八幡宮来宮神社:静岡県伊東市八幡野1

堂の穴:静岡県伊東市八幡野港近く

 

関東圏に住んでいれば、伊豆高原には一度は訪れたことがあるだろう。城ヶ崎海岸や大室山、一碧湖などがある著名な観光地だが、伊豆急行が昭和三十年代の半ばに開発した比較的新しい別荘地である。八幡宮来宮神社は、大室山の南麓5kmのところに坐す。延喜式内社「伊波久良和気命神社」の論社とされるが、八幡神は神護景雲3年(769年)に勧請されたと伝えられており、一国一社の八幡宮として当社が定められたという。祭神は、社名の八幡神、誉田別命と伊波久良和気命の二神で、現在は相殿だが、古くは別殿だったらしい。当地の地主神は後者なのだが、おもしろい伝承があるので紹介しておこう。

 

「来宮の神様は、瓶に乗って大昔、八幡野港の付近の金剛津根に漂着されたといわれている。それを海浜の洞窟(堂の穴)にお祀りしていたが、のちに現在地に移したのだという。この神様は大変に酒好きで、沖を通る船を止めては酒を献上させたため、船人たちは困った。そこで人々は一計を案じ、船が見える所にお祀りしてあるからこういう結果になるので、いっそ海が見えない所へお遷しすれば、ということになり、岡の方にお祀りした。現在の当社の一隅の「元屋敷」と呼ばれている所である。ところが、そこからもチラリと海が見えたので、再度お移ししたところ、以後は酒をねだらなくなったという」(*1)


伊豆高原の駅からだと徒歩で二十分ほど。住宅地の中を登っていく。石造りの明神鳥居をくぐり、石段を上ると朱の冠木門。その先は広々とした芝地。国の天然記念物に指定された照葉樹の見事な社叢が境内を覆う。神木の大杉は樹齢千年という。




勾配の緩い石段はところどころ苔生している。どことなくだが、越前勝山の平泉寺白山神社を思わせる。酒まみれの神様が坐すとはとても思えない清々しさで、他に参拝客はおらず、国道135号線の喧騒とはまったく無縁だ。奥の社殿までゆっくりと上っていく。巨樹が林立している。社殿手前、向かって左の植生にリュウビンタイの保存域がある。


リュウビンタイはシダ科の大型植物で、その名の通り琉球弧の島々、九州南部、熊野に分布し、ここ伊豆は自生地の北限である。黒潮に乗って太平洋沿岸伝いに当地にやってきたのか。その葉の形状を見るだけで、僕は南の島々に連れて行かれるのだ。紀伊半島に同じく伊豆半島でも海の傍に行くと、時として南方の空気を濃密に感じることがある。


前日。僕は中伊豆の定宿で、熱海の延喜式内社、多賀神社のことを調べていた。何冊か持っていった本の中に、私淑してやまない野本寛一さんの「石の宗教」があって、頁をパラパラ繰っていたら突如「洞の穴」の写真が目に飛び込んできたのだ。それは、僕の好奇心をいたく掻き立てた。脳裏に浮かんだのは、出雲の猪目洞窟だ。これは行かないわけにいかないだろう。

 

本宮から海に向かって下っていく。八幡野の交差点を過ぎ、伊豆急の高架下を行くとやがて八幡野漁港に出る。海を臨んで左側にダイビングサービスの建物。シーズンはダイバーで賑わうからか、小さな漁港の駐車場は漁協に用のない車の駐車を厳しく制限していたが、季節外れの夕方には車影は少ない。しれっと停めさせてもらい、車を出てダイビングサービスの脇の路地を行く。

しばらく行くと路地は細くなる。浜の道と名付けられた青い標識の傍らに石仏、いや石の神像だろうか。数体が壇の上に据え置いてある。祀られなくなったものをここに集めたのだろうか。雨風に削られたのかその表情すら明らかでないが、道祖神のようでもあり、なんだか心が和む。


先を行くと月極め駐車場になっており、行き止まりになるが、突き当たりの民家の脇を通り抜け、浜側に出たあたりに目当ての「堂の穴」はある筈だ。



目に入ってきた光景は異様というほかなく、一瞬我を失う。この場を覆う霊気に慄然とする。それは久々の経験だった。かつて琉球弧の御嶽や拝所を多数巡っていて、御嶽では度々こうしたところに遭遇したのだが、こんな聖地が観光地としてよく知られる伊豆高原にほど近い港の近くにあってよいものなのか。いや、逆だろうか。観光地になったのは、せいぜい数十年前だ。八幡野は、今でも伊豆半島のそこここにある、小さな漁村なのだ。ここに古くからの漁民の信仰があっても少しもおかしくはない。しかし、これほどまでにあらゆる祈りが凝縮し、剥き出しとなった聖地は見たことがない。神仏習合というより、俗信の坩堝に見える。


 


動画でご覧いただいた通り、まず入り口に石の観音像が並ぶ。歩みを進めると正面に粗末な朱の小祠が二つ、そして僧形の石像があり、浜の石が手向けられている。右に目を転じると奥が深くなっており、ここにも小祠がある。さらに左に目を遣ると同じく粗末な小祠が五つ。中心にあるひときわ大きな祠は、もはや祠の態を為しておらず、木の枠組みだけのガイコツである。その前には小さな朱の鳥居が立て掛けられ、その脇に瀬戸物の白狐が一匹。おわかりの通り、ここは来宮神ではなく稲荷神を祀っていることがわかる。

 





先に引用した文献(*1)を参照するとこんな記述があった。

「来の宮さんを最初にお祀りしたという『堂の穴』は海岸の聖地で、洞窟内には淡島さん、稲荷さんの祠のほか多くの石仏(三十三観音など)が並んでいる。八幡野は(中略)

岡と浜に分かれており、岡は農村、浜は漁村である。浜の婦人たちは出産のときやヒマヤ(月経時)のときには家を出て「堂の穴」のなかの淡島堂にこもって過ごし(煮炊きし)ていた」。これは数十年前まで若狭に残っていた産小屋の習俗に似ていまいか。

 

結局、なにが祀られているのかよくわからない。そこが聖地らしさと言えば聖地らしさ(エルサレムに同じく場所は動かないが、祈りの対象が変わる)なのだろう。ただ、おそらくたしかだろうと思うことがひとつある。それはここが海蝕洞窟であり、人の生活の場であった可能性だ。さらに、生活の場から後に葬所となった可能性も考えてみたい。ここは葬所、先祖を祀る場として以前このブログで取り上げた、出雲の猪目洞窟や南房総の鉈切洞穴と同質の聖性を帯びており、しかもそれが際立っている。となると、当地の歴史は弥生、或いは縄文時代にまで遡ることが出来るかもしれず、発掘すればなにか出てくるかもしれないとも思う。

 

今も神名として残る伊波久良和気命(イワクラワケノミコト)の「伊波久良」はかつての地名であった岩倉であり、単一の巨岩ではなくこの岩礁全体を磐座と見立てたのだろう。野本貫一氏はこう記す。「洞の穴の中の小祠の前には手向けられた浜石群が見られた。石俵といい、お百度石といい、そして何よりも岩窟崇拝を考えてみるとき、この地の石や岩に対する濃厚な信仰心を知らされるのである。来宮神社の神座が洞の穴から、山の中腹の現在地に移った時期、そして、神迎えの神座が洞の穴から御仮屋の中の石俵に移った時期は全く不明であるが、依り来の宮の信仰にもとづき、海から神を迎える座に石を用い、おごそかに神を迎える祭りは綿々と生き続けているのである」。(*2)

 

来宮神は、折口信夫がいうところの常世から来た「まれびと」なのだ。

 

(2018年3月4日、2019年9月8日、2020年3月7日)

 

出典

(*1)「日本の神々–神社と聖地−第十巻 東海」谷川健一編 白水社 1987年

(*2)「石の民俗」野本貫一著 雄山閣 昭和50年