でんでらりゅうば

 

「でんでらりゅうば でてくるばってん でんでられんけん でてこんけん
こんこられんけん こられられんけん こん、こん」

 

皆さんも一度は耳にしたことのあるこの歌、長崎市出身のシンガーソングライター達にも愛唱され、さだまさしによる長崎弁ラップ曲『がんばらんば』の歌詞で『でんでらりゅうば』を用いているほか、福山雅治のライブ(稲佐山・道標)の入場曲にもなっています。歌詞の中に九州弁の「ばってん」という言葉があることから、九州由来の歌だと解釈されるのです。ところで最初に出てくる「でんでらりゅう」とは一体なんなのでしょう?実はでんでらにはもともと恐ろしい意味が隠れているのです。

 

「でんでら」とは民俗学者柳田国男の遠野物語に以下のような記述があります。

 

66.青笹村の字糠前と字凡内時の境のあたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。すなわち死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜中に馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、ああ今度は某が死ぬぞなどといっているうちに、間もなくその人が死ぬのだといわれている。
268.昔は老人が六十になるとデンデラ野に捨てられたものだという。

 

このデンデラ野は蓮台野と書かれているのですが、まさに年寄りを送る場所であり姥捨て山のこと、つまり冥界への入り口のようなイメージとなるのです。同じような蓮台野と書いて「でんでら」と読む地名が京都の北部にあり、化野、鳥部野に並ぶ京都の三大風葬地と呼ばれています。平安時代の京都では亡くなった方は洛外へ運び野ざらしにし風葬(遺体を埋葬せずに風にさらし風化を待つ)を行っていました。平安時代は仏教の影響で身分の高い人物は火葬を行っていたそうですが、火葬には木材が必要であり庶民は最も経済的で楽な風葬が一般的でした。つまりデンデラとは冥界への入り口とされていて今でも京都の中心から蓮台野に向かう通りの名前は千本通であり、これはその当時通りにそって千本の卒塔婆が立てられており、蓮台の入り口、船岡山の手前に「閻魔前町(えんままえちょう)」という地名があります。これはあの世の入口、閻魔様の住む場所としてつけられた地名だそうで、閻魔前町があの世への入り口だったそうです。

 

また一方奈良県の大和郡山市にある山田杵築神社には「山田のでんでらこ」というヤマタノオロチにちなんだ神事が今でも続いているそうです。ヤマタノオロチといえば、スサノヲ神話に出てくる8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物であり、そう考えると「でんでらりゅう」はヤマタノオロチのことでしょうか?しかし話はそれほど単純ではありません。先ほどの流れででんでらとは「あの世の」という意味を持っていることから、ヤマタノオロチ伝承自体もあの世への入り口という意味を持たせていたのかもしれません。それはなぜなのでしょうか?実は神話のヤマタノオロチの正体は実は川の氾濫と考えています。なぜならヤマタノオロチの生贄にされたのがクシナダヒメという美しいお姫様なのですが、日本書紀では奇稲田姫と記述されています。つまり美しい田を奪いに来る災害、まさに洪水のことを指しているのでしょう。ここでヤマタノオロチの特徴は、赤い腹をしており、オロチを切った時に赤い血で川が染まったと伝わっています。またその時に腹から草薙剣が出てきたことを考えると、人々が川を竜神として崇め、風水害をもたらさぬよう祈るのは古代からの常であり、製鉄の炉から燃え上がるすさまじいばかりの炎をたたら製鉄に関わる人やオロチの目や腹にたとえて、まさにそこから出る廃液は赤い血に例えられたのかもしれません。

 

 そうすると製鉄を営む民のいる山で洪水が起こると、ふもとの村まで一気に赤い血のごとく廃液が流れてくる。その中には水銀のような重金属も混ざっていて、それを食したふもとの人々はまさに金属中毒でバッタバッタと倒れていったことは想像できるのではないかと思います。実際奈良時代の大仏建立で大量の水銀を使ったために奈良盆地一帯が水銀中毒になった。それがまさに当時は祟りと考えられ平安京に遷都したという歴史もあるぐらいなのです。

 

 つまり「でんでらりゅう」とは死の洪水のことであり、はじめの歌から「大雨が続くと死の洪水が起こるかもしれない。しかし出てこないかもしれない。出てこないのなら今年はよかった」という意味を持っていると考えるのです。そういえばこの歌の発祥とされる長崎は水害の街であり、日本で最も古いとされている鉄器は福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。つまり北部九州では神話の時代から製鉄が行われていて、頻繁に死の洪水が発生していたとも考えられます。

 

ヤマタノオロチと男女神

 オロチが洪水だというのは、別の場所でも根拠が求められます。オロチ自体が神格化したものとして福井県や全国各地にある九頭龍伝承がそれにあたるのかもしれません。福井県の九頭竜伝承は福井市の舟橋の黒龍神社や毛矢黒龍神社にはその由緒に次のようなことが書かれています。

 

雄略天皇21年(477年)、男大迹天皇(おおとのすめらみこと:後の継体天皇)が、越前国の日野、足羽、黒龍の三大河川の治水大工事を行われ、越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河である黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され、高龗大神(黒龍大神)と闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾村黒龍村毛矢の社に創祀された。この儀により、黒龍大明神の信仰が連綿と現在まで受け継がれている。

 

 また舟橋の黒龍神社には以下の由緒も残されています。

 

また、高龗大神(黒龍大明神)は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する四柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。四大明神とは、東の常陸国に鹿島大明神、南の紀伊国に熊野大権現、西の安芸国に厳島大明神、そして、北の越前国に黒龍大明神として祭祀されてきた。

 

ここで興味深いのは、本来の九頭竜信仰はもともとは白黒一対の神であったところです。日本の神話の開闢神はイザナギイザナミの男女神であり、また九頭竜信仰のお隣、若狭小浜には男女2神の若狭彦神社・若狭姫神社があることから福井の古い神様も男女2神だと思われるのです。しかしその2神のうち男神の黒龍大神のみを玄武として都(当時は藤原京)の守護神としたのは、持統上皇と藤原不比等だったのかもしれません。藤原京を作るにあたって日本の神を東西南北に配し、北の守護が玄武であり、水の神黒龍としたのです。玄武は北方を守護する、水神。玄はを意味し、黒は五行説では北方の色とされ水を表します。こうして白龍の女神は闇に葬られそうなところを、一躍祭神に変えていったのが白山信仰の祖、泰澄その人だったのです。

 

泰澄は越前国麻生津(福井市南部)の出身で、702年時の文武天皇から鎮護国家の法師を任じられた修験道の僧侶です。おそらく藤原不比等が亡くなったのが720年で、その後福井の白龍女神を白山に遷座し祀って行ったのではないかと考えるのです。それは泰澄の出自からもわかり、おそらく幼いころは九頭竜神が黒白男女2神だったのを記憶しており、藤原京の北の守護たる黒龍大明神のついとなる白龍女神を加賀の白山に遷座していったのでしょう。彼のやったことはおそらく中国から持ち込んだ五行説にしたがい藤原京を作ったのですが、実際に唐の都を見たわけでなく、都の中心に皇居を作ってしまったのです。当時の唐の都は長安。中国には昔から天子南面と言って、皇帝は必ず北に背を向け南を向き、民衆らは北を向いて皇帝と向き合うという思想がありました。その思想が欠落していたことが平城京遷都への大きな理由だといわれています。それと同時に替えられた玄武をもとの男女神に戻していく試みが泰澄が行ったことではないのでしょうか?

 

ヒコとヒメの関係性

先ほど触れました若狭の国の一之宮は実は二つ存在します。それは若狭彦神社と若狭姫神社です。社伝では二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったと言われています。この白石の里にある白石神社で、毎年三月二日に「お水送り」の行事があります。また神社の下流の鵜の瀬へ降りて、香水を流すのです。そしてこの香水、若狭の真南、五十キロ離れた奈良東大寺二月堂の若狭井に湧き出し、三月十三日の修二会に「お水取り」されるのです。それではなぜ若狭からわざわざ奈良に香水を流すのでしょう?

 

彦と姫の神話性
 日本では神の怒りに触れ、あるいは天変地異により発生した大洪水もしくは大津波により、島や世界が壊滅し、その災害から神の啓示により、もしくはたまたま兄と妹二人だけが生き残る。他に配偶者になる人がいないために近親相婚を避けようとしつつもついには兄弟が結婚して子孫を生み出すといった兄弟始祖伝説があります。これらの神話は特に奄美や沖縄をはじめとする南西諸島で多くみられ、この神話をもとに『古事記』や『日本書紀』のイザナギ・イザナミの神話が作られたとも考えられているのです。
 不思議なことにこの話はノアの方舟の神話とも重なる部分が多く、もしかしたら古の時代に本当に地球規模で大洪水が起こり、アジアでは兄弟始祖神話となり、ヨーロッパではノアの方舟の神話となったのなら非常に興味深い気がします。そうすると若狭の白石に祀られていた唐人の形をした2神は大元は中国南部から縄文時代に渡来してきた海人族だったのかもしれません。
 それは若狭町(旧三方町)にある若狭三方縄文博物館に展示されている鳥浜貝塚から出土した出土品からも中国南部とのつながりを感じざるを得ないのです。安田喜憲著「森の日本文化」によると
「河姆渡遺跡から出土した遺物は鳥浜貝塚とよく似ていると感じた。勿論、ゾウやトラ・サイ・ワニ・水牛などの大型哺乳動物は鳥浜貝塚では発見されていない。しかし、その遺物のセットはよく似ていた。それは稲作と狩猟・漁猟・採集をセットにした文化である。鳥浜貝塚で発見されていないのはイネだけである。河姆渡遺跡では、既に7.000年前頃から稲作が実施されていた。鳥浜貝塚ではイネは発見されていないが、エゴマ・リョウトク・ヒョウタン・ゴボウ・アブラナなどの栽培植物の遺体は検出されており、原初的な農耕が行われていたことは確実である。イネを除いた出土遺物の構成は、鳥浜貝塚とよく似ており、両遺跡ともほぼ同時代に営まれていた。
 こうした河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の類似は、既に6.000年前には、中国の江南地方から日本列島の西部にかけて、照葉樹林文化呼んでもよい文化圏が形成され始めていたことを示している。」と説明しています。
 
 つまり、中国南部で7000年前から発展した河姆渡文化はそのまま対馬海流に乗り、1000年で日本列島の日本海側に波及したと思われます。ただ、その土地は稲作よりも漁業に向いていた土地だったので、稲作自体はその時代には伝播しなかったのですが、もしかしたら彼らの間に神話として語り継がれていた兄弟始祖神話が遠敷川にもたらされ現在の若狭彦神社と若狭姫神社の基となった可能性はあると思っています。


その後に入ってきた新羅の神々とスサノオ
 その後、新羅国(三韓の時代に辰韓十二か国の一つで慶州平野にあった斯盧国(しろさろこく)が紀元前1世紀後半に隣接する小国家を合わせて連合体的国家を形成した)から渡来人が来訪し、彼らの祖神をまつる神社として北は岩手県から南は熊本県まで広く新羅神社(あえてこれはしんらじんじゃとよばさせてください)として存在しているのです。その一つが下根来白石の白石神社(新羅神社)です。
 若狭彦、若狭姫の二神を白石大明神として祭祀したのが白石にある白石明神です。つまり若狭神社、神宮寺、白石明神などは元は皆同じものであり、縄文、弥生、古墳時代と長き時代の聖地に住む神として崇められていたものと考えています。またこの白石神社からさらに奥に上ると上根来で、広峰神社があり牛頭天王つまりスサノヲを祀っています。
 

若狭から男女神を読み解くと、古くヤマタノオロチと呼ばれた製鉄の民が祀る男女神こそ、日本海沿岸の出雲と呼ばれる人々が祀った古い神であった。しかし半島よりもたらされた天津系の新しい神々にとって代わったのですが、一部の地では古くからの男女神が残っていた。しかし白村江の戦い(663年)で敗れた百済・倭連合軍は急きょ畿内に唐に並ぶ王都建設を急ぎました。そこでできたのが藤原京・平城京だったのでしょう。当時の都を最新の学問で理論武装し、北に玄武たる黒龍大明神、東に青龍の鹿島大明神、南に朱雀たる熊野大権現、西に白虎の厳島大明神を配しました。しかも太陽神で男神だったアマテラスを女神にし変えていったのです。しかしあまりにも急に祭神を変えていったために、その後起こってくる様々な疫病や厄災はまさに祟りとして受け取られたのかもしれません。持統天皇と藤原不比等が亡くなったあと、その神の怒りを鎮めるために、つじつま合わせが必要になってきたのではないかと考えます。そこで泰澄は白龍たる女神を白山に祀ったりしたのではないかと思います。

 

男神だった!?アマテラス

今でこそアマテラス大神は女神として描かれていますが、男神であったという説はかなり昔から記述されています。文献では平安時代の大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記しています。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。

また神話では、地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装しました。神話とはいえ女性が武装して戦うというのは前にも後にもあまり聞いたことがありません。その後スサノオの乱暴に手を焼いたアマテラスは天の岩戸に閉じこもるのですが、そこでもほぼ全裸であそこ全開のアメノウズメの踊る姿を見るために出てきてしまいます。それってやっぱり男性のエロパワーですよね。よって本来の陰陽二源説から考えれば、アマテラスが男神、ツクヨミが女神であったと思われるのです。

 

平安期以降のヤマタノオロチ

では女神だった白龍はその後どういったものに変わっていったのでしょう?それはおそらく最澄が「遣唐使」の一員として唐に派遣され、日本に持ち帰った弁財天と習合していったのかもしれません。それは鎌倉時代にさしかかると宇賀神(下半身が蛇の女神)と習合していって五穀豊穣、招福のご利益の神様として広く信仰されていきます。それこそ人々の記憶のなかにあった白龍女神が姿を変え現れたものなのかもしれません。今でも神奈川県の江ノ島や滋賀県琵琶湖にある竹生島に見られるように残っています。また男女神の姿は村々の賽の神として道祖神に変わっていきました。今での長野県の路傍の隅にひっそりたたずむ男女の像、これこそ飛鳥時代以前の日本にあった古き神の姿をとどめているものなのかもしれませんよね。