人気ブログランキングに参加しています。
こちらをポチッ とお願い申し上げます。


かつての日本では

学生達は、皆、教育勅語を暗唱でき

また、学校では修身を学び、道徳観を養っておりました。

教育勅語とは

日本の教育の根幹と国民の培うべき徳行を説いた勅語で、

日本人が祖先から受け継いできた

豊かな感性と伝統的道徳観が込められており、

人が生きてゆく上で心がけるべき徳目が、

12の項目に別けられて簡潔に述べられております。


$何かおかしいよね、今の日本。

人権教育ばかりして道徳教育をしなくなった日本では

現在、学校が荒んでいます。

1980年代、アメリカも青少年が暴力や麻薬が蔓延していました。

それを救ったのは、

日本の「教育勅語」であり「修身」だったのです。

アメリカの小学校などで子どもが暗唱する有名な言葉があります。



the Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)

"I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the republic for which it stands, one nation under God, indivisible, with liberty and justice for all."

すべての者のための自由と正義もって、アメリカ合衆国の旗に、そして、それが、神の下の1つの分裂することのない国、共和国に、私は忠誠に約束します。


レーガン大統領と日本の修身
http://www.moral-science.com/reagan.html

あすか会教育研究所 所長 小池 松次

 レーガン大統領は就任すると直ちに道徳教育の復興に乗り出しました。当時のアメリカの青・少年の風紀は最悪で、暴力や麻薬の蔓延で荒廃の極に達していました。その原因は皮肉なことに、最高裁判所が「生徒規則や学校規則で生徒の自由を束縛してはならない」と決めたことでした。自由奔放で、やりたい放題で、規律や道徳教育不在では、まともな人物は育ちません。学校教育は成り立ちません。「アメリカは滅ぼされる」とレーガン政権は真剣に対策を検討しました。では一体、誰がアメリカを滅ぼすのでしょうか。敵軍ではありません。それは不良集団と化したアメリカの青少年達でした。
 その道徳教育改革のメンバーの一人が文部長官(日本の文部大臣に該当)を務めたW・ベネット氏です。彼は退任直後、レーガン政権の道徳教育の担当者としての知識を「The Book of Virtues」(道徳読本)という名の本にして出版しました。1993年(平成5年)のことです。この830頁もある大著が「第二の聖書」と言われるほど毎年ベストセラーになったそうです。「そうです」とは、当時筆者は「道徳読本」の存在を全く知らなかったからです。

 一方、日本では昭和45年5月(1970年)に筆者が「これが修身だ」という本を出版しました。内容は、明治37年から昭和20年(1904~1945年)までの修身と国語の国定教科書の中から、現代でも立派に通用する話を92篇選び出し、それを22の徳目に配分したものです。
 東販・日販が2万部を全国の書店に配本してくれたので期待していたら、有力な全国紙が、芥川賞作家と直木賞作家の2人を使い、ご丁寧にも2人の顔写真まで入れて、「古い道徳を集めた悪書だ」と大々的に報道したので売れ行きは散々でした。意気消沈していた時、東京のアメリカ大使館から、「ワシントンのアメリカ国立図書館に貴方の本を送ります」と、わざわざ注釈を付けた「これが修身だ」の注文書が筆者宛に舞い込みました。「棄てる神あり、拾う神あり」の諺に親近感を覚えた瞬間でした。
 翌年「昭和四十六年五月(1971年)に、また、「教育勅語絵巻物語」を出版しました。この本も「これは修身だ」同様、四つの新聞に保守反動だと大袈裟に批判されました。終戦後の世間の風潮は、「修身」と「教育勅語」を軍国主義の象徴だと勘違いして「目の敵」にしていたのです。しかし筆者は、「教育史学」のプロ意識と「國際比較教育学」の細かな見識を拠り所に、また、「No Gains without Pains(苦痛なくして進歩なし)」・「継続は力なり」の格言を支えに、浅学菲才を顧みず、「たった一人の反乱」に意地を通し続けて来ました。

世界の中の教育勅語

教育勅語に対する海外の評価

 1905年(明治38年)7月、ロンドン大学のリュッカー学長より、在ロンドン日本大使館を通じて日本国政府に「ロンドン大学での日本の教育に付いての講演会」の依頼がありました。日本政府は、英国に2度の留学経験があり、東京大学総長、文部大臣も歴任した教育行政の大家の菊池大麓男爵を英国に派遣しました。菊池男爵は自ら教育勅語の英訳に着手し、牧野伸顕文部大臣と菊池大麓を含む10人の専門家で何度も討議の上、東京大学の英国人教師のローレンスとロイドの2人の意見も聞き、更に、当時来日していたエール大学のラッド名誉教授にも見て貰い、「官定翻訳教育勅語」が完成しました。菊池男爵は、1906年(明治39年)12月に日本を出発し、翌年の1月に英国に到着して、2月14日からロンドン大学における講演を開始しました。菊池男爵のロンドン大学における7ヶ月間の間に行われた25回に及ぶ講演記録は、2年後の1909年(明治42年)に、英文の「日本の教育」(388ページ)として出版され、英国のマスコミ、教育界で大きな反響を呼びました。





お読みくださり有難うございます。
最後に、こちらをポチッ とお願い申し上げます。