「今もお話しできないこともある」オウム真理教幹部を刺殺した実行犯が女性記者に残した言葉 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

まさか再び徐の実名がメディアに出てくるとは。

2023年2月18日、週刊誌週刊誌記者の回想録がネットに出回った。

 

タイトルは以下の通りである。

 

「今もお話しできないこともある」オウム真理教幹部を刺殺した実行犯が女性記者に残した言葉

 

村井刺殺事件はオウム事件の中でも優先順位が低い事件だと感じていた。

そのタイトル内容、村井の写真に一瞬期待を過ったが、やや中途半端な内容であった。

しかし、風化を阻止する意義として、記載内容をここに残そうと思う。

 

「いまも実行犯の背後にあいつらがいたと睨んでいる」

 今年の正月を目前に控えた凍寒の夜だった。暴力団捜査を担当した元警視庁刑事たちの小さな忘年会が、東京都心の駅前酒場で開かれていた。

 濛々たるタバコの煙である。靄と喧騒の中に、私も身を沈めていた。そんな喫煙居酒屋がサラリーマンで賑わっていることも、かつてのマルボウ刑事たちが定刻の2時間も前から飲み続けていたことも驚きだった。

 新型コロナウイルスが依然、収まらないのに、彼らは紫煙のなかで痛飲し、再就職先の居心地や現役時代の武勇伝を、口角泡を飛ばして話し込んでいる。

 かつては後輩の現役刑事も交え、大衆中華料理屋などに巨体、屈強、異相の輩が集まって、泣く子も黙る宴会を開いていたのだ。だが、コロナ禍が広がってからはそれもままならず、久しぶりの集まりなのである。

 人恋しいのだ。そこに身を置いた私もそうだった。

 話題は、彼らが「八王子戦争」と呼ぶ、指定暴力団山口組と二率(にびき)会との抗争事件に始まり、オウム真理教幹部だった村井秀夫刺殺事件に及んでいた。

オウム真理教の幹部だった村井秀夫 ©時事通信社

オウム真理教の幹部だった村井秀夫 

 八王子戦争は1990年2月、山口組宅見組系組員が東京都八王子市の二率会組員に殺されたことをきっかけに起きた。始まりは暴力団組員同士の地方抗争に過ぎなかったが、これをきっかけに、山口組は全国から傘下組員を新宿に集め、そこから八王子に攻め下った。そして橋頭堡を築き、とうとう東京への本格進出を果たしてしまった。

 

 

 私が警視庁を担当していた1988年までは警視庁幹部が「山口組は東京に入れさせない」と力みかえっていたのだ。だから、マルボウ刑事にすれば、あれは「戦争」のような時代を分ける大事件であった。

 ——なぜ山口組はあれほど簡単に東京に進出できたのだろうか?

 そう考えていると、元刑事が話題を変えた。

「村井の事件は謎だらけでしたね。あれは悔いの残る捜査でしたよ」

「うん、俺はいまも実行犯の背後にあいつらがいたと睨んでいる」

 と言ったのは元上司である。

 村井刺殺事件は八王子戦争から5年後に、オウム真理教の教団東京総本部ビル前で起きた。村井は教団の「科学技術省大臣」で、サリン製造の統括責任者だった。それがテレビカメラの前で、刃物を手にした山口組系暴力団羽根組傘下の右翼団体構成員・徐裕行(じょ・ひろゆき)に刺された。

 暴力団相手なので、マルボウ刑事たちが捜査に投入される。

 真の動機は何なのか、誰に指示されたのか、刑事たちは厳しく追及したが、徐は単独犯を主張し続ける。村井の殺害には後述する「口封じ説」や陰謀説が根強く残っていた。だが、刑事たちは疑問を抱きながらも、謎の奥にたどり着けなかった。不完全燃焼なのである。だから捜査の悔いを今も口にする。

 マルボウの世界は謎に満ちているのだ。

 そんな話をしていると、紫煙の中に若い女性が一人首を突っ込んできて、ペコリと頭を下げた。警視庁詰めの新聞記者で、知能犯と暴力団担当記者の仕切り(チーフ)なのだという。いまや女性が警視庁キャップを務めることも珍しくない。

「そんな時代になっています」

 彼女ははにかみながら言った。こんなところに顔を出すのは、当局OBから情報源を手繰り寄せようというのだろう。私もやってきた手法なので、好ましく思って、元刑事たちとのやり取りを聞いていた。彼女は不器用だが、ふんわりと刑事流の叱咤激励をいなし、かわし、笑い飛ばしている。

「村井秀夫刺殺事件を知ってる?」

 と私は尋ねた。

「いえ、知りません」

 恥ずかしそうにうつむいた。かつての私と同じ暴力団担当記者だから、彼女も当然のように村井事件を知っているものだと思い込んでいた。

 ——そうか、あれは20代のこの記者が生まれて間もないころの事件なのだな。

 それは1950(昭和25)年生まれの私が、同じ年に勃発した朝鮮戦争や日本の新聞界で荒れ狂ったレッドパージを知らないのと同じだ。それくらいに古く、歴史の闇に消えようとしている疑惑なのだ。

村井刺殺事件実行犯にインタビューした記者

 そのとき、「週刊朝日」編集長を務めた森下香枝(かえ)の癖の強い、山猫のような顔を思い浮かべていた。森下は、私とその若い女性記者のほぼ真ん中の世代だ。私が遅れた団塊の世代ならば、森下はバブル後の世代である。

 私はノンフィクション作家に転じた後、この村井刺殺事件を掘り起こそうかどうか、迷っていた時期がある。そのとき、森下が書いた記事を見つけて、唸ったことを思い出したのだ。

 それは彼女が週刊朝日の記者時代に、12年の懲役刑を終えて出所してきた実行犯の徐に長時間のインタビューをし、同誌に掲載したものだった。

 森下は右翼関係者と知り合いになって彼を紹介してもらっていた。正式にインタビューする前に飲み屋などで何度か会って言葉を交わしたという。その場には暴力団組員らしき男たちもいた。そうして記事掲載のタイミングを計った。

 インタビューを焦らない、そして特ダネにふさわしい機会をしぶとく待つ——。これは後述する「神戸連続児童殺傷事件」でも、彼女が取ってきた流儀である。上司は「早く結果を出せ」と迫るが、それを現場の記者がどう受け流すかが、成否を分ける。

 徐へのインタビューは、オウム真理教事件の最後の特別手配犯が逮捕された2012年に改めて行った。その場所は朝日新聞社だったような記憶が彼女にはあるのだが、とにかく徐は指定した場所に堂々と現れ、カメラマンの前でポーズを取った。

 その模様は、〈オウム“村井事件”の実行犯が激白「僕が村井を刺した本当の理由」〉というタイトルの記事として掲載される。

 このなかで森下は、「教祖・麻原彰晃による口封じ説」などについて質問した。だが徐に「背後にある陰謀を隠すことなどできない」と強く否定される。

 例えば、森下がこう質す。

「共犯として暴力団幹部が後に逮捕され、裁判では無罪になった。だが、謎がたくさん残されている」

 徐の答えはこうだ。

「この事件はもう判決が出て終わっている。今もお話しできないこともある。だが、なぜ、僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体がオウムに対し、憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた。いろんな要因はあったにせよ、殺害しようと決断したのは僕です。一番の動機をあえていえば、地下鉄サリン事件の映像を見た衝撃で義憤にかられたことです」

 その部分を読んで、私は疑問が再び膨らむのを感じた。

 ——今もお話しできないこともある、というのは、やはり隠している真実があり、いつか話すこともありうるということだろうか。

 しかし、森下が先んじて謎に挑んでいるのなら、私がのこのこと出ていくこともない。そう思って、村井刺殺事件は私の中の「未解決ファイル」に入れてしまった(ただ、私がいまだにマルボウ刑事の集まりに出かけ、村井事件捜査について耳を傾けるのは、その事件に対する興味とわだかまりが沈殿しているからだろう)。

 森下の実行犯インタビューはほとんど忘れられている。彼女が手掛けたスクープはたくさんあって、その一つに過ぎないということもあるのだろう。

 

ノンフィクション作家・清武英利氏の連載「 記者は天国に行けない 」の全文は、「文藝春秋」2023年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。

(清武 英利/文藝春秋 2023年3月号)

 

本文の終盤では神戸連続児童殺害事件の記述があったが、本題から逸れてしまうため割愛した。

しかし、「未解決ファイル」で自己完結するとは記者として情けないと思う。

数年前逮捕された上峯憲司への言及もなく、問題提起としては不完全燃焼といった感じだ。

森下氏が世話になった相手はおそらく鈴木邦男だろうか。鈴木も今年1月に死去し、関係者から哀悼の意が寄せられた。

本記事に対し、ヤフーニュースからは以下の反応が見られた。