【中野剛志】実質賃金は企業が決める?【TPP亡国論】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 TPPが大筋合意に到り、情報も公開されている(http://www.kantei.go.jp/jp/headline/tpp2015.html)。
 TPPは「亡国最終兵器」だと主張していた人たちにとっては残念な結果となった(http://www.ch-sakura.jp/publications/book.html?id=1527http://ameblo.jp/hirohitorigoto/entry-12092730079.html)。
 論壇誌にもTPP大筋合意についての論評が出てきた。
 そこであらためて「TPP亡国論」をめくってみた。
 すると、奇妙な一節が目に留まった。


中野剛志 「TPP亡国論」 (集英社、2011年) 144~146ページ

▼輸出企業はデフレで得をする
 前章では、貿易自由化による安価な製品の流入がデフレを悪化させると述べました。しかし、デフレを悪化させるのは、輸入だけではありません。実は、輸出もデフレの原因になるのです。
 二〇〇二~〇六年、日本は、好調な輸出の主導で景気回復をしました。しかし、GDPの成長にもかかわらず、デフレを脱却することはできず、国民も景気回復を実感できていませんでした。
 景気回復の実感がなかったのも当然です。図6を見てください。この時期、輸出の好調にもかかわらず、一人当たりの給与は下がっていました。労働分配率も下がっており、特に大企業において、それが顕著だったのです。
 なぜ、このようなことが起きてしまったのでしょうか。それは、世界がグローバル化したからなのです。
 一般的に輸出企業は、競争相手の多い世界市場で厳しい競争にさらされます。とりわけ先進国の企業は、低賃金労働を武器にした新興国の企業とコスト競争を余儀なくされます。特に一九九〇年代以降は、中国やインドといった新興国が台頭し、低賃金にもかかわらず技能が高い労働力を供給するようになり、先進国の労働力と競合するようになりました。
 こうした激しいコスト競争の中で、輸出企業は、実質賃金を抑制せざるを得なくなりました。グローバルな世界における競争の結果として、労働者の賃金は、最も低い賃金の水準にまで低下していってしまうのです。これは、「底辺への競争」と呼ばれる現象です。
 輸出企業が成長する国では、国内の賃金水準も、代表的な賃金水準に引きずられます。こうして、グローバルな「底辺への競争」は、一国全体の賃金水準を下げるデフレ圧力となります。そして、グローバルな賃金引き下げ競争は、貧富の格差を広げます。企業が輸出競争力の強化によって利益を増やせば、株主や経営者は儲かるかもしれません。しかし、その輸出競争力の強化は、労働者の賃金アップを犠牲にしているのです。こうしてグローバル化は、格差を拡大するのです。
 格差問題に対しては、「輸出企業が稼いだ利益を政府が再分配して、格差を是正すればよいではないか」と簡単に言う人がいます。しかし、そうはいきません。なぜなら、グローバル化した大企業は、格差是正政策のために必要な負担から逃げようとして、政治に圧力をかけるからです。「企業の公的負担がこれ以上増えたら、われわれは海外に出て行かざるを得なくなる」とごねるのは、グローバル企業の幹部が使ういつもの手です。
 こうした現象は、二〇〇〇年代以降、欧米先進国でも起きました。しかも、そうでなくてもデフレだった日本では、「底辺への競争」の影響は、さらに深刻でした。」

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 「輸出企業はデフレで得をする」という見出しからしておかしい
 デフレが円高を招き、円高になれば輸出企業は損をするはずだ。
 中野氏と親しい三橋貴明氏は、「昨今の急激な円高の本当の原因は、日本のデフレである」と言い、円高で輸出企業は困るとも言っている(三橋貴明「経済ニュースが10倍よくわかる 日本経済のカラクリ」(アスコム、2010年)29、38ページ。ただし、円高が悪とは限らないとも言っているし、輸出企業がかなりの割合を海外で生産していることも指摘している。)。
 浜田宏一氏(現内閣官房参与)は、「デフレのときには円高傾向になります」と言い、輸出企業のみならず、国内市場で競合する輸入企業および国内企業にも「円高は非常にマイナス」だと言う(浜田宏一、若田部昌澄、勝間和代「伝説の教授に学べ! 本当の経済学がわかる本」(東洋経済新報社、2010年)6ページ)。
 とはいえ、本文を見ると、輸出企業が得をするという話というよりは、輸出企業の労働者が損をするという話なので、見出しの付け方が悪いとも言える。

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 私は経済学は特に勉強していない。
 しかし、そんな私でも、これは珍説、いや、謬論ではないかと思う。
 「こうした激しいコスト競争の中で、輸出企業は、実質賃金を抑制せざるを得なくなりました」という一文だ。
 企業が実質賃金を抑制するなんてことがあり得るの?
 抑制しようと思って抑制できるものなの?
 実質賃金はどういう計算式で求めるの?


飯田泰之 「世界一わかりやすい経済の教室」 (中経出版、2013年) 190~195ページ

5-3 デフレが起こす3つの大問題!!

飯田 以上はごくごく単純化した話。デフレによる物価の下落が、なぜ問題なのかをもう少し詳しく見ていくことにしよう。
 まずは問題を整理することから始める。デフレには大きく分けて労働市場の問題、実質金利の問題、資産価格の問題という3つの問題があるんだ。
 この3つがデフレという物価の問題を景気へと波及させるんだよ。

→ 労働市場で何が起きるか?
飯田 まず1つ目の、労働市場について考えてみよう。
 労働市場とは、自分を労働力として企業に供給する側である労働者と、労働者を雇う側(=需要する側)としての企業との間で、労働と給料の交換活動を行っている市場のことだ。

 ここで、労働市場の需要曲線と供給曲線を描いてみる(右図)。給料をもらう側である労働者にとって、もらった給料でどれぐらい生活ができるかが一番重要だよね。つまり、額面上いくら給料をもらえるかという名目賃金よりも、実際にその賃金でどれだけのモノが変えるかという実質賃金が重要だということなんだ。

ラビ 110ページでやった名目と実質の話だね。

飯田 だから、労働市場における需要・供給曲線の縦軸は、名目賃金から、インフレ・デフレの影響を除外した実質賃金になる。そして横軸を社会全体の雇用量とすると、人を雇う値段が安ければ、企業側はもっと人を雇おうと思うよね。だから労働需要曲線は「安いほど雇用量は多くなる」という右下がりの線になる。
 その一方で働く側は「たくさん給料をもらえるほど働こうとするから、労働供給曲線は右上がりだ。
 労働市場の価格である実質賃金がスムーズに動くなら、均衡点は通常、2つの曲線の交点であるE点になる。
 あるとき、労働市場の賃金が均衡状態にあったとしよう。つまりは図のE点だ。この状態だと、働きたい人はみんな働けていて、働きたくない人は働いていないという、非自発的失業がない――つまり完全雇用(潜在GDPをフルに発揮する雇用量)が達成された状態となる。

 完全雇用の状態というと、国内の労働人口のすべてが1人残らず働いているという話をイメージするかもしれないけど、そうではない。
 完全雇用の状態でなお失業している人のことを、自発的失業者と呼ぶんだ。現在の日本では、この自発的失業者(「こんな給料なら、財産があるし働きたくない」といった人)と転職のための一時的な失業である摩擦的失業者のパーセンテージは3~3.5%ほどだと言われている。

ラビ 完全雇用の状態が達成されても、一定数の失業は存在するということなんだ。

飯田 その通り。そして、自発的でもないし摩擦的でもない不況の影響による失業が非自発的失業だよ。

 失業者=自発的失業者+摩擦的失業者+非自発的失業者

 労働市場において注意しなければならないことは、契約書に実質賃金を書くことはできないということだ。つまり、契約書には○○円という名目賃金しか書くことができない。だから、労働組合による賃上げ要求も、この名目賃金を用いて行われる。
 そして、名目賃金は実は、そうそう下がらないという特徴がある。景気が悪くなったからって、すべての賃金契約を白紙に戻してゼロベースで賃金交渉をするなんてことはできないからね。

ラビ 給料下がったら困るよね!

飯田 給料が下がると労働者は困るから、労働組合も名目賃金を下げる契約更改には全力で抵抗する。だから、名目賃金はあまり下がらないという特徴がある。
 それに対し、物価は労働市場とは関係なく変化する。実質賃金は、名目賃金÷物価だね。ここで注意すべきは、物価が労働市場とは無関係に変動してしまうということだ。
 物価の下落(デフレ)が起こったとしよう。物価が下がって名目賃金がそのままだとどうなるかな?

ラビ 実質賃金は上がる!

飯田 そう。すると先ほどの労働市場の需要・供給曲線で実質賃金(縦軸)は、W0→W1に上昇することになる(次ページ図)。実質賃金が上がったということは、労働者を雇う企業側から見ると、費用の増加だ。高いから節約したい。すると、労働時間を減らしたり、正社員のリストラでなんとか対応しようとするんだ。
 実質賃金がW1まで高まると、確かにこの賃金で働きたい人は多いけど、雇おうとする企業は少ない(雇用量はL0→L1に減る)。つまり、労働供給は大きいのに労働需要が少ないというギャップが生じてしまっているんだ。これが非自発的失業の正体なんだよ。

ラビ ギャップって景気の話でも出てきたよね!

飯田 そうだね。より多くの人が働いたほうが当然GDPは大きくなる。
 労働市場だけを考えると、均衡点の労働量(L0)で生産が行われている状態が潜在GDPが達成されている状態――すなわち、完全雇用が達成されている状態。そして、非自発的失業がある状態での生産量が現実のGDPなら、ギャップ型不況が起きているということになる。
 現在の日本で、失業率が増大している理由として実質賃金の上昇は無視できない。そして、現在の日本で増えている失業者の正体は、非自発的失業者と考えるのが妥当じゃないかな。
 このインフレ率と失業率の関係は、イギリスの経済学者のフィリップスが発表したフィリップスカーブと呼ばれる、縦軸にインフレ率、横軸に完全失業率をとった曲線でまとめられるよ。
 下の図を見ると、インフレ率が高いときには失業率は低下し、インフレ率が低いとき、またはデフレのときには失業率が高い(=現在の日本)という関係がわかる。

 失業率の増大は、国内のさらなる消費の減退を招き、さらにデフレと不況を深刻化させていくことになる。
 フィリップスカーブからもわかるのは、日本経済が完全雇用にあるときには、物価は決してデフレではなく、緩やかなインフレの状態になっているということなんだ。」

※ 話者を記した。図は省略した。

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 実質賃金=名目賃金÷物価
 契約書に実質賃金を書くことはできない。
 名目賃金は下がりにくく、名目賃金がそのままで物価が下がると(デフレだと)実質賃金は上がる。

 「輸出企業は、実質賃金を抑制せざるを得なくなりました」だと?
 そんなバカな話があるものか。
 企業は物価を決められない。
 だから実質賃金も決められない。
 輸出企業が実質賃金を抑制することなどできない。
 仮にグローバル化でデフレになるとしても、デフレは実質賃金を上げる要因でもある。
 グローバル化を推進する企業がデフレの原因としつつ、かかる企業が実質賃金を下げる要因だというのは矛盾だ。
 中野氏の言っていることは滅茶苦茶だ。

 上に引用した「TPP亡国論」の一節は、他にも疑義があるだろう。
 輸入はデフレを悪化させるのか、輸出はデフレを悪化させるのか、景気回復の実感がなかったとする2002~2006年は平均給与が下がっても失業率が改善していたのではないか、新興国の企業とのコスト競争を余儀なくされるのは本当か、日本は輸出企業が成長を主導する国なのか、など。
 「TPP亡国論」を知った当時は今よりも経済学の知識はなかったし、中野氏は経済産業省の官僚であるから、中野氏の経済学の解説は大体当たっているのだろうと信頼したが、飯田氏の「入門書の入門書」とでも言うべきこの本に書いてあるレベルで間違っている。
 この短い文章に一体いくつのウソや詭弁が入り込んでいるのか(なお、輸入デフレ説についてはhttps://youtu.be/ZUV3Er8qLxA?t=3m55shttp://ameblo.jp/khensuke/entry-12092937897.html、失業率の推移についてはhttp://ecodb.net/country/JP/imf_persons.html、コスト競争についてはhttp://ameblo.jp/hirohitorigoto/entry-12103184819.html、輸出依存度についてはhttp://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10478063806.html参照)。

 昨年の記事でも紹介したが、中野氏は現政権における実質賃金の低下を殊更に問題視し、保守系の人たちが「実質賃金ガー」と安倍政権批判に煽り立てられてしまったhttp://ameblo.jp/bj24649/entry-11909293500.html)。
 しかし、中野氏の実質賃金の理解は基礎レベルで間違っている。
 あらためて中野氏の煽動を見てみると、胸くそ悪く、まさに「ヘドロチック」(by藤井聡)だ。
 上で紹介した「伝説の教授に学べ!」を文字って、こんな記事を書いている。


「【東田剛】変節の教授に学べ!」 三橋貴明の「新」日本経済新聞2014年4月2日
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/04/02/korekiyo-90/

「「名目賃金には硬直性があるため、期待インフレ率が上がると、実質賃金は一時的に下がり、そのため雇用が増えるのです。」
「名目賃金はむしろ上がらないほうがいい。名目賃金が上がると企業収益が増えず、雇用が増えなくなるからです。」

浜田氏のリフレ政策とは、物価を上げる一方で名目賃金を抑制することで、実質賃金を下げるべしというものだったのでした!
実質賃金を下げれば、雇用が生まれるというのは、典型的な新自由主義の発想です。

これで、浜田氏をブレーンとする安倍政権が、一貫して、実質賃金を引き下げるような改革を進めている理由も分かるでしょう。」

「いやはや、どうやら、とんだリフレリフレ詐欺に引っかかったようですね。」

※ 「東田剛」は中野剛志氏のペンネーム。


 「TPP亡国論」詐欺師がよく言うわ。
 デフレを脱却しつつ実質賃金を上げつつ失業率を下げろとでも言うのか。
 無茶な話だ。
 安倍政権叩きの結論先にありきで立論していると言ってよかろう。
 中野氏は「新自由主義」という保守的大衆の「思考停止のキーワード」を使って強弁して煽動しているに過ぎない(上念司「歴史から考える 日本の危機管理は、ここが甘い 「まさか」というシナリオ」(光文社、2012年)190ページ参照)。
 高橋是清による昭和恐慌脱出の時も実質賃金は下がった。
 デフレ脱却過程というのはそういうものなのだ。


「「実質賃金低下」の正体――“反アベノミクス”に反論」 日刊SPA!2015年5月30日
http://nikkan-spa.jp/861466 (山本博一執筆)

「 テレビなどでは「アベノミクスによって国民の所得は上昇しているかもしれないが、その分物価が上がっている。結果として国民の実質的な所得である『実質賃金』は下がっているから、実質的に国民の購買力が減少し、国民は貧しくなっている」と報道されています。確かに、このこと自体はまちがっていません。事実です。

 それではアベノミクスは失敗なのでしょうか? それも違います。なぜなら、デフレ脱却過渡期には実質賃金は「一時的」に下がる性質があるからです。今から約80年以上前、高橋是清蔵相がデフレ対策を開始した1931年以降も今起こっているような実質賃金の下落が観測されていました。

「 要するにアベノミクスのようなデフレ脱却策を採ると実質賃金は必然的に下落してしまいます。しかし、デフレ脱却過渡期を抜け、消費者物価の水準が安定すれば、物価の伸びに賃金の上昇が追いつき、やがて実質賃金は上昇に転じるでしょう。一時的にも実質賃金が下がるのが嫌だとおっしゃるのであれば、デフレを今後も維持、継続するしか方法はないと思います。」

「 アベノミクスの最優先事項は雇用の改善と、失業者を減らすことです。実質賃金の低下は確かに労働者の側から見ると実質的な購買力の低下となるのですが、企業側から見ると実質的に雇用のコストが下がることになります。雇用コストが下がれば、企業はそれだけより多くの従業員を抱えることが可能になるため、雇用者は増え、失業者数が減少します。

 ちなみにリーマン・ショック直後の2009年~2010年は実質賃金が上昇(図1)していましたが、この時期、我々日本国民は実質的な所得が増加したことにより生活が豊かになっていたかというと、そうではないと思います。実際は、失業率が急上昇(図2)して雇用はかなり悪化していました。「派遣切り」という言葉が流行ったように、真っ先にクビを切られたのは派遣や非正規労働者でした。もし仮に、まだ十分に失業率が下がり切っておらず、人手不足が深刻化していない2013年の段階で、無理やり実質賃金を引き上げるような政策(どうやって実現するかは不明ですが)を実行した場合、企業が雇用を増やすのかどうかは疑問です。リーマン・ショック直後の派遣切りの再来となっていたかもしれません。」

「あくまで最重要なのは雇用の改善です。失業率が低下し労働市場が人手不足になると、企業は雇用者を確保するために賃金を引き上げざるをえなくなってきます。まずは雇用の改善が先、賃金の上昇は後からついてきます。」


 先月、大阪府知事選挙および大阪市長選挙が行われたが、中野氏は、橋下徹氏を批判する論文でこう述べている。


中野剛志 「反官反民 中野剛志評論集」 (幻戯書房、2012年) 380~385ページ

大阪維新と批評精神

■―― ヒットラーと悪魔

(中略)
 本誌(「表現者」)の特集テーマが「大阪維新」についてであったため、やむを得ず、「独裁が必要だ」と公言しているという橋下氏について考察するために、小林秀雄が昭和三十五年に「文藝春秋」誌上で発表した「ヒットラーと悪魔」を読み返してみた。そして、「大阪維新」について高を括っていた自分の認識の甘さを思い知らされることになった。
 『わが闘争』を読み終わった小林は、ヒットラーについて、こう見抜いている。

  彼は死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。(「ヒットラーと悪魔」)

 これを読んだときは、背筋に寒いものを感じた。なぜなら、橋下氏は自著『まっとう勝負!』でこう述べているからだ。
<<政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。(中略)自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。(中略)別に政治家を志す動機づけが権力欲や名誉欲でもいいじゃないか!(中略)ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!ウソつきは政治家と弁護士の始まりなのっ!>>
 橋下氏も「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男」なのだ。そう言えば、『まっとう勝負!』という自著のタイトルも『わが闘争』に似ている。「政治家とは、権力欲、名誉欲の最高峰」と強調する橋下氏の下品な政治観は、ヒットラーのそれとまったく同じである。

 人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしかあり得ない。(「ヒットラーと悪魔」)

 もちろん、嘘ばかりついてやると公言している時点で、橋下氏には正直なところもあるのかもしれず、彼をヒットラーのように恐れるのは、過剰な反応かもしれない。
 それでも、甘く見るのはやはり危険なようだ。例えば、かつて自民党と公明党は、彼を大阪府知事候補に推したときは、単なる軽薄なテレビタレントだと侮っていたのだろうか。その後、裏切られる羽目になり、今では彼の権力の前に首を垂れているのだ。
 ヒットラーも、最初は、政治家たちに侮られていたのだと小林は言う。
(中略)

■――批評精神の力


 橋下氏が掲げる「大阪都構想」を、その中身が空疎であるとか、意味が不明であるとかいう批判は、的外れである。なぜなら、彼も、「大阪都構想」の意味には興味がないからだ。彼の興味は、ヒットラー同様、大衆を動員するプロパガンダにある。
(中略)
 橋下氏に限らない。今日、論壇と呼ばれる世界では、ほとんどすべて、一方的な主張の正しさばかりを押しまくる連中が「論客」としてもて囃されている。討論を通じて、より良い結論に到達しようなどというのは無駄である。相手の言うことにも一理あるなどと理解を示そうとしたが最後、相手は徹底的にそこに付け込んでくる。
(中略)
 橋下氏は、その凡庸極まりない政治観を、さも新しいものであるかのように、得意げに披露しているわけだが、彼が生まれる十年前に、すでに小林秀雄はこう書いているのである。

  批判という言葉は大流行だが、この言葉は、われわれは既に批判の段階を越えて、今や実力行使の段階に達した、と続くのが常である。批判に段階があるとは、おかしな事である。私の常識では、批判精神の力は、その終るところを知らぬ執拗な忍耐強い力にある。

 執拗な忍耐強い批評精神の力が失われたところに、議論なき「実力行使」を求める獣的な政治がはびこっていく。橋下徹を生み出したのは、言葉の意味に関心を失い、言葉をプロパガンダとしてしか使わない「無責任大学教授コメンテーター」たちの貧弱な批評精神だったのではないだろうか。
表現者41号 '12年2月」

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 私は別に橋下支持者でもないのだが、その言葉を、そっくり中野氏に返したく思う。

 「彼は死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。」
 これを読んだときは、背筋に寒いものを感じた。なぜなら、中野氏にこそ当てはまると思えてならなかったからだ。中野氏とて経産官僚であり、実質賃金を求める計算式くらいは知っているはずだし、忘れていても簡単に調べることもできる。とすれば、中野氏は平然と嘘をつく詐欺師だということになる。
 新自由主義批判、グローバリズム批判、TPP亡国論、はたまた「実質賃金ガー」を煽る中野氏の下品な政治観は、共産党のそれとまったく同じである。
 もちろん、頭のいい中野氏は嘘ばかりついてやると公言などしない。橋下徹よりもうまくやってやるという気構えだ。
 中野氏を甘く見るのはやはり危険なようだ。
 例えば、かつて保守論壇は、彼をTPP批判の急先鋒に推したときは、経済が分かる活きのいい若手論客だと甘やかし、違和感にも目を瞑っていたのだろうか。
 中野氏が掲げる新自由主義批判・グローバリズム批判を、その中身が空疎であるとか、意味が不明であるとかいう批判は、的外れである。なぜなら、彼も、新自由主義・グローバリズムの意味には興味がないからだ。彼の興味は、反米(延いては共産化)に向けて保守的な大衆を動員するプロパガンダにある。
 中野氏に限らない。今日、論壇と呼ばれる世界では、ほとんどすべて、一方的な主張の正しさばかりを押しまくる連中が「論客」としてもて囃されている。討論を通じて、より良い結論に到達しようなどというのは無駄である。相手の言うことにも一理あるなどと理解を示そうとしたが最後、相手は徹底的にそこに付け込んでくる。グローバル化デフレ説を批判されても、中野氏は意に介さず、繰り返し述べ続ける。
 執拗な忍耐強い批評精神の力が失われたところに、議論なき「実力行使」を求める獣的な政治言論がはびこっていく。中野剛志を生み出したのは、言葉の意味に関心を失い、西部邁氏のお墨付きを安易に信じた「保守言論業界人」たちの貧弱な批評精神だったのではないだろうか。

 中野氏は橋下氏をヒットラー呼ばわりする。
 では、橋下氏と対立する中野氏はソ連陣営か?
 中野氏はハイエクが嫌いなようだから、ハイエクのこの言葉を引こう。


渡部昇一 「戦後七十年の真実」 (育鵬社、2015年) 144ページ

「 私はハイエク先生が来日したときに、先生の通訳を務めました。奥さまの通訳もやりました。そういうわけで個人的にもお付き合いがありました。そのときに先生は、「我々が社会主義から学ぶことは何もない。ただ、社会主義の連中は馬鹿なことでも繰り返し、繰り返し述べる。そうすることを彼らから学ぶべきだ」といわれましたので、「なるほど」と思いました。これは私の人生にとっても非常に重要な教訓となりました。大きな岩でも叩き続けていれば壊れることもあるかもしれない、というひとつの人生観を与えられました。」

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 中野剛志氏を筆頭にして「TPP亡国論」を流布してきたチャンネル桜が「言志 第5号」を出す(https://www.youtube.com/watch?v=e9lLmV8A-78)。
 TPP大筋合意を受けて中野氏がどんな論考を書くのだろうと気になっていたが、なんと、中野氏が執筆陣から外れたhttp://www.genshi-net.com/)。
 これは一体どういうことか。
 中野氏は創刊号以来(電子版の頃を含む)、ずっと寄稿してきたではないか。
 よりによってTPPを巡るこの肝心な場面で抜けるとは不自然だ。
 中野氏は「TPP亡国論」を、
「この騒動が終われば、普通の暮らしに戻れるから」
という台詞で結んでいる(254ページ)。
 騒動を撒き散らしておいて、分が悪いと見るや、「普通の暮らし」に引っ込んでしまったのだろうか。
 それとも、TPP大筋合意を見てもなおTPP反対の姿勢を崩さなかった保守言論人たちを見届けて、既に反TPPのレールは十分に敷くことができたと考え、自分が前面に立つ必要もないと考えたのか。
 そう思われても仕方ないだろう。
 しかし、そんなやりっ放しは許されない。
 「反官反民」の帯にはこう書いてある。
「思想の確かさは、具体的な事象への判断によって試される。」(http://www.genki-shobou.co.jp/img/bookimage/bi092.jpg
 TPP大筋合意という「具体的な事象」があったのだから、中野氏の「思想の確かさ」が検証されるべきだ。
 特に、安倍総理大臣を支持する保守言論人たちは、中野氏の「思想の確かさ」を検証するべきだ(中野氏は安倍総理大臣をルーピー呼ばわりし、保守系の人たちを反安倍に煽動している。http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/06/26/korekiyo-50/)。

 これから先、TPPの国会承認がある。
 その時、TPP亡国論が再燃するだろう。
 TPP亡国論の支柱である中野氏を検証・批判する必要性はいまだに高い。
 とはいえ、中野氏は頭が非常によく、私程度では彼を論破することなどできない。
 しかし、中野氏に煽動された人たちが少しでも考え直すように、食い下がってみようと思う。