週刊現代 平成十一年十月三十日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第十回
「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編
サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編
村井秀夫が極秘指令
「原発の機密をスパイせよ!」
あまりにも多くの謎に満ちた、オウム真理教「科学技術省」のトップ・村井秀夫刺殺事件。実行犯・徐裕行は逮捕後の取り調べで「上祐(史浩)でも、青山(吉伸)でも誰でもよかった」と供述している。
しかし、当日の徐の行動を詳細にたどってみると、この供述には多くの矛盾点が浮かび上がる。やはりこの暗殺者は、ターゲットを明確に村井秀夫「科学技術省」長官に置いていた。
では、なぜ村井秀夫だったのか。村井でなければならなかったのか?
一九九四年六月二十七日、長野県松本市、午後十時四十五分、突然散布された毒ガスで住民はパニックに陥った。
この毒ガスは、空中を漂い、広がり、薄められてなお人の生命を奪った。その毒性が、きわめて強力だったことを、この「松本サリン事件」は教えている。
その事件発生の一時間半くらい前、事件の現場から二百五十メートルくらい南西に位置する開智二丁目付近で、帰宅途中の会杜員は奇妙な光景を目撃した。
「銀色の宇宙服のようなものを着ていました。夢を見ているようで、不思議な光景でした」
また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。
ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。
このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。
それがVXガスあるいはタブンなどの別種の毒ガスであったのかは、村井の口が封じられてしまった以上、オウム真理教側から証言をするものは誰もいない。
刺殺される直前に、村井が語りはじめた「まったく別のガスだ」という言葉は、そのことを指し示していた。しかし、村井はそのことの詳細を語ることなく、一命を落とした。
これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。
それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。
ここに取材班が入手した、膨大な機密書類の束がある。一枚一枚をめくっていくと、さまざまな図面、設計図、人員配置表、各種のメンテナンスのマニュアル、作業工程表などが混在しているのがわかる。
表題の打たれていないものも多いが、いくつかの文書には次のような文字が見える。
「原子カプラント定検および増設・改良工事」
「原子カプラント主要工程表(社外秘)」
「五号機R/B地階サーベイ記録」
「原子炉PCV全体図」
「原子炉班体制業務分担表二号機」
「標準部品表示基準」
書類は、原子炉のボルトの位置、管の口径、内寸、メ一ターの位置、全体図におよぶ。民間の原発監視機関でもある原子力資料情報室(東京)の上澤千尋氏に、いくつかの資料を見てもらい、コメントを寄せてもらった。
「これはすごいですね。一般公開されているものでは、ここまで詳しく書かれているものはありません。しかし、これには部品の材料配分、どういうステンレスを使っているかが明記されています。私もはじめて見ました。
また、ここに含まれている詳細な検査記録のようなものは、情報公開の対象にもなりません。
なぜなら、検査をして問題がなければ、問題がなかったという事実だけが重要であって、作業工程や数字を公開するのは意味がないという孝え方からです。もちろん、それは原発側、企業側の言い分なんですがね」
一般の目にふれる原発関係の資料は、重要な部分はすべて真っ白なのだという。原子力資料情報室の所有する資料でも、枠取りだけが印刷されて、各原子力発電所の次のような文面の判が押されているものが多い。
『この資料はメーカーの未出版特許情報、ノウハウ等の機密情報を含んでおりますので、該当部分については非公開とさせて頂きます』と。
「要は、企業秘密なんですよ。寸法、計算プログラム、設計図面、材料の分量などは、すべて《白ヌキ》の対象になるんです」
「これはBWR型。(東芝・日立・石川島播磨の三社産業グループのつくる沸騰水型原発)のものですね。作業過程のチェック・シートとか運転記録などは、運転技術レベルの低い国にとっては非常に参考になるでしょう。
この資料を見ただけで、いつ、どこで、どの原発がどのような処理を施されたかがわかります。その上、配管とバルブの位置もわかります。どのバルブがどれだけ腐食していたのかが、記録に残っています」
どうやら、かなりの機密資料であることだけは間違いがなさそうである。出所を明らかにしてしまえば、これらの機密書類は、オウム真理教の中から出てきたのである。
オウム真理教「科学技術省」では、組織的に原発の機密資料を入手しようとしていた。九十年代のはじめ頃から、常時、各地の原発に下請け要員などの資格で作業員を潜入させていた。
オウムの信者たちは、下請け作業員として各地の原発をまわり、あるいは研究員を教団に勧誘することを行っていた。
そして、これらの原発、原子炉についての機密データの収集を命じたのは、他ならぬ「科学技術省」長官の立場にいる村井秀夫だった。
当時、その村井の指示のもとに、原発作業員として各地の原発に潜入していた元オウム信者の、次のような証言がある。
「ある時、村井さんとの雑談のなかで原発の話が出ました。私が原発で仕事をしたことがあると言うと、
と言われました。原発は意外と管理が甘くて、資料などを外部に持ち出すことや出入りも簡単でした。
私には原発のなにが役に立つのか、参考になるのか、まったくわかりませんでしたが、村井さんは 『オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる』と話していました。
これは、別の信者の話ですが、ある信者が『科学技術省』のスタッフに原発から持ってきた数枚の資料を渡したときに『よくやったぞ。功績があれば、ステージもあがるぞ』と村井さんに言われたそうです。
村井さんは亡くなる三~四ヶ月前にも『原発にはもっと人を送ってもいいな』と言っていました」
原発で働いていたもうひとりのオウム信者の証言は、さらに衝撃的である。
「オウムから原発に働きに行っていたのは、二百人はくだらないですね。きっかけは山口県の信者でUさんという人が、人材派遣業をやっており、その会社が原発からの仕事を受けていたからです。
当時、信者の間では、お布施がたっぷりできる仕事がある、と噂になっていました。それが原発でした。
近所の安いアパートとか下宿に泊まり込みで、仕事をします。一度行くと、三~四ヶ月働きました。給料は月に四十万~五十万円くらいになりましたね。Uさんは全国各地の原発に多くの人間を送り込んでいました。
原発は、意外なことに管理がいい加減で、資料のコピーもとり放題でしたし、施設内の出入りも自由。原発の中心部のプールも、写真撮影できると思ったほどでした。
私はよく配管検査をやらされましたが、最初に赤い液体を塗ってから、次に白い液体を塗って配管の不備を調べます。ほんとうは資材とかが必要な部分もあるのでしょうが、まったく要求されたことはありません。
もし、麻原がそのことを知り、目をつけていれば、大変なことになったのではないでしょうか」
取材班は、この証言のなかにでてきたUという人材派遣会社および科学機器検査会社の社長であり、もとオウム信者とされている人物に何度か連絡をとろうとしたが、現在までのところ行方が不明である。
しかし、ここに紹介した元オウム信考の証言と手もとの機密書類の束だけでも、オウム真理教が各地の原発の機密資料収集に手を染めていた事実は疑いえないだろう。
しかし、オウムはそのことを実行に移さなかった。このことはすべての資料と情報が村井「科学技術省」長官のもとに、留め置かれたことを示している。
なぜか? 村井は、これらの資料を大量に収集し、どのように使おうとしていたのだろうか。
ここで、思い出さねばならないのは、村井が早川紀代秀「建設省」長官とともに、たびたびロシアに出国していたという事実である。
さらに早川はロシアを経由して、たびたび北朝鮮に渡り、その北朝鮮側の窓口が朝鮮労働党の「第二経済委員会」であったであろうことも指摘した。
オウム真理教の総勢二百人にのぼる信者によって収集された日本の原発の機密資料が、じつは、この早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性が、ここに浮かび上がってきたのである。
さらに、このルートを通じて流出した機密資料は、じつは原発の資料だけにとどまらず、さまざまなハイテク技術、最先端科学技術の膨大なデータであった可能性が、闇のなかから浮かび上がってきたのである。