宮沢賢治が、想い描く・・・『そういうものにわたしはなりたい』を考える・・・誰かのために | 穴井千尋を愛するちーふぁむブログ【HKT48 チームH キャップ】ちひろへの熱い想い

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HKT48 一期生としてAKBグループ最年少
キャプテンとして、創設以来
どちらからと言えば、控えめで
たまにポンコツで。。
でもいつもメンバーと、チームを最優先に
自らを後回しに頑張ってきたちーちゃんを
全面的に応援します。
一千団結しましょう!!

雨にも負けず

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい



実は、この宮沢賢治の詩には実際のモデルがいたって事・・・みなさんは知っていました?

正直なところ、50歳を過ぎた僕でも恥ずかしながら今まで全然知らなくて、宮沢賢治本人が漠然と想い描いていた理想なんだと思っていた・・・ではここで紹介をしてみよう!

そのモデルと言われている人は斉藤宗次郎という人で、岩手県の花巻に生まれ、小学校の教師をしている時に内村鑑三の影響を受けて聖書出会い、クリスチャンになる

しかしその事がきっかけで、涙ぐましい苦労を背負うようになるんだよね・・・

その当時の時代背景としては、キリスト教は『ヤソ教』『国賊』とも呼ばれてて、石は投げられるわ・・親にも勘当され・・教師まで辞めさせられるまでの迫害を受け、近所で家事があったときは放火犯人と疑われて、家族まで迫害を受けるようになる

家のガラスは何ども割られ、家すらも壊されてしまう仕打ち・・・
そして、これ以上の悲劇はないっていう出来事が起こってしまう

最愛の9歳の娘さんが『ヤソの娘』だと言って、腹を蹴られて腹膜炎を起こして亡くなってしまう・・・
(アカン・・書きこみながら、もうすでに涙目・・・・)酷すぎる

でも、斉藤宗次郎はどこもでも怯まなかった

あくまでも神の愛を唱え、キリストの救いを伝え歩き・・・

子供がいればアメ玉をあげ、仕事の合間には病人のお見舞いに出向き、そして励まし・・・そしてその人の為に祈り

雨の日も、風の日もそして雪の日も(岩手なので雪は半端ない)休みなく、町の人のために、祈り、そして働き続けた

周りから『でくのぼう』と言われ続けても、彼は愛を貫き通した

あ、そうそう!ブログの途中だけど、けっしてここで僕は宗教を語るつもりも、キリスト教を擁護、賛美するつもりもない

だからと言って否定もしない・・クリスチャンでも戦争は起こすし、悪いこともする、仏教だって・・・

でも斉藤宗次郎のような聖人のような人もたくさんいるのも事実

何かを信じることは素晴らしい事だと思うし、でも結局問われるのは行動だものね

さて話を戻して


ただただ、この斉藤宗次郎という一人の人間の生き様を垣間見て、驚きと、感動を覚えたのは間違いない事実だね

その後彼は、内村鑑三に招かれて花巻から東京に引越する事になった

花巻を離れる日のこと・・・ 彼はきっと自分の中では、一人寂しく花巻の地を去っていくもんだと思ってたでしょう

しかし、その日彼が目にしたのは、想像もしなかった光景だった

彼が駅に着くとそこには、町長をはじめ町の有力者、学校の教師、生徒、神主、お寺の住職、一般の人、子供、乞食など・・・身動きが取れないほど人が集まり、駅長は停車時間を延長させ、駅を離れるまで徐行で電車を走らせるという配慮までしたというのです

その群衆の中に若い日の宮沢賢治がいた事はいうまでもない

そう言えば、昔若い頃に学校の教師をしてた祖母が僕に言ってた言葉を思い出した・・・

人間の価値って生きてる時はわからないよ!

死んでお葬式の時にどれだけ人の為に生きてきたかがわかるって・・


それは、親戚とか身内とか関係者の参列でなく、如何に多くの知らない今まであったこともない人たちが焼香をあげに来てくれるかだって・・・

身内だからとか、義理があるからとか、仕事の関係だからとかでなくただ故人の為に焼香をあげにきた人たち・・・

故人を偲び、悲しみ耽るそのひと達にとっては、故人は大切な友だった訳だから・・・

斉藤宗次郎はもちろん死んではいないけれども、これでお別れというその際に一目会って町の人たちは別れの挨拶をしたかった訳だから、おんなじような気持ちだったのだろう・・・今までありがとうってね

いままで『でくのぼう』と言って馬鹿にして、ひどい仕打ちをしてきた、あるいは積極的にひどい事をしてなかったけど、でも止めようとせずスルーしてきたこのような町の人たちが、何故このような行動をしたのか?

どうしてかたくなな彼らの心を動かす事ができたのか?

幼い宮沢賢治の人生にとって、忘れられない出来事だった事は誰にでも容易に想像出来る

彼の人生に大いなる影響を与えたと同時に、彼の人生の指標にもなって、宮沢賢治文学の基礎にもなったのだろう

誰かのために・・・そう特定の人でなく、もちろん身内、知人の為でもない、見ず知らずの人であろうとなかろうと・・・愛し続ける事

それは、前回の投稿で取り上げたアガペーの愛(博愛)が彼にあって、貫き通した愛の姿に町の人たちは少しずつ心を打たれて来ていたんだと思う

でも、ああいう当時の時代背景の中では勇気をもって斉藤宗一郎の味方をすることなど到底できなかったのもわかるような気がする

誰でも自分が可愛いいからね自分も同じように迫害を受けたくはないものね・・・

誰かのために・・・改めて自分は何が出来るだろう?見返りを求めず、自己満足でもない、押しつけでもない愛

半世紀生きてきた自分は、今まで何をやったきたんだろう?って
自問自答してみた・・・否・・・

胸を張って言える事など何一つない

でも今からでも遅くないって思った・・・あと何十年生きれるかはわからないけれど・・・誰かのために今出来る事を模索しながらでも・・・

東北の大震災以降、その想いは強くなったきた

宮沢賢治の詩の朗読会なんかも、震災以降多くなってきてるのも、みんなが心の在り方を自分自信に問いかけだしているのかもしれないね

まだまだ、僕自身やり残した事がたくさんあるように思う

長々と書き綴ってみたけど、纏まってたかどうかは疑問です^^;

でも宮沢賢治のように、『そういうものにわたしはなりたい』と願い、想い続ける日々でありたいと願う、今日このごろです