今日の自分は嫌なやつだった。
たとえば誰かに認められたいとか、よく思われたいとか、やさしくできなかった日。
一日の後半、心臓の天井が低く落ちていく時間を、無意識に唇を噛み締め過ごしている。
こんな時は寝るに限る。瞼が熱くなろうが、鼻頭がツンとなろうが、喉がひくつこうが、睡眠への努力をする。一日を強制シャットダウンするのだ。時計は止まらず明日もつづく日常をこなすためには、そうするしかないのだ。
そんな対処で凌いできた天井は、そろそろ耐用年数が来たようで、近頃悪夢を見ることが増えた。悪夢というのは面白い。完全に私のことを解っている。ただ悲しみや痛みがあるだけならまだしも、他の人からすれば笑えるような内容で、私にだけのクリティカルヒットを繰り出す。それは、嫌なことがあった日ではなく、決まって自分はなんて嫌なやつなんだと思った夜のこと。そんなところまで本当に、なんて嫌なやつなんだ。
昔、人から出てきた石を見たことがある。体から取り出したそれは、家族の前で見せないといけない決まりらしい。薄めで見たそれは怪獣のたまごのようだった。こんな気分の時はいつもその石を想像する。鳩尾の下の方にそれがぴったりと詰まっているような、そのうちカタカタと震え出し、暴れ出してしまうのではないかと他人事のように恐れているような、そんな馬鹿げたことを想像しては、いっそ産まれてくれたならきっと可愛がって鎮めてやれるのに、と思ったりする。
最近、大人だと言われることが増えた。年齢のことではなく、考え方のことを指して言われた言葉だ。あることに怒りを持って話す人に、でもきっとこういうことだったのでは、こういう考えもあるのでは、と話していた時のこと。大人だと言われた。でももしかするとそれは、ただ怒りを忘れてしまっただけのように思う。
それには理由があるのだ。私は長年、怒りや憎しみをエネルギーとすることを疑問に思ってきた。若かりし私は負の感情をプラスに変えられるとはどうしても思えず、そんな気持ちを抱きそうになる時にはその先を、そこから進める道を探すことを目指し、怒りに支配されないよう、どうにか抗い続けてきた。意図的に作り上げた凪を漕ぎながらたどり着いたいま、時に正しく、だけどすこし間違ってもいたように思う。この世には同じように怒ったり、腹を立てることで救うものもあるのだと、最近気づいた。
私の中にはまだ、怒りはあるだろうか。
いや、きっとあるのだ。
それがきっと悪夢で、それがきっと怪獣なのだ。
そのひとつひとつさえも愛おしく思えるようになれたなら、もう一度怒りを持つことが出来るのかもしれない。それが果たして正しいのかは分からないけれど、動かせる何かがあるのかもしれない。
そんなことを考えながら眠る今日、
いったい私はどんな夢を見るのだろうか。