金剛般若経 訳1 | 覚書き

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金剛般若経

 

 

『生きとし生けるもの、
卵から、生まれ出たもの、
母胎から、生まれ出たもの、
湿気により、生まれ出たもの、
他から生れず、自ら生れたもの、
形のあるもの、と、形のないもの、
想のあるもの、また、想のないもの、
想があるでもなく、ないでもないもの、
そのほか、ありとあらゆる生けるものを、
私は、無余涅槃に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』

 

 

「もし、自我や生命という実体に、囚われたり、もし、個体や個人という実「体に、囚われるなら、もはや、かれは、菩薩とは、言えないからである。」

 

 

「もし菩薩が、囚われることなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという、思いに囚われずに、施すのだ。」

 

 

「菩薩は、実体があるとも、実体がないとも思わず、思う思いも、思わない思いも、抱かないからである。」

 


「もし、彼が、実体がないと考えるなら、考える、つまり、実体があると考えるなら、彼にも、自我に対する執着があることになる。」


「菩薩は、法則に囚われてもいけない。また、非法則に囚われてもいけないのだ。」

 

 

「『川を渡るには、筏が必要となる。川を渡り終えたら、筏は不要となる。いつまでも、筏に囚われてはならない。』」

 

 

「法さえも、棄てなければならないのに、まして、法でないものは、なおさらである。」

 

 

「師よ、私が師の教えを解した処によると、如来をして、作り出された法は、有り得ない。如来をして、説き示された法さえ、有り得ない。というのも、如来が体現された、絶対の一元とは、作り出す事も、説き示す事も、出来ないものだから。それは、絶対そのものによって、現すしかありません。」

 

『積徳とは、積む積まないを越えている。すなわち、受け容れることが、功徳となる』

 

 

「善男子、善女子が、十億の世界を七宝で満たし、如来、応供、正等覚の者に、布施をしたとしても、
この法則を、人々に説き明かした方が、功徳になる。というのも、如来の悟りも、そこから、生じたゆえに。」


『仏法とは、仏法に囚われないから、仏法となる』

 

 

「如来が体現された、絶対の一元とは、作り出す事も、説き示す事も、出来ないものだから。
それは、絶対そのものによって、現すしかありません。」

 

 

「特徴があると断じれば、偽りであり、特徴がないと断じるなら、偽りである。特徴があること、かつ、特徴がないこと、その両方から、如来を見なければならない。」

 

 

「善男子、善女子が、十億の世界を七宝で満たし、如来、応供、正等覚の者に、布施をしたとしても、この法則を、人々に説き明かした方が、功徳になる。というのも、如来の悟りも、そこから、生じたゆえに。」」
 

 

「このように、莫大な功徳を積んだとしても、この法則を、説き明かした方が、功徳になる。なぜなら、それを聞いた人も、功徳を積むから。」

 

 

『仏法とは、仏法に囚われないから、仏法となる』

 

 

「彼は、何かを得ているわけでもないから。逆に、それゆえに、預流向と言われている。彼は、形、声、香、味、触、法を得ていない。逆に、それだからこそ、預流向と言われている。もし、彼が、自ら何かを得ていると、考えるなら、彼には、自我に対する執着が残っていることになる」

 

 

「「如来、応供、正等覚は、私のことを、煩悩を越えた第一人者と、仰られました。たしかに、私は阿羅漢、煩悩を越えている。しかし、わたしは、その考えに囚われません。もし、わたしが、その考えに囚われるようなら、煩悩を越えた第一人者と、如来に言われないはず。」

 

 

「世尊よ、菩薩は、仏土に至りません。仏土とは、至る、至らないを、越えた処。仏土に至ると言えば、至らないことになる。」

 

 

「「スブーティよ、あなたは、どう思うか。須弥山の如く、大きな体の者がいたとして、彼の体は、大きいだろうか、小さいだろうか。スブーティ長老は、師に、こう答えた。「世尊よ、それは、それは、大きい。
というのも、如来は、このように説く。『体は、実体がない、それゆえに、空だ』」

 

 

「スブーティよ、智慧の完成である。まさに、このように、記憶するが良い。というのも、如来は、こう説かれている。『説かれた知恵は、現われる智慧ではない。それを悟ることこそ、まさしく、智慧の完成』」

 

 

『数えられた塵とは、実際の塵ではない。区切られた世界とは、真実の世界ではない。だからこそ、世界と、名付けることができる』

 

 

『説き明かされた、如来の三十二相とは、現れ明かされる、如来の三十二相ではない。だからこそ、三十二相と、説くことが出来る』

 

 

「スブーティよ、こう考えなさい。ガンジス河の、砂の数ほどの長い間、誰かが、己の体を捧げ続けたとしても、この法を、説き明かす法が、功徳になる。実体なき法が、実体なき徳に、変わるから。」

 

 

「ガンジス河の、砂の数ほどの長い間、誰かが、己の体を捧げ続けたとしても、この法を、説き明かす法が、功徳になる。実体なき法が、実体なき徳に、変わるから。」

 

 

「師よ、実に、彼らには、自己、人生、個人、個体という思い、思いという思い、思わないという思い、このような思いなど、生じることがない。仏陀とは、一切の思いを離れたものゆえに。」

 

 

「「スブーティよ、実に、その通りである。この法を聞いて、恐怖せず受け容れる者は、最上の功徳を成就する者と、わたしは心得る。なぜなら、如来は、このように説かれている。『完成と未完成を、超えたものこそ、最上の完成』飽くことなく、完成を求めることこそ、最上の功徳。なぜなら、如来は、このように説かれている。『完成と未完成を、超えたものこそ、忍辱の完成』飽くことなく、完成を求めることこそ、最上の忍辱。」

 

 

「スブーティよ、かつて、ある悪魔が、私の体から、肉を切り取ったことがある。その時さえ、いかなる思いも生じなかった。思うという思い、思わないという思いもない。もし、あの時に、自己があったなら、その時に、怨恨の念が湧いていただろう。もし、あの時に、種々の観念があったなら、その時に、怨恨の念が湧いていたに違いない。スブーティよ、わたしは、過去世に、忍辱を説く者という名の、仙人であった。
その時も、私は、種々の観念を離れていた。それ故、あの時も、種々の観念を離れたのだ。」

 

 

「菩薩たるもの、一切の観念を捨て、菩提の心を、起こさなければならない。形に囚われた、心を起こしてはならない。声、香、味、触、法に囚われてもいけない。無論、法でないものにも囚われてもいけない。」


「菩薩たるもの、一切の衆生の為に、囚われぬ布施を、しなければならない。というのも、如来は、こう説かれている。『一切の衆生は、いつまでも衆生ではない』如来は、真実を語り、虚偽を語ることはない。」


「スブーティよ、如来が悟る処の法。この法には、実体もなく、虚偽もない。もし、法に囚われて、布施をしたならば、眼が見えても、闇で見えないようなものだ。もし、法に囚われないで、布施をしたならば、
眼が見えれば、日が昇れば見えるようなものだ。」

「スブーティよ、善男子、善女子が、この法を、よく受持し、読誦するなら、如来は、智慧により、彼らの悉くを知り、彼らが、無量の功徳を成就することを知る。」

 

 

 

「こうして、無限に長い期間、身を捧げても、この法則を謗らない方が、莫大な功徳となる。
況や、この法則を説き明かすなら、尚更である」

 

 

「この法は、不可思議にて無比。如来は、この法を、大乗を求む者、最上乗を求む者のために、説かれた。この法を、よく受持し、読誦するなら、如来は、智慧により、彼らの悉くを知り、彼らが、無量の功徳を成就することを知る。彼らは、皆、菩提を与かることになるだろう。」

 

 

「なぜなら、小乗に止まる者は、我が法、人の法、世の法に囚われ、この法を、受け容れられない、から。
この法を、彼に説けず、彼は説けない。菩薩の発願をしない者には、聞こえない。」

 

 

「どの地方でも、この法則を説き明かせば、その地方は、天界と修羅を含む世界にとって、最大の尊敬を払われるべき、塔廟に等しくなる。」

 

 

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある時、師は、千二百五十人の比丘と、
サーヴァッティ市の、ジェータ林にある、
人々に食を施す、長者の園に滞在していた。

師は、朝の内に、下衣を着け、鉢と上衣を取り、
サーヴァッティの町を、食を乞いながら歩かれた。
師は、食事を得て、食べ終わると、托鉢から帰られ、
設けられた座に、体を伸ばして座り、精神を集中した。
すると、比丘たちは、右繞の礼をした後、傍らに座った。

 

第二章

丁度、その時、スブーティ長老も、
その同じ集まりに、来合わせていた。
スブーティ長老は、座から立ち上がり、
師の居られる方に合掌して、こう言った。

「師よ、素晴らしいことです。
如来、応供、正等覚、によって、
菩薩が最上の恩恵に包まれるとは。
菩薩に最上の委嘱が与えられるとは。
ところで、師よ、菩薩に向かう人々は、
いかに生活し、いかに心を保つのですか。」

師は、スブーティ長老に対して、こう答えた。

「スブーティよ、あなたの言う通りだ。
如来は、菩薩を最上の恩恵で包んでいる。
如来は、菩薩達に最上の委嘱を与えている。
故に、スブーティよ、よく聞いてよく考えよ。
菩薩が、いかに生活し、いかに心を保つのかを。」

スブーティ長老は、師に向かって、こう答えた。

「そうして下さいますように、師よ。」

 

第三章

師は、このように話し出された。

「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、
次のような心を、起こさなければならない。」

『生きとし生けるもの、
卵から、生まれ出たもの、
母胎から、生まれ出たもの、
湿気により、生まれ出たもの、
他から生れず、自ら生れたもの、
形のあるもの、と、形のないもの、
想のあるもの、また、想のないもの、
想があるでもなく、ないでもないもの、
そのほか、ありとあらゆる生けるものを、
私は、無余涅槃に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』

「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、生きものという実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩と、言えないからである。」

「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
もし、自我や生命という実体に、囚われたり、
もし、個体や個人という実体に、囚われるなら、
もはや、かれは、菩薩とは、言えないからである。」

 

第四章

「また、スブーティよ、菩薩たるもの、
何かに囚われて、施しをしてはならない。
形に囚われながら、施しをしてはならない。
声、香、味、触、法についても、同様である。
果報を求めるという、思いに囚われないように、
スブーティよ、菩薩は施しをしなければならない。」

「それは、何故かと言うと、スブーティよ。
もし菩薩が、囚われることなく施しをすれば、
その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。
スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これと同じように、
南や、東や、北や、下や、上の方角の、
あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これらと同じことである。
もし菩薩が、囚われることなく施しをすれば、
その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、
果報を求めるという、思いに囚われずに、施すのだ。」

第五章

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来には特徴があると、見るべきだろうか。」

「師よ、そう見るべきではありません。
というのも、如来は、こう説かれてます。
『特徴があること、とは、特徴がないこと』」

「スブーティよ、こう考えなさい。
特徴があると断じれば、偽りであり、
特徴がないと断じるなら、偽りである。
特徴があること、かつ、特徴がないこと、
その両方から、如来を見なければならない。」

 

第六章

スブーティ長老は、師に、このように尋ねた。

「師よ、これから先、後の時世になって、
第二の五百年代、正しい教えが滅びる頃に、
このような経典の言葉が、説かれたとしても、
それを真実だと思う人が、誰かいるでしょうか。」

師は、スブーティ長老に、このように答えた。

「スブーティよ、そう考えてはならない。
第二の五百年代、正しい教えが滅びる頃に、
このような経典の言葉が、説かれるときには、
それを真実だと思う人が、誰かいるに違いない。」

「また、これから先、後の時世になって、
第二の五百年代、正しい教えが滅びる頃に、
徳が高く、戒を守り、智が深い、菩薩ならば、
このような経典の言葉が、正しく説かれるとき、
スブーティよ、それを真実だと思うに、違いない。」

「菩薩は、一人の仏陀に帰依をする訳ではない。
既に、幾千万の仏陀に帰依し続けているのである。
それゆえ、このような経典の言葉が、説かれるとき、
彼らは、ひたすら清らかな信を、得るに違いないのだ。」

「この後、菩薩が、膨大な功徳を積むことを、
如来は、よく知っているし、よく見ているのだ。
菩薩は、実体があるとも、実体がないとも思わず、
思う思いも、思わない思いも、抱かないからである。」

「もし、彼が、実体があると考えるなら、
彼に、自我に対する執着があることになる。」

「もし、彼が、実体がないと考えるなら、
考える、つまり、実体があると考えるなら、
彼にも、自我に対する執着があることになる。」

「菩薩は、法則に囚われてもいけない。
また、非法則に囚われてもいけないのだ。
この極意が、筏の比喩に、よく現れている。」

『川を渡るには、筏が必要となる。
川を渡り終えたら、筏は不要となる。
いつまでも、筏に囚われてはならない。』

「法さえも、棄てなければならないのに、
まして、法でないものは、なおさらである。」

 

第七章

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
如来をして、作り出された法が、あるだろうか。
如来をして、説き示された法が、あるのだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、私が師の教えを解した処によると、
如来をして、作り出された法は、有り得ない。
如来をして、説き示された法さえ、有り得ない。
というのも、如来が体現された、絶対の一元とは、
作り出す事も、説き示す事も、出来ないものだから。
それは、絶対そのものによって、現すしかありません。」

第八章

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
善男子、善女子が、十億の世界を七宝で満たし、
如来、応供、正等覚の者に、布施をしたとすると、
彼らは、大いなる功徳を、積んだ事になるだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、彼らは、功徳を積んでいる。
というのも、如来は、こう説いている。
『積徳とは、積む積まないを越えている。
すなわち、受け容れることが、功徳となる』」

師は、スブーティ長老に対して、こう言った。

「スブーティよ、あなたは、こう考えなさい。
善男子、善女子が、十億の世界を七宝で満たし、
如来、応供、正等覚の者に、布施をしたとしても、
この法則を、人々に説き明かした方が、功徳になる。
というのも、如来の悟りも、そこから、生じたゆえに。」

「というのも、如来は、このように説いている。
『仏法とは、仏法に囚われないから、仏法となる』」

 

第九章

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
預流向の者が、自らを預流果と考えるだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、そういうことは、ありません。
彼は、何かを得ているわけでもないから。
逆に、それゆえに、預流向と言われている。
彼は、形、声、香、味、触、法を得ていない。
逆に、それだからこそ、預流向と言われている。
もし、彼が、自ら何かを得ていると、考えるなら、
彼には、自我に対する執着が残っていることになる。」

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
一来向の者が、自らを一来果と考えるだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、そういうことは、ありません。
彼は、何かを得ているわけでもないから。
逆に、それゆえに、一来向と言われている。
彼は、形、声、香、味、触、法を得ていない。
逆に、それだからこそ、一来向と言われている。
もし、彼が、自ら何かを得ていると、考えるなら、
彼には、自我に対する執着が残っていることになる。」

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
不還向の者が、自らを不還果と考えるだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、そういうことは、ありません。
彼は、何かを得ているわけでもないから。
逆に、それゆえに、不還向と言われている。
彼は、形、声、香、味、触、法を得ていない。
逆に、それだからこそ、不還向と言われている。
もし、彼が、自ら何かを得ていると、考えるなら、
彼には、自我に対する執着が残っていることになる。」

師は、スブーティ長老に対して、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、如何に考えるか。
阿羅漢の者が、自らを阿羅漢と考えるだろうか。」

スブーティ長老は、師に対して、こう答えた。

「師よ、そういうことは、ありません。
彼は、何かを得ているわけでもないから。
逆に、それゆえに、阿羅漢と言われている。
彼は、形、声、香、味、触、法を得ていない。
逆に、それだからこそ、阿羅漢と言われている。
もし、彼が、自ら何かを得ていると、考えるなら、
彼には、自我に対する執着が残っていることになる。」

「如来、応供、正等覚は、私のことを、
煩悩を越えた第一人者と、仰られました。
たしかに、私は阿羅漢、煩悩を越えている。
しかし、わたしは、その考えに囚われません。
もし、わたしが、その考えに囚われるようなら、
煩悩を越えた第一人者と、如来に言われないはず。」

 

第十章

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来が、ディーンパンカラ仏の元において、
法において、得たものが、何かあるだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「世尊よ、そういうことは、ありません。
如来が、ディーンパンカラ仏の元において、
法において、得たものは、何一つありません。」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、心においては、どうか。
菩薩は、仏土に、至るのか、至らないのか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「世尊よ、菩薩は、仏土に至りません。
仏土とは、至る、至らないを、越えた処。
仏土に至ると言えば、至らないことになる。」

師は、スブーティ長老に、こう言った。

「スブーティよ、まさに、その通りだ。
まさに、こうして、囚われてはならない。
形に囚われて、心を、揺らしてはならない。
声、香、味、触、法についても、同様である。」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
須弥山の如く、大きな体の者がいたとして、
彼の体は、大きいだろうか、小さいだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「世尊よ、それは、それは、大きい。
というのも、如来は、このように説く。
『体は、実体がない、それゆえに、空だ』」

第十一章

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
ガンジスの砂の数だけ、ガンジス河がある。
その時、ガンジス河の砂の数は多いだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、ガンジス河の数さえ、多くなる。
まして、ガンジス河の砂の数は、なおさら。」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「その数の世界を、すべて七宝で満たし、
如来に施したものが、ここにいたとしよう。
彼は、莫大な功徳を積んだことに、なるのか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、計り切れない、数え切れない。
彼は、莫大な功徳を積んだことでしょう。」

師は、スブーティ長老に、こう言った。

「スブーティよ、ここまで、考えなさい。
このように、莫大な功徳を積んだとしても、
この法則を、説き明かした方が、功徳になる。
なぜなら、それを聞いた人も、功徳を積むから。」

 

第十二章

師は、スブーティ長老に、こう言った。

「どの地方でも、この法則を説き明かせば、
その地方は、天界と修羅を含む世界にとって、
最大の尊敬を払われるべき、塔廟に等しくなる。」

「ましてや、この法則を余す所なく記憶し、
他の人々のために、説き明かす者がいるなら、
彼は、最高の智慧を備えた者となるに違いない。」

 

第十三章

スブーティ長老は、師に、こう尋ねた。

「師よ、この教えは、何と言うのですか。
この教えを、どのように記憶するのですか。」

師は、スブーティ長老に、こう答えた。

「スブーティよ、智慧の完成である。
まさに、このように、記憶するが良い。
というのも、如来は、こう説かれている。
『説かれた知恵は、現われる智慧ではない。
それを悟ることこそ、まさしく、智慧の完成』」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来によって、説かれた法があるだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、そういうものは、ありません。
如来によって、説かれた法は、何もない。」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
広大な宇宙の、大地の塵は、多いだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、それは、それは、多いかと。
というのも、如来は、こう説いている。
『数えられた塵とは、実際の塵ではない。
区切られた世界とは、真実の世界ではない。
だからこそ、世界と、名付けることができる』」

師は、スブーティ長老に、こう尋ねた。

「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来は、偉大な人物に現われると言われる、
三十二の特徴により、見分けられるだろうか。」

スブーティ長老は、師に、こう答えた。

「師よ、見分けられはしない、かと。
というのも、如来は、こう説いている。
『説き明かされた、如来の三十二相とは、
現れ明かされる、如来の三十二相ではない。
だからこそ、三十二相と、説くことが出来る』」

師は、スブーティ長老に、こう言った。

「スブーティよ、こう考えなさい。
ガンジス河の、砂の数ほどの長い間、
誰かが、己の体を捧げ続けたとしても、
この法を、説き明かす法が、功徳になる。
実体なき法が、実体なき徳に、変わるから。」

第十四章

その時、法に心を打たれ、涙を流し、
スブーティ長老は、師に、こう言った。

「師よ、これは、素晴らしいことです。
如来により、この法則が説かれたことは。
この法により、私に智慧が現われたことは。」

「師よ、わたしは、このような法則を、
いまだかつて、聞いたことがありません。
この法を聞いて、真実だ、と考える菩薩は、
最上の功徳を成就する者と、わたしは心得る。
というのも、如来は、このように説かれている。
『現実と非現実を、超えたものこそ、真実である』」

「師よ、この法が説かれているときに、
それを解することは、さほど難しくない。
しかし、像法の時代に、それを解すること、
また、人に説き明かすのは、いかに難しいか。
それが出来る者は、稀有であると、私は心得る。」

「しかし、師よ、実に、彼らには、
自己、人生、個人、個体という思い、
思いという思い、思わないという思い、
このような思いなど、生じることがない。
仏陀とは、一切の思いを離れたものゆえに。」

師は、スブーティ長老に、こう言った。

「スブーティよ、実に、その通りである。
この法を聞いて、恐怖せず受け容れる者は、
最上の功徳を成就する者と、わたしは心得る。」

「なぜなら、如来は、このように説かれている。
『完成と未完成を、超えたものこそ、最上の完成』
飽くことなく、完成を求めることこそ、最上の功徳。」

「なぜなら、如来は、このように説かれている。
『完成と未完成を、超えたものこそ、忍辱の完成』
飽くことなく、完成を求めることこそ、最上の忍辱。」

「スブーティよ、かつて、ある悪魔が、
私の体から、肉を切り取ったことがある。
その時さえ、いかなる思いも生じなかった。
思うという思い、思わないという思いもない。」

「もし、あの時に、自己があったなら、
その時に、怨恨の念が湧いていただろう。
もし、あの時に、種々の観念があったなら、
その時に、怨恨の念が湧いていたに違いない。」

「スブーティよ、わたしは、過去世に、
忍辱を説く者という名の、仙人であった。
その時も、私は、種々の観念を離れていた。
それ故、あの時も、種々の観念を離れたのだ。」

「菩薩たるもの、一切の観念を捨て、
菩提の心を、起こさなければならない。
形に囚われた、心を起こしてはならない。
声、香、味、触、法に囚われてもいけない。
無論、法でないものにも囚われてもいけない。」

「菩薩たるもの、一切の衆生の為に、
囚われぬ布施を、しなければならない。
というのも、如来は、こう説かれている。
『一切の衆生は、いつまでも衆生ではない』
如来は、真実を語り、虚偽を語ることはない。」

「スブーティよ、如来が悟る処の法。
この法には、実体もなく、虚偽もない。
もし、法に囚われて、布施をしたならば、
眼が見えても、闇で見えないようなものだ。
もし、法に囚われないで、布施をしたならば、
眼が見えれば、日が昇れば見えるようなものだ。」

「スブーティよ、善男子、善女子が、
この法を、よく受持し、読誦するなら、
如来は、智慧により、彼らの悉くを知り、
彼らが、無量の功徳を成就することを知る。」

 

第十五章

「また、スブーティよ、ある者が、
朝方に、大河の砂の数ほど身を捧げ、
昼間にも、大河の砂の数ほど身を捧げ、
夕刻にも、大河の砂の数ほど身を捧げる。
こうして、無限に長い期間、身を捧げても、
この法則を謗らない方が、莫大な功徳となる。
況や、この法則を説き明かすなら、尚更である。」

「この法は、不可思議にて無比。
如来は、この法を、大乗を求む者、
最上乗を求む者のために、説かれた。
この法を、よく受持し、読誦するなら、
如来は、智慧により、彼らの悉くを知り、
彼らが、無量の功徳を成就することを知る。
彼らは、皆、菩提を与かることになるだろう。」

「なぜなら、小乗に止まる者は、
我が法、人の法、世の法に囚われ、
この法を、受け容れられない、から。
この法を、彼に説けず、彼は説けない。
菩薩の発願をしない者には、聞こえない。」

「どの地方でも、この法則を説き明かせば、
その地方は、天界と修羅を含む世界にとって、
最大の尊敬を払われるべき、塔廟に等しくなる。」

 

第十六章

「スブーティよ、善男子、善女子が、
この経典を、よく受持し、よく読誦し、
人に説き明かして、辱めを受けるならば、
それで、前世の悪業が落ちているのである。
悪業を清算してこそ、仏陀の菩提が現われる。」

「私には、ありありと思い出される。
遠い昔に、ディーパンカラ仏が居られ、
遥か遠い昔に、無数の仏陀方が居られた。
私は、心から喜んで、彼らに奉仕し続けた。」

「わたしは、奉仕を止めなかったが、
この経典を、よく受持し、よく読誦し、
後の末法において、人に説き明かすなら、
その功徳は、我が功徳の何億倍にもなろう。」

「この経典は、実に、不可思議であり、
その果報も、まさしく、不可思議である。
この経典の果報を、具に聞いた者の中には、
心が乱れて、気が狂う者さえ、現れるだろう。
囚われない法則である、その果報も囚われるな。」