ベトナム独立戦争に元日本兵600人も参加していた | 毘沙門天の隠れ家

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いたそうだが…だとしたら脱け殻に拝んでも
意味無いじゃん!!プププ♪

気まぐれで更新します。許してニャン♪(笑)


ベトナムの人々は韓国軍に抹殺された村ごとに碑を建て事件を語り継いでいる。



      韓国人憎悪の碑】










フランス領からの独立を目指したインドシナ戦争から始まった長い戦闘。


武力攻撃が開始された1960年から1975年のサイゴン陥落まで15年に及んだ長いベトナム戦争の歴史の中で韓国が参戦したのは僅か5年だった。


だが、ベトナム戦争の勝利者はベトナムである。米国でもまして韓国でもない。


インドネシア独立に参加した元日本兵同様、このベトナムの独立には元日本兵が残留し義勇軍としてベトナム軍を指導した。

ホー・チ・ミン軍ベトナム独立同盟(ベトミン)に参加した元日本兵たち


2005年9月20日の産経新聞

 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。



元日本兵の墓




抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。


井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。

元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。






なお、ウィキペディアには第一次インドシナ戦争に関して次のような記述もある。

 1945年8月15日に日本が降伏すると、すかさずホー・チ・ミン(グエン・アイ・コック - 阮愛国)率いるベトナム独立同盟(ヴェトミン)はベトナム八月革命によって権力を奪取、臨時ベトナム民主共和国政府が成立し日本が降伏文書に調印し戦争が終結した9月2日に、ハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言した。時期同じくして、在地フランス人と日本軍の捕虜となったフランス軍人らが主となりサイゴンにて植民軍の再編成を実施、9月2日の独立宣言は両者の衝突を招いた。〈中略)8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部の部隊や軍人はべトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したりした。(中略)1946年6月1日にベトミンは独立戦争の長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始めた。




戦後の韓国は?と言うと・・・

自分たちが行った残虐行為は、反省も謝罪も補償もせず、日本からは莫大な援助やODAを得ておきながら、何度でも繰り返し繰り返し変質的な反日行動と海外諸国への中傷や捏造のロビー活動を繰り返す南朝鮮人。

 ことの始まりは、朴正煕が日韓基本条約で日本から莫大な援助を得て、技術協力や人的協力を得てはじめて奇跡の経済大発展を成し遂げたにも係わらず、全てを朴正煕個人の功績とするために、すべてを隠し、歴史まで改ざんし、良いことは自分の功績、悪いことはすべて日帝の所為と、学校教育から捏造をさせたために起こった。



日韓基本条約】

1965年の日韓基本条約において
無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドルを支払っている。合計して8億ドルである。
この金額は当時のものであるので、貨幣価値を今の時代に換算してみる。
有償、借款含む(何故なら利息を含めびた一文の返済も無いので)

・(円換算)8億ドル×360円(当時1ドル=360円)=2880億ドル
・(物価換算)2880億円×10(当時の大卒初任給が約2万円)=2兆8800億円

これを、韓国が主張する通りに、
強制連行労働者70万人、従軍慰安婦20万人の合計90万人の賠償対象者で割ると
(強制連行、従軍慰安婦など実際はなかったという議論は当然あるが、
ここでは韓国の主張を100%飲んだ数字で算出する。)

・(強制徴用者被害者一人換算)2兆8800億円÷90万人=320万円/人

これで比較できる金額が出た。さて次はこれが高いかどうかである。
よく、ドイツは戦後十分な補償をしている。
ドイツを見習えとか言う人や新聞社がありますのドイツを参考にしよう。
ドイツの強制労働者への賠償は、現在価値換算で30万~80万円で、
一番高いユダヤ人の奴隷労働者でも80万円である。
これで客観的に見ても日本の韓国に対する戦後賠償が非常に高い水準であったことがわかる。


尚、無償、有償あわせて合計8億ドルという額は
当時の韓国の国家予算の2.3倍であり、いかに高かったかが分かる。
ちなみにこの賠償額は、朝鮮半島全地域が対象であり、
韓国政府が「北朝鮮を統一したら北の人に支払うから北の分もくれ」と言って持って行った額である。

さらに、日本は戦前韓国に残した資産を放棄している。
これはインドが英国から独立したとき、イギリス人がインドに持っていた個人資産が個人に返却されたという前例があるように、十分に戦後賠償として通用する行為である。
驚くべきはその額であり、総司令部民間財産管理局の調査では、軍事用資産を除き計53億ドルであった。
(大蔵省財政史室編『昭和財政史。終戦から講和まで』東洋経済新報社)
 
つまり、日本は韓国に対して戦前資産53億ドル、
戦後賠償8億ドルもの巨額の賠償を行っている。
そして日韓基本条約には、以下の言葉が記されている。
「戦後処理は完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」
(協定第二条1) 







しかし条約締結の後、韓国は日本からの清算金を個人の賠償対象者に支払うことなく、国家発展のために活用した。「漢江の奇跡」と言われた韓国の経済成長が韓国人の努力とともに、この南北朝鮮を対象として支払われた清算金を原動力としてなされたことは疑うべくもない。

そして韓国政府は驚くべきことにこの条約のことを国民に知らせていない。
個人に支払わず国家発展に流用したことを隠す為であろうか。
それとも反日感情をいつまでも煽る為であろうか。もしくはその両方か。

その為韓国人は未だに日本が賠償責任を果たしていないと思いこみ、憤慨し、
日本で終わった賠償問題について訴訟を起こしているのであり、
日本と韓国の間の大きな溝の一つはそこにある。
このことを韓国国民はもちろん、日本人も良く知る必要があると思う。
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/11256231.html 
http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/compensation.html


日本からの支援
・8億ドル+α(経済協力金)1965年
・40億ドル(特別経済協力金)1983年 追加
・100億ドル(通貨危機救済金)1997年 追加
・200億ドル(ウォン高救済基金)2006年 追加 
・日本が放棄した韓国の戦前資産53億ドル


おかわりし過ぎ

有償、借款は返済せよ( ̄へ  ̄ 凸