目隠しされた馬 撮影師・辻智彦のブログ

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キャメラマンは目隠しされた馬か?

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ゆきずりの関係なら、何度か。それ以上「映画」と深い関係になったことなど、ない。そう思っていた。だが、「映画」のほうはそうではなかったらしい。気がつくと10本をゆうに超え、20本に迫る「映画」と関係を、持ってしまっていた。だから、何かのまちがいで郵送されてきたこの執筆依頼も、受けるしかないのだろう。

ぼくの仕事はテレビのカメラマンだ。街場の小さなテレビプロダクションで、食うや食わずの金で、20代の修行時代を生きてきたテレビカメラマンだ。そこにはもちろん「映画」はなかった。中野区上高田一丁目の、六畳一間のアパートで、息を潜めて生きていたぼくは、形ばかりの「映画」の学校は出ていたけれど、「映画」を仕事にするつもりなぞなく、何者でもない己にたいする鬱屈を抱えながら、言われるがままに、昨日はトルコ、今日はインド、明日はイタリアと、世界を冒険する華やかな探検家たちが乗るガレー船の船底でひたすら櫂を漕ぐ奴隷のごとく、世界を紹介する華やかなテレビ番組の制作の裏側で、三脚とバッテリーを抱えてよたよたと走り回っているばかりだった。

1998年。ビデオカメラが小型にデジタル化され、片手に収まるおもちゃのようなハンディカメラでテレビ番組の撮影が可能な時代になっていた。27歳のぼくは、そんな時代の波に押し上げられ、デジタルビデオカメラを扱う「おもちゃのカメラマン」として、独立することに成功していた。ぼくは、おもちゃのカメラで、20世紀末の日本の現実を撮影することに夢中になっていた。犯罪者や、暴走族や、不法滞在者や、ホームレスの生きかたを、小さなデジタルビデオに焼き付けることが仕事となり、生き方となり、己の生を充実させるありようとなっていた。つくりごとの「映画」なぞには、興味すらなくなりかけていた。そんな時だった。

噂を聞いた。僕が手にしているのと全く同じおもちゃのカメラ、SONY DCR-VX1000で、全編を撮影した「映画」が、世界で初めて南アフリカで誕生したらしいと。アムステルダム・ウェイスティッド。久しぶりに映画館で見た「映画」だった。衝撃的な「映画」だった。アムステルダム、ドラッグにまつわる不良たちの狂騒が、ぼくの眼に馴染んだデジタルの画質、おもちゃのようなデジタルの質感、肌をチクチク刺してくるようなあの感覚で、スクリーンから立ち上っていた。つくりものの「映画」のはずなのに、そこにリアルはあった。おもちゃのカメラでしか入り込めない現実、撮り手のありようまでも透かし出すきらびやかな貧しさ、レンズのこちらのぼくの貧しさと、レンズのむこうの相手の貧しさとの奇妙な共犯関係。そんな、おもちゃのカメラが可能にさせてくれた、ぼくをこの世界に立たせてくれる居場所。その感覚、ぼくを生かしめている確かな実感が、その「映画」にはあった。久しぶりに「映画」にざわついた。予感がした。間をおかず、その「映画」を監督したのがオランダに亡命した南アフリカ出身のユダヤ人と知り、彼が次回作を日本で撮ると知り、そのプロデューサーがぼくの知人であると知った。そして、運命のように、あらかじめ決められてあったかのように、そのプロデューサーから電話がきた。曰く、カメラマンが撮影初日に監督と衝突し「映画」を降りたと。ぼくに「映画」の続きを撮影してほしいと。ぼくがおもちゃのカメラで撮影するカメラマンであることをプロデューサーは知っていた。そのあたらしい「映画」も、同じおもちゃのカメラ、VX1000での撮影だった。だから、噂で聞いた遠い国の出来事と、東京の地べたを這いずるぼくの日常が、不意に一直線につながった。南アフリカ出身の亡命ユダヤ人監督、イアン・ケルコフとぼくは、こうして出会った。イアンもやはり、きらびやかなデジタルの貧しさに、チクチクする生の実感を求めていた。アパルトヘイト反対運動で逮捕され、懲役徴兵を拒否してオランダに亡命したユダヤ人監督もまた、己の生の実感を、映像の貧しい質感そのものの中に塗りこめたい、と願う男だった。おもちゃのカメラが顕す作り手側の貧しさこそが、「映画」を規定する世界のありようを逆照射する。その感覚こそ、ぼくが「映画」に求める手触りであることを、このとき、改めて、自覚した。『シャボン玉エレジー』と名付けられたそのちいさな「映画」が、ぼくと関係を持ったはじめての「映画」だった。27歳のぼくは、おもちゃのカメラマンと揶揄されていたぼくは、初めて「映画」と己の正しい関係を見出した。若松孝二と出会う4年前の出来事だ。

だからぼくは、今でも高価なカメラは好きではない。ちっぽけな自分に似たカメラ、ちっぽけな自分のありようを、それでも肯定してくれるカメラが好きだ。 

『アール・ブリュット 動く動画』展に関するラジオでの辻自身の発言より

 

私の普段の仕事はキャメラマンをやっております。テレビのドキュメンタリーや劇映画の撮影を担当する人間です。

 

5年位前でしたか、滋賀県にあるびわ湖博物館というところでアール・ブリュットの作品を展示しておりまして、それと偶然出会ったのです。その時まで私は恥ずかしながら、アール・ブリュットという言葉もよく知らなかったのです。聞いたことはあっても、意味はよく分からないような人間だったんですが、そこで出会った作品、それが私を非常に驚かせまして。その時展示されていたのは澤田真一さんという方の、陶器というか、焼き物の立体作品だったんですが、テーマをこちらに語り掛けてくるわけでもなく、ただ力強く立っているような佇まいに、ひどくびっくりしたんですね。それからアール・ブリュットというものに興味を持って、これはなんだということで調べ出すと、そこにいろんな世界があることが分かってきたんです。それで、これは面白いと思って、他のアール・ブリュットと言われる絵画作品なども調べてみて、その当時はネットでもそんなにたくさん出てくるわけではなかったんですけど、見ているうちに、これはもしかして、私は普段、映像撮影の仕事をしていますので、アール・ブリュットの作品をカメラで撮ったらすごく面白いのではないかと思いだしたんです。なぜかというと、アール・ブリュットを作っていらっしゃる方々は、自分の作品を自分の言葉であるいは自分の明確な制作意図をもって語ることをされない方々なんですよね。その分、作品の中に内包されているすごいエネルギー、パワー、私が衝撃を受けたパワーですよね。それが作品の中に密かにみなぎっている、それをピンと感じたのです。それで、その内包されているパワーをなんとしても解き放って、私が個人的に受けたような衝撃を、映像を使うことによってもっと多くの人に知ってもらいたい、衝撃を共有したい、という気持ちがどんどん膨らんできたんですよね。

 

しかし、具体的にはどうすればよいか、ということが分からず悶々としている時期が3年くらい続きまして、そうこうしているうちに、出口のアテもなく自分で作品を撮影しだしたりしたんですけど、その時にボーダレス・アートミュージアムNO-MAからキュレーター公募の知らせがあったんです。アール・ブリュットに興味持ちだしてから、研究のためにNO-MAには2,3度行ったことがあって。これだ、と思ったんです。

 

はじめはアール・ブリュット作品の持つ力というのを十全に見せる番組は出来ないか、と、自分のフィールドであるテレビ番組の企画で考えていたんですけど、テレビだと障害を持つ作り手の方にフォーカスしたヒューマンドキュメンタリーだと企画は通りやすく、実際に障害者アートを作る人たちを取材しただけの安易な発想の番組はいくつも存在していたのですが、作品自体の持つ暴力的と言ってもいい力を映像で引き出す番組、というテーマでプレゼンすると全く相手にされず、門前払いが続いたのでやっぱりこれはテレビ向きじゃない、やっぱり美術館のような「作品そのもの」を見せるための場所で、何とか発表できないか、とぼんやり思っていたんです。そういう意味ではNO-MAの企画展公募は「渡りに舟」でした。企画ははっきり言って審査に通る、という根拠のない自信がありましたから。

 

『アール・ブリュット 動く壁画』というテーマに関しては、まず、私が心を惹かれたアール・ブリュットの絵の作品の中に、もともと「動き」というものを感じていたんですよね。そもそも洞窟壁画というものが昔から好きでして、太古の洞窟壁画には当時の狩猟対象、あるいは神聖だと思われていたかもしれない野生動物の絵がたくさん描かれているんですが、私なりに、それを見ていた当時の人々は、これを単純に絵として見ていたんじゃないんだろうなという思いがあったんです。つまり、それらの絵は動いていたんだろう、と。私が映像をやっている人間だということもあるのでしょうが、昔の人は当然ランプをかざしてみるしか方法がなかったんだと思うんです。当然、洞窟には風が吹いています。今回の展示にも音響効果で風の音など入っていますが、ランプの炎は揺れます。当時のランプの炎の材料は、これはもうほとんどわかっているんですが、獣脂。つまり自分たちで獲った動物の油を使って、ランプを作っていたんですね。自分たちが殺めた動物の油で灯されたランプで、殺めた当の動物たちを描いている、と。それを揺らぐランプの灯りで見て歩く、と。そうすると、たぶん間違いなくそれは動いていたんですね。つまり壁画というのは、そもそもが動いていたんだと。そこから考えて、やっぱりアール・ブリュットの作家の作品、これにもう動きがあると。これはもう動かしたい、と。人間の根源的な欲求というか、描かずにはいられない衝動というものが作品にはあるだろうと。それを映像で撮ることで、今一度、この現代に、昔の二万年前の人はランプの炎の力で見ることが出来ていた映像を、二十一世紀の今、4Kキャメラというテクノロジーを使って、現代の人たちが忘れてしまったかもしれないストレートな心の中の表出の仕方を、まだ出す能力を身に纏っているアール・ブリュットの作り手の方たちの作品を通して、そういう体験をもう一回出来るのではないだろうか、と、そういうコンセプトで今回はやったんです。

 

キュレーターとしての私の立ち位置はかなり特殊で、明らかに美術界の人間ではないわけですね。カメラマンと言っても幅は広いんですが、私が普段やっている仕事はテレビの映像カメラマンと言われるものです。例えばアール・ブリュットの作り手で、昔フェルディナン・シュバルという、その辺に落ちている石だけを積み上げて巨大な宮殿『理想宮』を作られた方がいたのですが、彼は郵便配達夫だったんですよね。郵便配達夫が、全く美術の素養なしに『理想宮』を造り上げたと。翻って考えるに、果たしてテレビカメラマンは美術家と郵便配達夫のどちらに近いか、という話なんですよ。ワイドショーやなんかで、「何々さん、教えて、教えて〜」とか「ナントカさん、ナントカなんですかー?」とか、下らないスキャンダルを追いかけているようなカメラマンたちこそが、私の同業者なんですよ。実際私もああいうことをやっていましたし、実際私の仕事仲間も、ほとんどは美術と全く無関係です。それでも仲間には当然、優れたカメラマンもいます。それは美術に無知でも優れた郵便配達夫がいるのと同じ意味なんですよ。そう考えると、今回の企画展に於ける私の立ち位置って、アール・ブリュット・キュレーターともいえるんじゃないか、と。キュレーター・ブリュットですか。つまり、美術界のルールやコンテクストというものは、アール・ブリュットの作り手がそうであるように私にも一切分からない。映像のことは分かりますけど。しかし逆に、そういう意識も含めて楽しくやった部分もあります。つまりアール・ブリュットの本来の力を発見して、映像でレペゼンしたいという気持ちであれば、全く負けていないし、その映像に関しては職人的な表現力も持っている、という気持ちがあるんですよ。美術のことは分からないけど、アール・ブリュットの力を感じとる感覚は人一倍だという自負はあります。

 

私が心を惹かれたアール・ブリュット。つまり、アール・ブリュットとはなにかと私自身で考えたときに、ものすごく奥行きのある表現、そしてその奥行きに、描いた本人、あるいはその絵自体が、自分自身で、奥行きの深さ、内容の深さに気づいていないような絵、というのが、ぼくの中の基準としてあったんですよね。

 

アール・ブリュットを調べた中で、最初の出会いは岡崎莉望さんだったんですが、まさにこれだ、と思ったんです。この奥行き感。手法としては、極限にシンプルなんですね。色の付いた紙に、ボールペンで線を引いているだけなんで、それでこれだけの中身というか、まさにこの世界をそのまま写し取るような力のある、全くその普通の私たちの視覚で見ている、この風景とは全く違う方法を使って、創造しているというか創り上げているというか、そういう衝撃と感動がきっかけでした。それがあったので、そういう奥行きのある作り手の方、作品を選ばせてもらったんです。結果としては、どの作品も非常に精細な、細かいタッチの絵になっていると思うんです。それが多分、共通点なのと、あとはまあ具象も抽象もあると思うんですけど、具象であっても細部に迫ると、どんどん抽象化されて、その抽象化がなんなのか訳か分からなくなるのではなくて、逆にどんどんどんどん濃縮されていく、その中のエッセンスが濃縮されていくような作品と言うのを、私なりの視点で選ばせてもらいました。中にはNO-MA側からの提案で引き受けた作家もいますが。

 

今回の映像は、ドキュメンタリーを撮るカメラの方法でどんどん作品を撮っていきました。そうすると、私なりの見方で、いろんな発見やいろんな奥行き、作品の中にひそかに隠れていた動き、それからそこに潜んでいたすごい深い何かの感情を呼び起こすもの、そういうものがカメラを通して出してきたんですね。私の直感の通り、いや、もしかしたらそれ以上でした。そういう作品は、いくら見続けても、見尽きることはないんですね。そういう作品ばかり撮影していますんで、見れば見るほど、そこに含まれているものを引き出せる、それは見る方々それぞれの感性とか自分の生き方もあるし、自分の感覚もあるでしょうけど、それらのものが、これらの絵の中に、内包されているんだということの一つの象徴として、映像を使っておりますんで、それぞれの方々が、それぞれの見方で発見していただけると嬉しいです。

 

「新・若松組のキャメラマン」

というレッテルを貼られていたらしい僕は、

若松孝二監督がこの世を去ったのち、

なかば自然と劇映画の現場から遠ざかっていた。

 

といって何もしていなかったわけではない。

本来の持ち場であるテレビドキュメンタリーでは、

以前と変わらずたくさんの撮影を引き受けていたし、

また自分の会社での番組制作が増えてきたこともあり、

企画開発やプロデューサー、

ディレクターなどを兼任することも増え、

更に大学で撮影技術に関する実習講義を受け持つなど、

より多忙な生活に追われていた。

 

一方では劇映画の世界を横目で見ながら、

若松孝二という「表現の軸」を失った喪失感と

「もういいや」というなげやりのような感情の狭間で、

気がつくと最後の劇映画『千年の愉楽』の撮影から

4年あまりが経っていた。

 

そんな折だった。             

 

映画製作会社「シグロ」の代表・山上徹二郎さんから

突然のメールが入った。

2015年早々のことだった。

メールにはシグロで新作劇映画の準備中であること、

監督が東陽一さんであること、

東さんとプロデューサー山上さん共通の意見として

キャメラマンに辻智彦(つまり僕)を希望している

ということが簡潔に書かれていた。            

 

山上さんとは以前ドキュメンタリーの現場で

お会いしたことがあり面識はあったが、

仕事上での付き合いなどは全くなかった。

それだけに突然のオファーに戸惑った。

なぜ僕に?    

 

1週間後、

新宿の喫茶店で会うことになった。

約束の時間きっかりに着いた僕を待っていたのは

東陽一監督その人だった。

同席の山上さんから簡単な紹介と挨拶のあと、

東さんは貫禄という言葉を拒絶するかのような

滑らかな早口で、

あなたにずっと会いたかったんですよ。

と朗らかに語りかけてきた。        

 

出会うべき人というのは、

いつもこんな風に前触れなく現れる。

東監督もまったく僕の意表をついて

目の前に現れたのだった。

 

東陽一・・・

映画を愛する人間の間では語る必要もない

「レジェンド」だ。

僕も学生時代アテネフランセに通って視た

『沖縄列島』『日本妖怪伝サトリ』

などの初期作品から

『サード』『もう頬杖はつかない』

そしてリアルタイムで視た

『絵の中の僕の村』『わたしのグランパ』

前作『酔いがさめたらお家に帰ろう』まで、

何本もの東作品に触れていた。

目前にそのレジェンドがひょっこり座っている。

現実感を欠いたシチュエーションだった。

齢80歳を超えているはずだが、

軽快な物腰は年齢を微塵も感じさせなかった。

 

僕の戸惑いを気にする風もなく東さんは話し続けた。

「あなたがキャメラをやった若松の『実録・連合赤軍』

あれは良かったよ、いつか頼みたいと思ってたんですよ。

でも若松に悪いと思ってね。」

 

「若松」と呼び捨てにするのも無理はない。

なにせ東さんは若松孝二より年長なのだ。

とりあえず脚本の第一稿が上がったら読んでみてほしい、

そして気に入ったならぜひお願いしたいと念押しされ、

30分足らずで初めての顔合わせは終わった。

引き続き打ち合わせがあるからという二人を残し、

僕は先に席を立った。

 

喫茶店のドアを開けながら、

目の前にまた大きな何かが降りてきた気がした。

1月の凍えるような冷気の中、

不安と期待でヒリヒリする感覚が、

4年ぶりに蘇る感覚があった。

脚本を読むより前に、

もうほとんど心は決まっていた。

この出会いが僕にとってまた新しいはじまりになる。

その予感があった。

 

2ヶ月後『だれかの木琴』脚本第一稿が送られてきた。

一読してこの奇妙な物語に惹かれた。

というより、

これを東陽一監督が演出するというプランに惹かれた、

といったほうが正しいかもしれない。

 

ストーリーは単純だ。

サラリーマンの夫と中学生の娘を家族に持ち

何不自由のない生活を送る専業主婦が

若い美容師に執着する。

しかしその執着は周りの人間たちを巻き込み、

それぞれが抱え持つ生活の裂け目が顕れはじめる。

だが物語は決して過激な方向には進まず、

現実の世界がそうであるように、

たわいもない事件が起き、

生活にさざ波が立ち、

それでも人生は続いていく。

 

この小さな物語が東陽一監督の手によって、

単純なテーマや意味に回収されない、

ひとの営みをそのままゴロリと投げ出すような映画が

できあがるという予感した。

同時にその感覚を映像として具体的に実現するのは

簡単なことではなく、

一筋縄では行かないと不安を感じたのも事実だった。

 

8月の頭だったろうか。

いよいよ撮影プランの具体的な打ち合わせの直前、

プロデューサーの山上さんから連絡があった。

良くない知らせだった。

 

準備直前での製作延期。

混乱した気持ちのまま、

監督補の藤江さんとともに東さんと会った。

東さんは落胆していた。

その時ばかりは年相応の背中に見えた。

会ってはみたものの、

今この場で語るべき打ち合わせのテーマもない。

とりとめのない話をした。

東さんはそれでもなお、

明るく振る舞い、

バッハをいかに愛しているかということ、

「分かりやすい映画」の罪について、

あるいはフィルムへの郷愁、

そんなことを話したような気がする。

 

僕も、

デジタル映画撮影についての私見を話したりした。

製作中止ではなく延期ということだったので

再開の望みは繋がっているはずだったが、

それでも東さんは自らの体力の限界を心配していた。

緊張の糸が切れた状態になっていたのかも知れない。

ともかく来年の再開にむけて待機になった。

 

映画にとって、

出会いがそうそう幸せに結実するわけではない。

今まで何度もあったことだ。

自分に言い聞かせながらも、

浮かれた夢から急に目覚めさせられた気分だった。

 

しかし、

山上プロデューサーは諦めていなかったらしい。

 

約2ヶ月後、

2015年10月再開の連絡。

その執念に僕は頭を殴られたような衝撃を感じた。

映画という魔物には、

生半可な気持ちで関わるわけにはいかない。

忘れかけていた「覚悟」を、

山上さんに改めて痛感させられた。

どこか無責任に、

与えられた機会を喜んでいただけの自分を猛省し、

とにかくその思いに応えねばと、

モチベーションはむしろ上がった。

 

再び意気軒昂となった東陽一監督は、

バッハのポリフォニーのような映画を撮りたいのだ

と高らかに僕に告げた。

 

直感派の極である若松孝二監督とは

全く違ったアプローチでありながら、

「人間という複雑なものを単純化せず丸ごと描く」

というビジョンは共通のものとしてあった。

 

東さんが出会い頭に言及した『実録・連合赤軍』。

10年前、

無我夢中で取り組んだあの荒削りな作品こそが、

重要な参照対象となった。

『だれかの木琴』とは似ても似つかない映画だが、

人間の心理と存在の複雑さを

物語のために整合させずそのまま提示するという

「人間を描くことの態度」における共通項がある。

「物語」ではなく「人間」を追いかけるキャメラ。

それを貫徹することが

『実録・連合赤軍』を見て僕を名指したという

東さんへの僕からの応答になる、

そう確信した。

 

僕が劇映画を離れていた4年あまりの間で

映画の上映環境は激変していた。

もはやフィルムで上映する映画館はほぼ存在せず、

DCPによる上映が前提になっていた。

機材も技術革命のただなかというべき激流の中、

低予算であっても多くの選択肢があった。

 

しかし僕に迷いはなかった。

若松組で長く使用していた、

今となってはクラシックとも言える3CCDカメラ、

パナソニックHPX3100を使用する。

 

レンズもこれまたクラッシックな

B4マウント仕様のフジノン・シネスーパー。

補助としてキャノンのワイドズームレンズを準備した。

 

自分にぴったりくるスタイル、

昨今では完全なオールドスタイルであろう

この方式で行くことを躊躇なく決めた。

 

ほんの5年前のカメラや10年前のレンズでも、

ハードの変化は恐ろしく早い。

選択した機材は時代遅れの遺物となりかけていた。

しかし僕の感覚にとって、

その機材でなければいけない必然性こそが大事で、

新しい古いはさしたる問題ではなかった。

 

僕はフォトジェニックな映像に決して流れない

ビデオカメラの厳しさが好きだ。

写すだけではクッキリした奥行きのない映像となる。

構図・ライティング・キャメラワーク、

表現の強度をつけていかなければ成立し難い。

しかし本当に強度ある映像に創り上げた時には、

強力な説得力を持つ。

東さんが『実録・連合赤軍』に見出した部分も、

もしかしたらそこかも知れなかった。

 

シンプルなシチュエーションで、

さざ波のような小さな出来事が起こるだけの物語を

いかにキャメラで描くか。

今回僕に与えられたこのミッションも、

簡単には答えの出ない難題だった。

 

言葉の端々から聴こえる東さんの映画イメージは、

作品同様どことなく掴みどころがなく、

その分底知れぬ「深み」があった。

明確なテーマ性、

ドラマツルギーを否定するわけではないが、

そこに収まりきらずこぼれ落ちる何か、

麻袋に入れた水のように染み出してくるものを

大事したいという意志を感じた。

 

それは僕にとって近しい感覚、

つまりドキュメンタリーの感覚そのものだった。

ドキュメンタリー撮影の理想は、

本人が気付いていない本人の新しいイメージ

(しかしそれは本質に近いイメージともいえる)

をどこまで描けるかにかかっていると言っても良い。

無意識にただ立っていることで染み出してくる何か、

その人間の存在の本質ともいうべき匂いを探り当て、

それの持つ固有の魅力、

存在することそのものの魅力とでもいうべき何かを

キャメラは描きだすことができるははずだという

信仰にも近い気持ちをもつ僕にとって、

まさにぴったりくる感覚だった。

 

その感覚を大事に抱え、

ロケセットを見て回った。

すべての場所が現実に人が生活し、

仕事をしているスペースを借りての撮影。

撮影部としての撮りやすさはひとまず考えないで、

人間がどのように生きている空間かということを

重視して見ていった。

 

今回は常盤貴子さん演じる

専業主婦・小夜子の物語であるため、

小夜子の家の中での撮影が多くなる。

何不自由ない郊外の中流家庭。

しかし住人自身は気づかない家中のあちこちに潜む

得体のしれない淀みをどう感じさせられるか。

家庭の電気照明のオン・オフを

俳優に芝居でしてもらう状態を多く作り、

それを映像の抽象化の契機にすることを考えた。

 

また人物を描くドキュメンタリーでは、

撮りやすさを優先して

キャメラポジションを決めることなどありえない。

ひとが今ここで生きているという厳粛な事実があり、

それを描く為にキャメラはどんな狭いスペースでも、

どんな態勢になろうとも、横顔しか撮れなくとも、

キャメラの影が被写体に被ろうとも、

そこに存在を許される場所でしか撮れない。

 

その制約こそが

映像のリアリティとアクチュアリティを創り出す。

そんなマゾヒスティックな喜びさえある

ドキュメンタリー撮影と同じ考えを基本に据え、

そこから劇映画特有の映像の抽象化を考えてゆく。

それが僕の思考方法であり、

スペースがないという理由だけで

撮影場所を変えるという選択はしないと決めた。

 

さらに空間の抽象化の方法として、

キャメラを簡易レールの上に乗せ、

自分自身で押し引きすることにした。

このやり方は極少人数でのテレビ番組の撮影で

多く経験しており、

自分の手足のようにしっくりとなじんでいる。

 

ステディカムやジンバルなどの姿勢制御装置は

自分の身体感覚に合わない。

ソリッドな直線レールの軌道に制限されて

はじめて視線のゆらぎのような

微妙なカメラの揺れが可視化される。

微妙に移動しながら撮影対象を撫でていく感覚。

キャメラワークとは視覚的ではなく

触覚的な営為であると考える僕にとって、

いつも人の表情を撮るときは

彼の頰をそっと撫でるような感覚になる。

ひたすら人間の意識の単純さと

無意識の複雑さを愛撫する

因業な商売でもあるといつも思う。

それが撮影するということの本質であることも。

 

東さんとの仕事は信じられないほど刺激的で、

また僕に改めて多くの気づきを与えてくれた。

 

劇映画はその時間・空間・音の渦に

全てを巻き込む抽象力のパワーにより、

やはり最高度の表現技法であることを再確認した。

今回もまた、

与えるより与えられることの多い現場となった。

 

2015年3月。

僕は原因不明の感染症に倒れて生死の境をさまよった。

会社を立ち上げてから5年、

激務が免疫を低下させていたのか急速に症状が悪化、

入院した夜から8日間意識不明が続いた。

細菌が脳に回ったことで脳炎を併発、

その後内臓が次々と機能不全になった。 

生存率約20%の重篤状態だったと後から聞いた。

意識が戻ったのが3月11日。

色彩が定まらない眼に震災追悼のテレビ映像がぼんやり映った。

駆けつけた妻との再会に号泣、

「生きていること」をむさぼりたい気持ちになった。

退院するまでの1ヶ月、

命を救ってくれた主治医と言葉を交わすようになった。

彼は30半ば。

痩せぎすの体にチェックのネクタイを締め、

上から白衣を纏っていた。

腕組みして眼鏡の奥から僕を観察する様は、

さながら「名探偵コナン」。

妻の玉美から、

彼が睡眠もほとんど取らず、

僕の救命の為働き続けていたことを聞いた。

彼に質問した。

「なぜそこまでして救おうとしてくれたのですか?」

病院では重症患者の死は日常で、

たとえ死んだとて誰にも責任は無いはずだ。

彼はぽつりと自分の息子のことを教えてくれた。

彼の息子は障害者だった。

「ウイリアムズ症候群」という、

聞き慣れない病気を抱えていた。

息子の誕生と障害が、

エリートとして生きて来た、

彼の人生観に大きな影響を与えたのだという。

僕は3歳になる彼の息子に会いたいと思った。

会ってお礼を言いたいと思った。

すると僕の仕事を知った彼から、

思いもよらない提案があった。

「私の息子を記録してもらえませんか」

もちろんですと即答した。

今度は僕が、なすべき番だと思った。

 

その番組が明日(正確には今日)放送される。

2016年11月20日14時からフジテレビで。

タイトルは、

『ザ・ノンフィクション ボクを知ってください

       〜ウイリアムズ症候群と家族〜 』