こまつ座第117回公演 『化粧』 | カラサワの演劇ブログ

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こまつ座公演『化粧』観劇、於紀伊國屋ホール。

 

ここだけの話、井上ひさしの戯曲はちょっと苦手である。日本語使いとして日本でも有数の人であったが、その分、芝居のセリフにおいては、“コトバ”に淫するあまり、冗長になる場合が多い。井上が演劇界にデビューした1960年代末ならば、言論というものにまだ十分な権威が備わっており、そのパロディというか相対化として、日本語を“もてあそぶ”感覚のやり方は十分な舞台効果をもたらしていた。だが、すでに言論というものの存在自体が軽くなってしまっている現在、井上戯曲の多くはセリフに空回りが目立つのである。

 

そんな中、井上戯曲で現在最もその真価が輝いているのがこのひとり芝居『化粧』だろう。旅回りの女座長のひとり語りであるから、その口調が饒舌、冗長なのは“職業がら”当たり前である。その冗長さが、そのままキャラクター描写となって(芝居のセリフとして)ムダがない。大衆演劇の楽屋裏という、一般社会とは切り離された世界を舞台にしているため、初演(戯曲の発表は1982年。35年前である)との時代のズレを感じさせないのである。

 

大衆演劇の一座の座長、五月洋子は千秋楽の舞台の開演前の化粧中。そこの楽屋に、アイドルスターが訪ねてくる。彼は彼女が20年前、やむを得ない事情で施設に預けた、実の息子だという。彼が母親の唯一の手がかりとして持っていたお守りの袋は、洋子が首にかけているお守り袋と同じ布で出来ていた……。

 

初演からしばらくは渡辺美佐子が木村光一の演出でこの作品を完全に自分の代表作とし、評価をほしいままにしてきたが、彼女の舞台が一応の終止符を打ったあと、こまつ座が平淑恵を主役におき、鵜山仁の演出で後を引きつぎ、これも高い評価を得た。その平の『化粧』も今回がファイナル公演だそうで、凄まじい迫力のこもった舞台ではあった。

 

ひとり芝居には、だいたい共通して、ある種の欠点がある。欠点というより形式の持つ限界のようなものだろうが、

「独り言が延々と続く」

「相手のセリフをオウム返しに言って観客にわからせる」

「相手役が舞台上にないので小道具の扱いが不自然になる」

といったお約束ごとのわざとらしさである。

 

この『化粧』にもそれらのわざとらしさが当然あるのだが、ラストでそのような不自然さ全てに意味があったことがわかる、という作りである。これに感心し、たぶん井上ひさしも初めてひとり芝居を書くに当たって、ひとり芝居の持つ欠点をサーチして、それをうまく逆に利用する方法に頭をひねったのだろうな、と思っていたのだが、後で調べて驚いた。

 

この作品、82年の初演時には前半だけの一幕もの(主人公の五月洋子が舞台へと出て行くところまで)だったのだが、上演を観た作者の井上が、渡辺美佐子の

「なんでこのお芝居には人がいないんだい」

という(上記のひとり芝居特有のわざとらしさを逆手にとった)アドリブのギャグにインスパイアを受けて、

「実は人がいないことにはわけがあった」

という、タネあかし的な二幕を書き下ろし、初演の数ヶ月後に上演したのだという。

 

冒頭から、芝居小屋の中なのに工事現場のような音がときおり響き、幟や小屋のセットが少しづつ傾き、崩れていく。それもちゃんと意味を持っている(これは演出の鵜山仁のアイデアだそうである)。

 

第一幕で終われば、それは男役を演じ続けてきた大衆演劇の女座長の、女性としての人生との対比を見せた、ちょっとしたスケッチ的な(それはそれで感動的だが)話になったろうが、第二幕がつけ加えられたことにより、話はさらに数段、“演劇的”に深くなり、滅びゆく大衆演劇の世界で、それと同一化してきた主役個人の人格の崩壊というカタストロフにまで突き進む。前半の展開を見て、新劇調であれ大衆演劇調であれ、母子の感動ばなしになるんだろう、とタカをくくっていた観客(私も含む)は足をすくわれることになる。

 

もちろん、後づけで作った二幕目だけに、一幕とのつながりにやや、不自然なところがなくはない(最初に感動の対面の番組への出演依頼があってから、訪ねてきた息子が母子の確認をするが、普通順序が逆だろう)。ただ、それもラストで、全てが……というオチになるので矛盾は生じない作りになっている。

 

劇中、自分を捨てた、となじる息子に対し五月洋子が言う

「私ゃお前のことを年中無休で思ってたんだよ」

というセリフで場内に笑いが起こったが、私はホロリとした。親の代からの役者で、6歳から旅興行の劇団の楽屋で育ち、ロクに教育も受けられていない女性が、精一杯言葉を探して、息子に詫びようとしているその切なさ、懸命さ。あれだけ語彙と表現に長けていた井上ひさしの最高傑作の主人公が、言葉を知らない無学な女であるというのは、やや皮肉でもある。

 

すでに彼女の人生は女優と切り離せなくなっており、20年間生き別れだった息子との再会を、すぐ「これで話題になればお客も詰めかける」と計算してしまうところも、芝居で食べている座長の悲しさ。

 

化粧が進むに従って「役」になっていき、セリフも大衆演劇調になっていく(ラストの乱れた化粧が本人の精神状態も表現している)。そう言えば、私の舞台の座組にも、ときおり、メイクと衣装をつけると役が乗り移ったようになって、突如泣き出したり笑い出したりする子がいる。母として、女性としての他、役者としての生理もかいまみえて、演劇に足を突っ込んでいる者にはたまらない舞台だろう。さらに言えば、

「2回も稽古してまだ覚えられないのかい? そんなんだと、新劇役者になるしか仕方ないよ」

という楽屋オチめいたセリフもあったっけ。

 

演劇の世界では、この戯曲が発表された1980年代半ばくらいまでは、主人公の心理表現が次第にエスカレートしていって、狂気の縁にまで突っ走るような、ドラマチックなものが主流だった。その後、舞台にはリアルさを求めるムーブメントが起こり、平田オリザらによる“静かな演劇”が主流を占めるようになる。この『化粧』は、60年代から80年代の、小劇場演劇の爆発的なパワーを体現した演劇の、いわば幕引き・総まとめ的な役割を、図らずも担っていると言えなくもないだろう。言って見ればクラシックなのだろうが、今見ても、このパワーの奔流(それがたったひとりの女優によって巻き起こされているという凄さ)の快感は、やはりこれが演技というものの本質なのだろう、という思いにさせられる。