秋山和慶 東京都交響楽団 金川真弓(ヴァイオリン)シベリウス プロコフィエフ | ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

(6月14日・東京文化会館大ホール)
シベリウス:交響詩《吟遊詩人》op.64

吟遊詩人の竪琴を模したハープが同じようなアルベッジョを規則正しく繰り返す山場の少ない静かな作品を面白く聴かせるのは難しいと思うが、秋山和慶の手にかかると、起承転結が明確で緊張感が保たれるのはさすがと思った。

 

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47

金川真弓のヴァイオリンを聴くのは初めて。シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、彼女が5年に一度開かれる2015年のシベリウス国際ヴァイオリンコンクールのファイナルでも弾き、映像が下記youtubeでも見られる。ヴィルトゥオーゾ的で見事な演奏だが、上位入賞には至らなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=6kjsSiaGxoI

 

今日実際に聴いた印象は、使用楽器ペトラス・グァルネリウスのダークで男性的な音色を生かしながら、強弱やアーティキュレーションのニュアンスが細やかで、かつ力強いというもの。シベリウスの演奏に適っていると思う。
ただアーティキュレーションの細かな変化に気を配るためなのか、ごくまれに音程が不安定に聞こえることが気になった。それが、聴き手の集中を削いでしまうのが残念。
高音の難しいフラジオレットは完璧に弾くので、技術的な面は問題なく、もったいない気がした。あるいはそうした「揺れ」は彼女の音楽の一部なのだろうか。

 

秋山の指揮は、金川をきっちりサポートすると同時に、ソロとかぶらない箇所では、オーケストラを存分に鳴らし、メリハリがはっきりとしたダイナミックなものだった。

 

プロコフィエフ:交響曲第7 嬰ハ短調 op.131

《青春》という標題付きで紹介されることもあるこの交響曲の本質は、ショスタコーヴィチが作品の裏に隠した本音と似て、プロコフィエフの精一杯の皮肉と落胆、絶望が隠されていることを、今日の秋山都響は明らかにした。

ジダーノフ批判の一貫で交響曲第6番の「形式的傾向」がソ連当局から厳しく批判され、「あえて簡単に書いた」と言って過去の音楽への妥協の道を強いられたプロコフィエフの内面の悲しみが、皮肉な音楽に見えかくれする。

 

例えば第2楽章の3種類のワルツの間に挟まれるプロコフィエフ特有の場違いな強烈な響きや、第3楽章中間部のファゴットが吹く奇妙な旋律、コーダのとって付けたような妙なトランペットのフレーズ。

第4楽章のロンド主題もふざけているとしか思えない馬鹿馬鹿しさが感じられる。コーダで鉄琴が奏でる鳥の声のような動機も皮肉がいっぱいだ。

 

プロコフィエフ自身は曲が寂しく終わるように書いたが、社会主義リアリズムにふさわしくないと批判され、しぶしぶロンド主題で明るく締めるバージョンを付け加えた。今日はその版が使われたが、「言われた通り書きましたよ。これでいいかい?」とプロコフィエフがニヒルな笑いを浮かべているようで、皮肉もここに極めり、という印象を受けた。秋山がこのバージョンを採用した意図は作曲者の本音を示すためだったのではないだろうか。

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