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 アメリカでは、建国以来、政権交代があると、主要官庁の幹部のみならず、下級役人や町の郵便局長まで交代させられた。これを猟官制度(spoils system)と呼ぶ。こうなると、官僚が政治に翻弄されることにもなり、近代官僚制が損なわれる危険性がある。

 アメリカ大統領選挙の結果がどうなるかは予測できないが、トランプ勝利の可能性は十分にある。日本をはじめ諸外国も、「もしトラ」に備えて、トランプ・シフトをとりつつある。

 トランプは、「腐敗したワシントンに民主主義を取り戻すために、質の悪い官僚たちを排除する」と述べている。トランプは大統領任期が終わる直前の2020年に大統領令を発令し、仕事ぶりの悪い連邦政府の役人を解雇できる道を開いた。しかし、次期大統領に当選したバイデンは、この大統領令を失効させている。

 もし、11月にトランプが当選すれば、4年前の大統領令を復活させる予定である。そうなると、かつての猟官制度の復活ということになり、官僚の任用は、能力ではなく、トランプへの忠誠度が基準になってしまう。

 従来は、政権交代に際して閣僚などトップ行政官約4千人が交代する慣わしであったが、これに加えて、約5万人が政治任用されるという。官僚機構の能力低下が懸念される。

 2009年9月から2012年12月まで民主党政権となったが、外交防衛政策をはじめ多くの政策分野で大きな転換はなかった。

 2012年12月の総選挙で政権復帰した自民党は、民主党政権に協力的であった幹部官僚たちを左遷した。選挙で選ばれた政権に官僚が協力するのは当然の義務であるが、この自民党の安倍政権の対応は問題であった。この結果、優秀な役人が抜けた省庁では政策の効果的な遂行ができなくなった。厚生労働省の新型コロナウイルス対策がその典型例である。

 霞ヶ関の省庁の縄張り争いについて、かねてから「省あって国なし、局あって省なし」と言われるような状況であった。そこで、この縦割り行政を改革し、一省庁のためではなく、国家全体のために働く官僚を養成するという名目で、2014年5月30日に創設されたのが内閣人事局である。この組織は内閣官房の下に置かれ、内閣が各省庁の幹部職員の人事を一元的に扱うことに決まった。

ところが、実際に運用してみると、プラスよりもマイナスのほうが大きくなった。制度自体に問題があるのではなく、運用に歪みがあったのである。

 人事権が官邸に移るということは、皆出世したいので、幹部官僚は官邸のご機嫌を伺うようになる。それが、森友、加計、「桜を見る会」に見られるような忖度行政につながったのである。

 しかも、各官庁から派遣される首相の秘書官の在任期間が長すぎた。首相であれ、大臣であれ、秘書官は2年くらいで後退させるのが普通であり、首相や大臣の好き嫌いや好みが考慮されるわけではない。

 ところが、安倍政権の下では、それとは逆のことが行われた。その結果、選挙で選ばれたわけでもない官僚が異常な権力を持ち、世間の常識も通じなくなってしまった。アベノマスク、アベノコラボ、GoToTravelキャンペーンなど、失敗が山積した。結局、この人事がコロナ対策の失敗を生み、安倍退陣を早めたのだから皮肉のものである。

 官僚と政治家の関係をどうするのか、民主主義の大きな課題である。

 3月31日に行われたトルコの統一地方選は、レジエップ・タイイップ・エルドアン大統領(70)の与党が惨敗した。イスタンブールやアンカラでは、野党候補が勝った。エルドアン政権にとっては、大きな打撃である。

 イスタンブール市長選では、最大野党の共和人民党(CHP)の現職のエクレム・イマモールが51.1%を得票し、与党、公正発展党(AKP)のムラト・クルム候補の39.6 %を大きく引き離した。また、首都アンカラでもCHPの現職のマンスール・ヤワシュが60.4%を得票し、与党候補(31.7%)に勝っている。この2都市で与党が市長職を奪還できなかったことは、エルドアン政権にとっては大きな失敗である。

 その他、大半の主要都市でCHPが圧勝した。主要30都市のうち、イズミル、アンタルヤなど14都市で勝っている。AKPが勝ったのは12都市のみである。伝統的なAKPの地盤である中部でもCHPが勢力を拡大した。全国81市長選のうち35でCHPが勝利した。AKPは24市で勝っている。

 全体の得票率は、CHPが37.76%、AKPは35.48%であった。前回の2019年の地方選と比べると、AKPは9%の得票減である。

 エルドアンは、1991年の総選挙に立候補するも落選したが、1994年3月にはイスタンブール市長選に立候補し、当選した。2001年8月にはAKPを結成し、党首に就任した。2003年3月には国会議員に選出され、首相に就任した。2007年7月には国会議員に再選され、8月には第2次エルドアン内閣を発足させた。2011年6月には国会議員に3選され、7月に第3次内閣を組閣した。

2014年8月に、トルコ初の直接選挙による大統領選挙で当選した。それ以前は議会が大統領を選んでいた。

 2017年には大統領権限の拡大を目的とした憲法改正を実現させ、2018年の大統領選挙で再選された。しかし、2023年の大統領選挙では野党統一候補に追い上げられ、決選投票で何とか当選するという状態となった。

 首相時代から通算すると、エルドアンは、20年以上にわたって権力の座にいることになる。政権初期には経済運営に成功し、インフラの整備も進めて高い支持率を誇った。しかし、政権が長期化するに従って、言論弾圧など権威主義的傾向を強めていった。2016年7月には軍事クーデターが失敗すると、エルドアンはさらに規制を強化。まさに、「長期政権は腐敗する」という事態となっていったのである。

 地方選でのAKP敗北の最大の原因は、長引くインフレである。70%近いインフレ率が庶民の生活を直撃している。この庶民の不満が反エルドアンへの流れを加速化させたのである。

 エルドアンは、「今回の結果を真摯に受け入れて、大いに反省する」と敗北宣言をした。これから経済政策を練り直して、インフレを抑えることに全力をあげる決意である。

 今のトルコ憲法は、大統領の任期を2期までに制限している。しかし、エルドアンはさらに長期政権を続けることができるように、憲法を改正して2028年の次期大統領選に出馬する意向である。プーチン大統領が憲法改正によって、超長期政権を維持してきている手法を真似ようというわけである。

 しかし、今回の地方選の敗北で、その目論見は潰え去ってしまった。プーチンの手法は使えなくなったと言ってよい。

イマモール市長が強力なライバルとして躍り出てきた。エルドアンとしては、自分の後継者を選んでAKP党内で影響力を保つしか手はなさそうである。

 

 

  昨年10月に始まったイスラエルとハマスの戦闘はハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃で始まったが、その後のイスラエルによる報復攻撃の凄まじさに、パレスチナ人に対するジェノサイド(集団殺害)ではないかというイスラエル批判の声も上がっている。

 

 キリスト教が広まったヨーロッパ社会では、キリスト教徒はユダヤ教徒を軽蔑してきた。こうして中世以来、ユダヤ人は差別や迫害の対象となり、就くことのできる職業も限定された。極論すれば、人間として扱われなかったのである。

 それだけに、ユダヤ人は宗教的にも、人種的にも強固なアイデンティティを確立していった。

このユダヤ人蔑視の感情や行動は、19世紀後半のヨーロッパで、ユダヤ人はセム語系統の民族であって、西欧のアーリア民族に比べて劣っているという人種主義思想となり拡散した。これが「反ユダヤ主義(Antisemitism、アンチセミティズム)」である。

 ロシアでは、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されたが、反ユダヤ主義者は、これをユダヤ人の犯行と決めつけて、多数のユダヤ人を虐殺した。そして、それ以降、「ポグロム(ロシア語で、「破滅」、「破壊」を意味する)」と呼ばれるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れた。

 

 反ユダヤ主義を象徴するのがフランスで起こったドレフュス事件である。ユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツのスパイだという嫌疑をかけられ、1894年10月のパリ軍法会議で有罪になり、翌年4月に仏領ギアナの悪魔島に流刑になった。

 ドレフュスの無罪を確信する作家のエミール・ゾラは、1898年1月13日付けの『オロール』紙に、フェリックス・フォール大統領に当てた「私は弾劾する」という文を書いて、この判決を批判した。

こうして、この事件をめぐって世論は二分し、フランス第3共和制を揺るがす大事件となった。当時のヨーロッパにおいて、反ユダヤ主義がいかに力を持っていたかを物語る事件である。とくに軍部とカトリック教会は、反ユダヤ主義に傾きがちであった。

1 899年に再審となったが、6月に破毀院は1894年の判決を破棄したものの、8月のレンヌ軍法会議はドレフュスに再び有罪を宣告した。しかし、ドレフュスは大統領特赦で出獄した。そして、遂に1906年7月12日に破毀院はレンヌ軍法会議の有罪判決を無効としたのである。

 

 このドレフュス事件をパリで体験したのが、ハンガリー出身のユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツル(1860年〜1904年)である。

 ヘルツルは、ウイーンの新聞の特派員としてパリに滞在しているときにドレフュス事件に遭い、フランスの反ユダヤ主義に衝撃を受けた。そして、「ユダヤ人が自らの国を建設する以外に問題は解決しない」と考えるようになったのである。ヨーロッパ以外の地にユダヤ人が安住できる国家を作ろうと考え、行動に移した。これがシオニズムである。シオンとは、エルサレム南東にある丘の名前である。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家は財政的にこの運動を支援した。

ヘルツルは、1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開いた。

 そして、その運動は1948年5月のイスラエル建国につながったのである。それから75年が経つ。今回のイスラエルとハマスの戦争で、また新たな反ユダヤ主義が台頭するのを危惧する。