名曲『花嫁』創作の秘密 ~はしだのりひことクライマックス~ 大ヒットの陰の意外な舞台裏 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

先月、京都の同志社大学に行ってきた。
といっても、学外者を対象としたセミナーがあり、それに参加しただけのこと。

自分はかつて一介のサラリーマンだった。

京都の小さな会社の、いわゆる事務屋だった。
入社して最初の上司だった人と、還暦前に仕事の引継ぎをした部下が、ともに同志社の出身だった。
この偶然にむろん意味はない。
勝手に何かしらの因縁を感じていただけのこと。

だからその日初めてこの大学の構内に足を踏み入れると、ついふたりのことを思い出してしまった。
あの宮仕えだった日々は、すでに遠くなりつつある。
いまは老親の世話に手を焼く日々だが、仕事からの解放感を今もありがたく感じる。
読書三昧の日々がうれしい

こうして外に出て、午後の陽光降りそそぐ新緑のキャンパスで、若く元気な学生たちを見るのも新鮮だった。
ただ一方で、わが娘がここの受験に失敗した記憶もよみがえってしまったのだけれど…

この日のセミナー講演者は、著述家というのだろうか、佐藤優だった。
外務省の鈴木宗男事件で逮捕された、あの人である。
講演はSTAP細胞事件がテーマだったのだが、

彼にとって専門外にも関わらず、その該博な知識や見識に圧倒されてしまった。
それほど広くない教室での、すぐ前にいる彼が発するオーラも、尋常ではなかった。

佐藤優は、この同志社の出身だ。
本稿の主人公であるはしだのりひこ(端田宣彦)も、佐藤の先輩にあたる。

拙稿は、その端田がつくった名曲、『花嫁の』創作秘話である。
ことし3月に出た、週刊現代の『熱討スタジアム』という、過去を回想する連載記事をもとにした。
音楽評論家富沢一誠、音楽プロデューサーだった新田和長、そして『花嫁』の作詞者である、きたやまおさむ(北山修)による鼎談である。
『花嫁』からほぼ半世紀が過ぎ、北山が初めて語った舞台裏が、とても興味深かった。

そこで勝手ながら、三人の話を一文にまとめてみた。
そして個人的な思いもからめてみた。

お読みいただければ、ありがたい。

 

 

 

 

日本レコード協会副会長をつとめたことのある新田和長は、早稲田大学在学中、ザ・リガニーズというバンドを組んでいた。68年にはカレッジ・ポップス風の『海は恋してる』で、スマッシュ・ヒットを放っている。卒業後はレコード会社である東芝音楽工業に入社し、オフコースやRCサクセションなどを担当した。

新田がまだ新人ディレクターだったときのことである。フォークソング仲間だった端田から、会社に電話がかかってきた。「いい曲ができたから、今日聴いてほしい」という。しかしその日新田は、三重へ出張することになっていた。すると端田はわざわざ、京都から三重までカセットテープを持ってきた。聴いた新田は「売れる」との直感をおぼえ、旧知の北山修に作詞を依頼することにした。端田と北山は、あのフォーク・クルセダーズのメンバーで、ふたりの組み合わせは自然なものだった。

このころの北山は作詞を主に活動していて、汽車で旅をしながら詞を書くことを楽しみとしていた。あるいはこれも車中だったのか、端田の曲に夜汽車をテーマにした詞を書いた。そして新田に詞をわたす際、「駆け落ちの歌」だと告げる。駆け落ちのイメージは暗い。しかし明るい曲調に合わせ、前向きな詞とした。新しい時代の歌として、女性が主導権を握って、自らの意思で出発する状況を描いた。

この詞にはモデルがいた。北山の母だった。母は父と結婚する際、兵庫県姫路から母方の祖父が暮らす淡路島に渡っていた。戦争直後だったため、子どもを産み育てるためには、ヤギの乳が必要だと島に移り住んだのだ。北山は母が乗った船を汽車に置きかえた。そして夜の空襲で赤く燃える明石の話も聞いていたため、夜汽車とした。「カバンにつめた(略)花嫁衣裳は野菊の花束」は、母が嫁ぐ際に持っていった紙製のトランクを表現した。

レコーディングの際のことだった。ドラムの猪俣猛がミスをした。猪俣は「リズムが走ってしまったのでNGにしてほしい。もうワンテイク叩かせてほしい」と新田に頼んだ。猪俣はトップ・ドラマーで、新田は新人ディレクターである。しかし駆け落ちの高揚感や汽車が走る感覚と、このドラミングは合うと新田は考え、そのままでいくことにした。事実イントロの6小節目のドラムがバタバタと早くなっているが、編曲やサウンドに疾走感が感ぜられるのは、このおかげでもある。命をかけて何があっても帰らないという、決意のあらわれともとれる。

ボーカルの藤沢エミは、端田が決めて連れてきた。そして「はしだのりひことクライマックス」が結成された。このころの端田はエネルギーがあふれていた。北山は振りかえる。北山も新田も端田宣彦という列車に乗って、この歌がつくられていったという。

こうして曲とボーカルの準備も整った。しかし、いざ曲に詞を乗せる日になって事件が勃発した。北山がスタジオに詞を持って行くと、端田が思いもかけないことを告げる。あろうことか、別の人にも作詞を頼んでいたというのだ。新田が依頼したのは、北山だけだった。勝手に端田が動いていたのだ。端田は「こっちの歌詞も一回だけ歌わせてくれ」と頼み込む。新田は当然突っぱねた。だが端田も引かない。あまりの強引さに、新田は一回だけならと了承してしまう。これに怒ったのは北山である。作曲者と作詞者というのは、二人で組んで互いの心の中で交流をして歌を作っていくもの。二人で一人の子どもを生み出してゆく。親が三人もいてどうする。

もうひとつの歌詞を歌い終わった端田は、「これ、良いでしょう」と北山の詞をボツにするよう求めた。むろん新田は認めるわけにはいかない。スタジオが険悪な雰囲気に包まれた。すると、その日偶然見学に来ていた岡林信康がポツリと言った。「『花嫁』のほうがいいんじゃない」。この一言で決着した。

1971年『花嫁』は発売され、シングルチャート1位を獲得する。そして60万枚の売り上げを達成した。のちのミリオンセラーに匹敵する、大ヒットである。だが北山はこのレコーディングの日以来、端田と会うことはなくなった。かつては盟友だったが許すことはできないと、絶交状態となった。新田ともギクシャクした関係になってしまった。

それから43年経った2014年のこと、端田と北山はようやく再会した。端田からの働きかけがあったのだ。そして「お前の作詞の才能を見抜けなかったな。あんないい詞を書くとは思わなかった。ごめん」と、端田はあやまった。

二人は2年後、一緒にコンサートを開いている。端田は長年、パーキンソン病を患っていて、体がかなり不自由になっていた。再会の目的は、死期をさとった端田が北山に謝罪し、最後に一緒に歌いたかったのかもしれない。北山は仲直りするチャンスをくれたと、端田にとても感謝している。

 

 


1971年の紅白歌合戦で歌う藤沢エミ

 

 

 

ブログ後記

ネットの、とある記事によると、『花嫁』のモデルは端田宜彦の妻とある。
北山修が仲睦まじい二人を見て、詞にした。
そして『花嫁』を聴いた彼女は、感涙にむせんだという。
だが当の作者である北山からすれば、それは大いなる誤解だったことになる。

端田は2年前に亡くなった。
端田の妻もすでに故人である。
ゆえに北山はようやく今年になって、「真相」を公にしたのだろう。

自分はこの歌が大好きだ。
聴くと十代の、あのころの甘酸っぱい思い出がよみがえってくる。
だから週刊誌の記事のタイトルを目にしたときはうれしかった。
だが北山が語ったことは、知りたくない話だった。

それでも思ったのは、もし岡林信康がスタジオに居合わせなかったら、『花嫁』は生まれなかったかもしれないということ。
じつは岡林も同志社の学生だった。
つまり端田の後輩にあたる。
母校のわがままな先輩が引きおこした問題を、後輩がみごとに解決したともいえる。

さらに言えば、端田と岡林は同じ神学部だった..
そして岡林は、フォークの神様といわれていた。
この「尊称」が神学部に由来したものかどうかは知らないが、神様のポツリと洩らしたご宣託が、ひとつの名曲を誕生させたといえるだろう。

じつは冒頭に記した佐藤優も、この学部の出身である。
神学という、部外者には窺い知れぬ特殊な学問が、このような個性的な人々を、連綿と輩出し続けているようにも思える。


さてその聴講した佐藤の講演だが、自分はその内容についていけなかった。
彼の本同様、難しすぎた。
STAP騒動という、下世話な部分で興味をもったのだが、あまりに高度すぎる話だった。
身のほど知らずで聴きに来てしまったようだ。


あくびが出そうになった。
教室の外の景色に目をやる。
ぼんやりとした思いがあちこちに飛んでいった。

この大学のOBがいた、過ぎ去りしサラリーマンの日々…
同志社のふたりは、有名校ゆえかプライドが高かった。
とくに最初の上司は、社内のコンピュータシステムを自力で構築した人だったからか、なおさらだった。
だがなぜか、突然会社を辞めてしまった。
そして、そのシステム保守を急遽引き継ぐことになった入社二年目の自分は、以来、ホントに苦労した。

ソロバンしか能がない人間なのに。
でもいまとなっては、いい思い出だ。

娘が望んでいた、このキャンパス…
キリスト教系のこの大学に袖にされ、真逆?の仏教系である女子大に進んだ娘も、嫁いでいってしまった。
まだ二十代前半だった。

もうちょっと手元に置いておきたかった…

週刊誌の『花嫁』の記事を思いだした。
自然とそのイントロが、頭に流れだした。