも色々わだかまりみたいなものもありますし。

そしてそれきり良介は姿を消してしまいます。

一方、崇は不倫している人妻とドライブデートをしたりしていたんですが、あるニュースを聞きます。バラバラの遺体が発見されたというニュース。

良介が何者かに殺されてしまったんです。警察の目は直前まで会っていた兄の崇に向けられます。

果たして〈666〉、そして「悪魔」の正体は一体誰なのか!?

警察組織、メディア、ネット社会がある種の不条理さと怖ろしさを持って批判的に描かれていきます。傷ついた人々が最後にたどり着いた心境とは・・・。

とまあそんな小説です。ミステリでも文学でもないどちらつかずの感は否めないんですが、興味のある方は読んでみてください。テーマ的に興味のある方は、面白く読めるかもしれません。

わりと同じようなテーマのマンガとして、『デスノート』があります。これは結構面白いですし、正義や悪について色々考えさせられます。機会があれば読んでみてください。

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ここからはちょっと、平野啓一郎を批判的に書くというか、ぼくがなぜ平野啓一郎の小説を苦手に思うのかを真面目に考えてみたので、読みたい方は読んでください。

ぼくの感性の問題も多分に含まれているので、それに対する反論は十分ありえるだろうと思います。反論もコメントなどでご自由にどうぞ。

問題にしたいのは主に2点で、(1)人物が描けているか、(2)観念的なテーマが描けているか、です。

(1)人物が描けているか

ぼくは読み手として、あまり好き嫌いがないタイプなんですけど、平野啓一郎の文章だけはどうも生理的嫌悪感を感じることがあって、それは『高瀬川』や『かたちだけの愛』などで特にそうなんですが、男女関係を描いたところなんです。

それは性的な場面としてもそうなんですが、2人の会話、ならびに2人の空間ですね。これがどうもダメですね。

ダメというのはぼくが感情的に拒絶してしまうということです。『決壊』で言うと、沢野崇と恋人が会っているところです。

なにがどうダメなんだろうと考えている内に、おそらくそれは人物がキャラクター化されていないからではないかという結論に達しました。

なにも小説でキャラクターらしいキャラクターを書いた方がいいと言いたいのではなくて、あまりに無個性で、人間らしくないんです。生き生きしていないんです。

そこで交わされている会話のほとんどすべてがなんの必然性もなく、女の喋り方にも男の喋り方にも違和感のようなものを感じてしまいます。

つまりはキャラクター、会話、空間を作り出す能力が平野啓一郎には決定的に欠けているということだろうと思います。あるいはぼくがそう感じてしまうだけかもしれませんが。

これはぜひ反論がほしいところです。いやいや人物が描けているよと。『高瀬川』を読んでいいなあと思った方がいらっしゃるなら、ぜひコメントをください。

(2)観念的なテーマが描けているか

もちろん、人物や空間、ストーリーではなく、平野啓一郎の魅力は教養的な要素があること、観念的なテーマを扱っているところなんだよ、という意見もありえます。

小説というのは、そういった面白さもありますよね。物語ではないなにかの魅力があると。もちろんそれはそうです。ただ問題は、それが平野啓一郎に当てはまるかどうかです。

平野啓一郎という作家は、ある種の教養的な要素があると語られることが多いんですが、その時点でぼくは疑問ですし、それはまあいいとしても、それは作家としての資質とはまた別のものです。

『決壊』の中で、当時のブッシュ大統領の批判が出てきたりしていますが、そうした政治的なものの扱い方にもぼくはパッチワークじみたものを感じます。

扱われている政治的事件が時間が経過してしまって古くなってしまった、それは構いません。ただ、平野啓一郎の小説に出てくる文学、政治、哲学的な議論をぼくはすごく表層的なものに感じてしまうんです。ひどく薄っぺらい。

物語の構造から言うと、議論が議論になっていないということがまずあります。バフチンに〈ポリフォニー〉という文学用語があって、それは多声ということなんですが、つまりキャラクターとキャラクターの考えがぶつかりあって生まれてくるものがあるわけです。

平野啓一郎の小説における議論は一方通行です。ある人物がある事柄について語って、もう1人がそれを相づち打って聞いているだけです。それはまあいいとしましょう。

そしてその人物が語っている内容というのは、たとえばこんなことです。『決壊』の崇が友人に語っている会話文から一部抜粋しますね。

そういうモダンな、ロマン主義の脱構築としてのボードレールに目をつけたのが、ベンヤミンだよ。〈新しい戦慄〉っていう、例の衝撃の美学だけど、これが二〇世紀前半の芸術を決定的に特徴づけている。その議論をもっと体型的に洗練されたのがアドルノの美学で、彼が言ってるみたいに、近代の合目的的な社会っていうのは、世界が普遍的な同一性の呪縛に捉えられた姿なわけだけど、芸術は、そこに、同一化不可能な非対象的対象をショッキングに、破壊的に出現させて、一矢報いるわけだね。(上、202~203ページ)


これが三島由紀夫の切腹に繋がるわけですが、これを聞いての友人のセリフが傑作です。「なるほどねぇ」(203ページ)ですよ(笑)。どこになるほどなんだよ! そこを深く追求したいところですが、それはまあともかく。

この文章を読んで、教養的だと思うのは構いませんけれど、ぼくは逆に内容のなさを感じます。別にボードレール→ベンヤミン→アドルノと書いていく必要はないでしょう。これは単に記号的なものの羅列であって、内容ではありません。

こういう言説でしか書けないということが、平野啓一郎が観念的テーマを描けているかどうかを見るキーになります。

ところで、イソップの物語で「狼少年」の話がありますよね。何度も「狼が来た!」と言っていると、本当に狼が来た時に誰も信用してくれないというあれです。この話から、ぼくらはこう言うことを学ぶわけです。「ああ、嘘をついたらいけないんだなあ」と。

これが物語が生み出す効果です。では平野啓一郎がどういうことをしているかというと、登場人物に「嘘をついたらいけないんだよ」と実際にセリフで語らせるようなものなわけです。

文学、政治、哲学的なテーマを小説に組み込むのは構いませんし、それは文学作品にとって重要なことです。ですが、それを直接言葉で語ってもなんの意味もないんです。

直接的な政治批判ではなく物語で描き出したジョージ・オーウェルの『動物農場』やジョゼ・サラマーゴ『白の闇』いかに素晴らしかったか。そうしたことこそ観念的なテーマを描くということだと思いますし、それこそが文学の持つ素晴らしさだろうと思います。

ぼくが『決壊』の中で最も気になったのは、作中のテレビの討論番組の「・・・・・・なんで人を殺しちゃいけないんですか?」(下、301ページ)という少年の発言です。これはオリジナルではなくて、実際にテレビでの少年の発言が問題になったことがあります。

大江健三郎が新聞かなにかで、そうした問いを立てること自体が間違っていると言ったあれです。

作中の中で、それを引用的に登場させる以上、なんらかの明確な答えを提示しなければなりません。この場面の解決のなさ、答えの追求しなさにも、ボードレール→ベンヤミン→アドルノという記号的羅列と同じくらいの無意味さを感じます。

哲学を知識として学ぶことと、自分で哲学することは違う、というようなことをカントが言っていたと思いますが、知識をそのまま記述することに意味はなく、自分の考えでものを書くことにこそ意味があります。

小説家である以上、さらに言えば、それが物語として語られるのが望ましいはずです。知識の記号的羅列、政治的事象のパッチワークからは、何も生み出されません。ぼくはそんな風に思います。

以上2点でぼくの言いたいことは終わりです。

ついでに「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに関してちょっと考えてみます。アメリカで起こった同時多発テロ後の世界のぼくらからすると、問いを立てること自体はタブーではないですし、意味のあることだろうと思います。

この問いに潜んでいる罠として、〈自分〉と〈他人〉の差異をどのように扱うかということがあります。つまり、ともすれば「自分が殺されたら嫌だろう」という感情論になってしまいがちなこと。〈自分〉が殺されることと、〈他人〉が殺されることは決定的に違うということが隠れた問題となります。

話は少しずれますが、ぼくの好きな中島義道という哲学者が、何百年後の地球の環境がどうこう言っている人はどうかしてると思う、というようなことを言っていて、それはある種の真理だとぼくは思います。

もちろんエコは大事なことで、それは分かるんですが、自分が死んでしまった世界のことを話し合っていることに奇妙さを感じることも間違っていないだろうと。

「なぜ人を殺してはいけないか?」という問い自体が、地球の未来のように漠然としすぎている感じはします。もう少し条件を重ねていけば、複合的な答えが出せるんでしょうか。

「自分が殺されたら嫌だよね?」「はい」「自分の恋人や家族や友達が殺されたら嫌だよね?」「はい」「じゃあ自分の知らないどこかの誰かは?」「う~ん」「でもそのどこかの誰かは君の友達の友達の友達かもしれないよ」「う~ん」

ここでも、〈自分〉あるいは〈自分〉の領域、と〈他人〉との差異が問題になりますね。

アプローチの仕方を変えて、社会全体の構造から分析するという手もあります。つまり宗教や法律で決まっているから、などとルールとして納得するというものです。宗教で禁じられているから、いけない。法律で罰せられるから、いけない。

でもこれも本末転倒というか、逆転現象のような気もしますよね。してはいけないからルールがあるのではなくて、ルールがあるからしてはいけない、というのは腑に落ちない感じがあります。

ただ、ゴールディングの『蠅の王』のように、無人島に複数の人間が行って社会を構成しようとする時に、基本的なルールを決めようということは有効な手段だろうと思います。

つまり、殺しあって持ち物を奪い合うよりも、お互い殺し合わないというルールを決めて、物を物々交換したりする方が、よりベターであると。殺さないのが当たり前ではなくて、よりいい方法だと。

これは理性の問題なので、動物と人間が最も違うところかもしれません。

ライオンの群れのように、ボスがいてメスがたくさんいて、ボスを倒してメスを奪ってという争いをやめる。殺し合わないことでリスクを下げる。1人で生きていくのではなく、みなが様々な仕事で社会を支えていく、ぼくらは動物ではなく、人間の共同体なんだと。

もし「人を殺してはいけない」というルールを破るなら、どこかで1人で生きていってね、でも君の着ている服も食べ物もどこかの誰かが作ったものだからすべて捨てていってね、とまあそんなところでしょうか。

「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに対する答えとしては、これですね。「ぼくも殺さないから君も殺さないでね。そうやって仲良くやっていこうよ!」とまあそういうことなんでしょう。

相互協定ですね。それは時折破られますが、そうしたルールがないよりはいいということで、ベターな方法だと言えます。ベストを目指すと、〈ディストピア〉ものみたいな怖ろしい未来社会になってしまうことでしょう。

はっ! あれ、なんだっけ・・・、全然『決壊』と関係ない話を延々としてしまいました。いや、関係なくもないんですけど・・・。

まあ『決壊』を読んで、そんなことを色々考えてみるのもいいことかもしれませんよ!

とか無理やりうまいこと言って終わります。最後まで読んでくださった方には本当に感謝です。どうもありがとうございました。