魏石鬼窟(ぎしきのいわや)と八面大王

 
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八面大王がたてこもったといわれる魏石鬼窟、上に大きな石がありその下を小さな石が支えている

 

 魏石鬼窟とは八面大王がたてこもったところで、鳥居隆三博士が「ドルメン式古墳である。」と発表した。このように上に大きな石がありその下を小さな石が支える特異的な古墳はドルメン式古墳または支石墓といい、紀元前500年ごろ韓国でよく作られるようになる。また日本でも縄文時代最晩期の九州北西部(唐津周辺)に出現していて、おもに海運を行っていた民族と関係しているといわれている。とするとここも出来上がったのは相当古く、八面大王のためのお墓というよりは彼らの聖地のような存在ではなかったかと想像される。実際わたしもその窟に行ってみて思ったことは、この古墳がドルメン式古墳であるならばおそらく韓国南方系タイプ(韓国和順の支石墓)のものに類似しており、この地は相当古くから海の民族が定着していった歴史があるのではないかと推測される。




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岩窟の解説



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魏石鬼窟にいく途中の山道、石仏の連なる山道である。GWの連休真っただ中なのにひとっこひとり現れない静寂な感じと、親子熊出没注意と書かれてあったのはわたしたち親子のことだろうか?

  

 今回の八面大王の考察として、八面という名前にこだわってみると、大分県中津市に、母なる山ともされているイワクラがある八面山がる。またこの山の近くには宇佐神宮があり、そこには八面にまつわる奇妙な伝承が残っている。それは鍛冶翁(かじのおきな)という伝承で、欽明天皇の29年(569年)、宇佐神宮境内のひし形池のほとりの泉がわくところに、一つの体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁が現れて、この姿を見たものはたちまち病気になって死んだという。大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿はなく、代わりに金色の鷹が見えた。比義が「誰かによって高に変えられたのか、自分の意思で鷹になったのか」と問うと、鷹は金色の鳩になって比儀の袂の上にとまりました。神が人を救済されようとして自ら返信されたことを知った比義は3年断食し祈り続けたところ、ついに欽明天皇32年(571年)2月初卯の日に泉の傍らの笹の上に光り輝く3歳の童子が現れ、「われは誉田の天皇広幡八万麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。わが名は護国霊験威力神通大自在菩薩(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、神道として垂迹せし者なり」と告げたという。これにより宇佐神宮が建立された。



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ヤマタノオロチを退治するスサノオの絵、あたかも初代産鉄民族を渡来系産鉄民族が打ち負かす構図になっている。


 ここででてくる1つの体に八つの頭、つまりこれは八面の翁(はちめんのおう)の話であり、さらに四国に行くと、宇和島にも八面山があり、高知県の芸西村と夜須町の境にある「滝の平」には、八面王(やつらお)という頭が8つの蛇の伝説も残っている。頭が8つの蛇といえば、神話でいうヤマタノオロチにほかならない。ここから八面山(大分県)→八面翁(宇佐神宮)→八面山(宇和島)→八大竜王社(葛城)→八面大王(安曇野)と、中央構造線にそって伝承が受け継がれていっている。つまり九州にいた初期さん鉄系民族(あえてオロチ族となずけておく)は、縄文文化と癒合しながら8つの頭の蛇を信仰し、九州から中央構造線にそって存在していた。その末裔が安曇野に定着し八面大王となったのではないだろうか。

 ではそんな産鉄系のオロチ族はなぜ藤原大和朝廷から敵視され、鬼呼ばわりされなければならなかったのだろう。そこには平城京遷都による責任の擦り付け合いが見え隠れする。律令国家となった日本では、土着の農耕民に対して租庸調等の税を課し、国家を強化していった。しかし、山に住む産鉄系民族は土着民ではないので戸籍は作れないので、農耕民からみれば不公平感が生まれるのは当然だと思われる。そこで大仏殿建立という一大国家プロジェクトを立ち上げ、産鉄系民族を全国から集め労役を課していった。しかしこの民族の末路は悲惨なものであったことが想像できる。水銀、銅、銀、金を使うことにより、平城京は極度の水銀等による重金属汚染を引きおきし、一説によると5千人から5万人といわれている重金属汚染患者を発生させた。これらを祟りと称し、鬼扱いし、見捨てていったのではないか。さらに平城京の人々も祟りをおそれてこの地を捨てていったのではないだろうか。

 最後にもしかしたら日本語の「すみません」という言葉は、この地には「すみません」といった平城京から逃げ出した人々の謝罪の言葉だったのかもしれない。