【本能寺の変⑤ 光秀重臣が切腹の危機】
明智光秀画像
あまり世間に流布していないうちの本能寺の変に関係することで、引き抜き問題があります。まさに本能寺の変が起こった天正10年(1582)のことです。
明智光秀の重臣中の重臣、斉藤利三(としみつ)は最初、稲葉一鉄の家臣でした。それが光秀の家臣にトラバーユしたのです。もちろん一鉄も光秀も信長の家臣です。
一鉄は利三を引き抜かれた際は我慢したのですが、次が大事になりました。次とは天正10年のことです。
今度は利三が一鉄の家臣で非常に優秀な那波直治を引き抜いて光秀の家臣にしたのです。
戦国時代といえども混沌としていたならいざ知らずこの時期にはかなり体制は固まりつつありました。
それだけに引き抜きはご法度だったのです。今度は一鉄は黙っていませんでした。信長に直訴したのです。
その裁定が何と本能寺の変の直前の5月27日にあったのです。
裁定の内容は、那波直治を稲葉一鉄家に戻し、引き抜きをした張本人の斉藤利三に死罪を申し付けるとんでもなく厳しいものでした。
一方、信長の四国征伐も明智光秀に影を落とします。というのも利三の兄は石谷光政の養子となり、光政の娘は四国を席巻する長宗我部元親に嫁いでいます。
つまり利三は元親と義兄弟と言う関係になります。長宗我部家の対信長対策はこの斎藤利三を通じて光秀が担当していたのです。
それを羽柴秀吉の献言によって信長は政策変更しました。
元親の四国制覇は許さぬとして、信長は息子の信孝を大将とする派遣軍によって元親を成敗することにしたのです。
その派遣軍の出発は本能寺の変の翌日、つまり六月三日に設定されていました。さらに先に記述した利三の死罪申し渡しがあります。
死罪は信長家臣の猪子兵助が取り成して事なきを得たという話も伝わっていますが、そうではなかったという説もあります。
本能寺の変の大前提は、信長の股肱の臣である佐久間信盛が追放されたように、用済みの立場になった光秀が左遷される危機を感じていたことです。これは間違いないでしょう。
本能寺の変の謎を解く上で引き抜き問題は小お四国への政策変更は小さいことではなかったと言えるのではないでしょうか。
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