今回の参詣は、両国の松坂稲荷大明神へ。

ここはJR両国駅の南側、京葉道路を越え両国回向院の東側の路地を入ったところ。元禄十四、十五年(1701-02)の間に起きた赤穂事件により多大な損害を被った高家旗本の吉良上野介屋敷跡の一部であり、赤穂浪士四十七人討入りの事件現場でもある。

 

 

 

海鼠塀 なまこべい

元禄時代に2,550坪あった吉良上野介邸の北側の一部、約29.5坪を昭和9年(1934)に地元有志が一画を購入して史跡公園「本所松坂町公園」として保存し旧東京市に寄贈したもの。

外壁は、高家の格式を表す海鼠塀と黒塗りの長屋門を模した造り。

本来の表門はここより東南、裏門も西南側にあったが、現在オフィスビルとマンションになっていて、史跡を伝える立札があるのみ。

 

 

 

29坪というと小規模オフィスぐらいの広さなんだけど、公園として見ると極狭スペース。

園内はお稲荷さんをはじめ、吉良家臣の犠牲者二十数名の名を刻んだ石碑、吉良上野介の菩提寺である愛知県西尾市の華蔵寺の紹介パネルなどが飾られている。

 

 

 

松坂稲荷大明神

事件後の元禄十五年(1702)に地所清めのために、近隣と思われる水門内というところから遷宮された兼春稲荷と、昭和十年(1935)に上野稲荷が合祀されている。上野稲荷については”古くこの地に祀られていた”というのみで、両社はともに創建についてまでは記されていない。

兼春稲荷は御祭神が倉稲魂命、上野稲荷の御祭神が伏見稲荷。

 

稲荷御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

松坂稲荷大明神由来

『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を

合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、

現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、

其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士

討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、

昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、

当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。

  墨田区文化観光協会

 

 

 

在りし日の兼春稲荷のセピア色写真が掲示されていたけど、初夏の強い日差しでうまく撮れず。

 

公園の由来

境内掲示より字体改行などそのまま記載

本所松坂町公園由来

  所在地 墨田区両国三丁目十三番九号

  面積 九十七、五六平方メートル

 この公園は「忠臣藏」で広く知られる、赤穂

義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋

敷跡です。

 その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、

両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メ

ートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経

て一般民家が建ちならび、いまではそのおも

かげもありません。

 昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後

世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟

公園として、東京市に寄付したもので、昭和

二十五年九月墨田区に移管されました。

 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格

式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、

園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲

荷社などの遺蹟があり当時をしのばせており

ます。また内部の壁面には義士関係の記録や

絵画が銅板で展示されております。

 墨田区

 

 

 

吉良上野介像

赤穂事件を忠臣蔵と銘打って浄瑠璃や歌舞伎で上演されて以来、永く悪人の誹りを受け続けてきたものの、昨今の吉良上野介に対する歴史的評価の好転を機に、両国三丁目町会と吉良邸跡保存会らによって作成された像。生前上野介が自身の像を彫らせ自ら着色したと伝われる西尾市華蔵寺所蔵の像を再現している。

 

吉良像の由来

境内掲示より字体改行などそのまま記載

吉良上野介義央公座像建立の経緯

 平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、

吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案

があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸

跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問

岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移

と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変

わってきたこの時期に、大変に意義あることと考

え、製作を決定する。

岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山

隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏

が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。

 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、

一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造ら

せたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現

存している。姿、形についてはこれをモデルに、そ

のほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参

考にする。

 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後

襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされてい

る。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板

の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾

子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。

 据え付けた台座は御影石を使用する。

本像製作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡

保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を

行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈

する。

 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現

西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に

感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景

に配慮した茅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみ

のある設えとする。

 平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて

墨田区へ寄贈する。

 

 

 

吉良上野介義央 きら こうずけのすけ よしひさ

江戸幕府の儀式や典礼、勅院使の饗応を掌る高家職にあり、その中でも有識故実や礼儀作法に精通した三名を選出して高家肝煎と称した。いわゆる高家筆頭と形容されるのは誤り。また諱の義央を”よしなか”と読まれてきたが、最近では”よしひさ”が正しいとされる。

 

昨年の暮れに訪れると、どうしたことか吉良像の目から雫が伝っているのに気付いた。まるで泣いているようで不思議なのだが、周りにいた他の観光客を見回してもいたずらをした様子がないし、それどころかこの像を見ても気付いてさえいない。ともあれ、涙が流れる仕掛けではないし、結局だれかのいたずらだろうけど。

 

 

 

吉良家二十士の碑

吉良方の奮戦した家臣たちの名が記されている。このうち筆頭の小林平八郎の娘が鏡師中島伊勢に嫁ぎ、その子が葛飾北斎だと言われる。

そもそも赤穂事件というのは、松之大廊下において支離滅裂を言う赤穂藩主浅野内匠頭が背後から吉良上野介を切りつけたのにはじまり、一年半も過ぎて警戒心も薄くなった上、日常の寝込みを襲われた吉良方は寝間着、四十七士は頭に鉢金(はちがね)、腹巻の下に鎖帷子(くさりかたびら)、手には槍や刀、腰には予備の刀と完全武装をした上に火消しを装った姿で押し入る。老人の背後を襲う主君もさることながら、武士のやることではない。

 

一方的なテロ行為の被害者である吉良氏は、足利氏一門であり、徳川家康の祖父清康とも血縁ある名門でありながら、事件後は鍛冶橋から遠く離れた本所に置かれ、嫡子は上杉家の養子となり、その孫を吉良家の養子として迎えるも早世し断絶される憂き目に遭う。

 

 

 

写真は、2015.5.4(園内)、2016.12.29(吉良像) 撮影

 

備考

社号 松坂稲荷大明神

祭神 倉稲魂命(旧兼春稲荷祭神)

    伏見稲荷(旧上野稲荷祭神)

創建 元禄十五年(1702)以降

祭日 12月14日義士祭

末社

社務所

所在地 東京都墨田区両国3-18-9

その他