秦の始皇帝の秦語は東京式アクセントだった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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飛鳥・天平の頃は都の人口の80%が百済人だったという。そして宮中では百済語が喋られていたと言う。

参考にしたブログの著者は私と同じく、当時の朝鮮半島と日本列島は原日本語を喋っており、百済からの渡来人も在来の都人も皆、話が通じたと考えている(参考)。実は百済語は現代の関西弁(京阪式アクセント)のことであり、ヤマト政権も百済系渡来人が幅を利かした近畿地方も皆、関西弁を話していたことになる(参考)

百済人が渡来する前は応神天皇系の秦氏と蘇我氏などの豪族がヤマト政権を支配し、秦語を喋っていたが、これも原日本語であった。ただし、この時の秦語は近畿地方の外側の東京式アクセントの方言の地域、現代の兵庫県以西や紀伊半島の吉野や十津川などに残っている可能性がある。

ちなみに、①兵庫県と岡山県の境界、赤穂市に秦氏ゆかりの神社があった。②吉野には吉野宮と言う離宮があり天武天皇がここから壬申の乱に挙兵したし、南朝の後醍醐天皇が隠棲した。③十津川郷士は神武天皇を導いた八咫烏の末裔で、壬申の乱、明治維新においても尊皇の志士として活躍した。


参考

① 日本語のルーツは韓の国、百済にあり?

ニムオロ塾(参考)

#853 Jan.3, 2010

物部氏の滅亡の経緯、聖徳太子や蘇我入鹿、藤原氏の始祖である中臣鎌足の出自と藤原という氏の謎、聖徳太子の側近だった秦氏に関する謎、天智天皇と弟の天武天皇の年齢に関する謎など、この時代には天皇家を中心とした謎が多い。何か重大なことが隠されているという漠然とした疑問を抱き、いろいろな假説に基づく歴史小説を読んでみたが、どれも的を外しているような感があった。

日本語はどこから来たのか?タミール語からというのが言語学者の大野晋だ。韓国人の金容雲という人が『日本語の正体』(2009年8月初版)を著した。

1927年生まれ、ソウルの檀国大学特別教授で数学者、日韓比較文化論の専門家と奥付にある。韓国語ではなく、日本語で書かれた本である。戦時中に日本語で教育を受けた世代だ。

著者は謎の多い時代にスポットを当てて、ひとつの有力な仮説と言語学上の数々の「証拠」を並べて日本語のルーツを明らかにしてみせる。

年の初めに日本語のルーツに思いをはせてみよう。

飛鳥・天平の頃は都の人口の80%が百済人だったという。著者は数字の根拠を次のように説明している。

「日本の飛鳥王朝と百済王家は親戚関係(実際は百済の分国)にあり、応神天皇以来天武の代までの約260年間、百済王子と百済学者が天皇の側近にいたのです。つまり、宮中では百済語が使われていました。宮中語が百済語であると主張するのは、次のような根拠があるからです。722年に書かれた文献では高市群(飛鳥文化発祥地)の人口のうちで80~90%が百済人であるという記録があります。彼らはヤマトの基盤でした。その時代の金石文は、すべて吏読で書かれており、712年に完成した『古事記』は百済系の学者により漢字を使い百済式吏読と百済語で書かれたのです。」132頁

奈良というのは韓国語では「国」を表す一般名詞だそうで、ルーツは新羅語だという。それが日本で固有名詞化した。「クニ」というのは百済語だそうだ。

  邪馬壹国の「壹」は壹与をトヨと読むように、「やまと(の)くに」と読むべきだというのは、他の本でも見たことがある。歴史学者はいつまで「やまたいこく」と誤読を続けているのだろう?

使者が「ヤマトノクニ」と言ったのを中国側が「邪馬壹国」と実に野蛮なそして卑下した漢字で表記した。邪悪の邪に馬である。

自分のところが「中つ国」で周辺は野蛮国だというのが中国の発想の基本である。東夷、西戎、南蛮、北狄という言葉が中国の奢りをよく表している。日本は東夷である。夷はエビスである。

百済は「分国」である日本に人材を供給しすぎたために、本国に人材が枯渇し、それがゆえに滅びたという説があるらしい。牽強付会の説の勘があるが妙な説得力もある。なにやら、戦後六十数年にわたり都市へ人材が流出し続けて、最近疲弊の激しい地方に似ているからだ。わがふるさと根室もそうした地方のひとつであり、いま人材が枯渇している。

東言葉には新羅語が、京言葉や関西弁に百済語の影響が強いという。日韓語で数詞が共通していることを日韓語のルーツが同じであるとの証拠のひとつに挙げている。「ひふみよいむなやこともちろ(一ニ三四五六七八九十百千万)」というのは『ほつまのつたえ』にもあるが、百済語がルーツであるらしい。

膠着語として日本語と韓国語は同類に分類されており、動詞が最後に来る文構造は日韓語で共通である。音韻体系のみ変化したと著者は書いている。韓国側が中国に合わせるために、固有名詞すら漢音に書き改め、科挙制度も取り入れて、全面的に唐音を取り入れ、音韻体系が変わってしまった。中国と陸続きという地政学的事情で変わらざるを得なかったという。だから、古い百済語が音韻体系もそのままに日本に残ったという。

統一新羅が国策として唐音を導入し、音韻体系が激変したのに対し、日本語は古い百済の音韻体系を維持した。音韻体系上はまったく異なる言語に分かれたが、文法構造は現代日本語と韓国語でまったく共通している。文法構造の同じ言語は、同一のルーツを持つというのがこの著者の結論である。

「日本人の最大の発明は漢文を日本語で読む訓読体であろうと思います。その訓読体の発明により漢文で表せない微妙な心の中を自由に日本語で書けるようになったのです。それが平安朝のかな文学を可能にしたのです。」

なるほど、中国の古典に恋愛文学がなく、世界最古の恋愛文学が源氏物語である理由は言語学的理由があったのか。なるほどなるほど。

新羅とヤマトの間に通訳が必要になったのは白村江の戦いから50年後、8世紀中盤の頃のことだという。それまでは通訳なしに話しができた。白村江の戦いに破れ、百済が滅亡すると、大挙して百済人が日本へ帰化してくるが、日本側はそれを受け入れている。

7世紀までは「朝鮮半島の言葉と日本の言葉には大きな違いがなく、文字(吏読と万葉仮名)も共有していました」というのが、著者の主張である。

飛鳥・天平時代に多くの文化人や技術者が韓(カラ)の国から都に移り住み、天皇や皇太子の教育係になったことは史実であり、言葉がそのまま通じたという推測もなりたつ。とくに来てすぐに高い官位で迎えられた人が多いことも、言語が共通であればよくわかる。

薩摩語と韓国語がよく似ていることも著者は傍証のひとつに挙げている。

それにしても、皇国史観が盛んな明治以降はこういう研究は公表できなかったのではないだろうか。

「10世紀に編纂された『延喜式』によれば宮中には三柱の韓神(カラカミ:二柱は百済系、一柱は新羅系)が祀られています。まず、祝詞「のりと」と言う言葉はカラ語であり、韓神にたいするのりとの内容も当然、韓(カラ)の神が聞き取れる言葉であったはずでしょう。」124頁

つまり、著者は天皇家のルーツを百済系王族だと主張している。これは皇国史観とは相容れないだろうが、言語学的な傍証からも有力な假説である。

「応神14(403年)、百済系の弓月君(融通王)が120県の民を率いて百済から、また応神20(409)年には阿知使主(あちのおみ)が17県の民と共に倭に来ます。前者は秦氏の始祖とされています。これはまったくのエクソドス(大脱出)です。・・・1県を千人としても15万に近い数となります。・・・百済王家と応神王朝の間に深い絆がなければ考えられないことです。」109、110頁

著者はノルマンコンクェストとも比較している。フランスのノルマンジーからイギリスに渡って王朝を築き300年にわたってイギリス貴族はフランス語を話していたが、結局英語に吸収されてしまった。

わたしは1万年のスパンをもつ縄文文化が日本の伝統文化の基底に脈々と流れているような気がしてならない。中国からの漢字も仏教も、韓の国の文化や言語も、米国流の民主主義や経済も、すべてを溶かしこみ滔々と流れる日本文化の底流があるのではないだろうか。

【2011年12月29日追記】

いまひとつ、まったく逆の假説が成り立つ余地を指摘しておきたい。日本が本家で百済が分家という位置づけである。百済人は日本古語を話していた。前方後円墳という"証拠"もある。勧告の者に比して日本の方が2世紀も古く、規模は断然大きい。仁徳天皇陵はギザのピラミッドをしのぐスケールだ。工事にかかる人数を考えてもその王権の強大さが想像できるだろう。


注意

古代朝鮮語と言われるものは明らかでなく、600年程度の歴史しか明らかにされていない現代朝鮮語を根拠に古代を論ずることは出来ない。古代朝鮮半島の言葉は実は原日本語であり、百済語も新羅語も原日本語の方言であった。

参考にしたブログの著者の古代朝鮮語は現代朝鮮語から遡れると言う従来の定説をベースにした記述は見え消しとした。

追記にある「百済が分家で日本列島から朝鮮半島の百済に支配者が進出し、日本古語を百済人が喋った」とは言い難い。特異な関西弁の成立過程を説明し難い。


② 関西弁の境界(wikiより)

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奥村三雄が1968年に発表した区分案。中近畿式方言(オレンジ)と外近畿式方言に大分し、外近畿式方言をさらに北近畿式方言(青)・西近畿式方言(茶)・南近畿式方言(緑)・東近畿式方言(黄)に細分している。京都対大阪の違いよりも、大阪対播磨や京都対伊勢の違いを重視している。但馬北部・丹後西部・紀伊半島の一部(灰)は近畿方言から除外している。

兵庫・岡山県境の船坂峠が播州弁の西端であり、峠を越えると中国方言に分類される岡山弁となるが、赤穂市・上郡町・佐用町は岡山弁との接触地帯としての特色がある。


③ 大辟神社、兵庫県(おおさけじんじゃ、wikiより)、、秦氏の神社

兵庫県赤穂市坂越(さこし)の宝珠山麓に鎮座する神社。 瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られる。

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秦氏は、6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団とされる。秦河勝は秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍した人物である。のち京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。 広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされ、当社も大避(大酒)と云われる由縁の一つである。 河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。 神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。 当社には、河勝が弓月国から持ち帰ったという、天使ケルビム(
智天使)の像とされる胡王面があり、我が国で現存する最古の雅楽の面として伝えられる。河勝は猿楽の始祖とも云われており、観阿弥世阿弥親子や、楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹金春流も河勝を初世として伝えている(『明宿集』)。 『播磨国総社縁起』の記述では、養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列しており、当時すでに有力な神社であったとされる。


④ 吉野宮(wikiより)、紀伊半島

『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇吉野行幸の記事が見られるものの、確実に離宮が存在したと言えるのは、斉明天皇2年(656年)にある吉野宮造営の記事以降のことになる。その後、天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。こうした事情もあってか、天武天皇は同8年(679年)に皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸した(吉野の盟約)。その後、天武天皇および皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、やむなく鵜野皇女が即位して持統天皇になったが、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、通算して33回の吉野宮行幸を行っている。文武天皇・元正天皇・聖武天皇によってその後も吉野宮への行幸が行われ、吉野宮の管理のために芳野監という官司が設けられたことが知られている。

吉野宮がどこにあったかについては過去において様々な説が行われてきたが、吉野川の右岸(北側)にある宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町)の発掘調査によって複数期にわたる建物群の遺構および瓦や土器などの出土品が発見され、同遺跡が吉野宮の遺跡であることが確実なものとなった。


⑤ 十津川郷士(wikiより)

古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。

南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大阪の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。

幕末になると、上平主税などを筆頭に勤皇の志士となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐等と並んで宮廷警護を命ぜられた。